第82話 ホアキンの二つの夢。
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玉座の間に、二人の男が入ってきた。
一人は車椅子に乗り、もう一人はそれを押している。
車椅子に乗っているのは、もうすっかり老齢であろう男だ。
頭髪はまったく残っておらず、目はほとんど開いていない。
枯れ木のような体に水色の病衣をまとい、茶色いガウンを羽織っている。
車椅子を前に進めるのは、真っ白な髪を七三に分けた六十代くらいと思しき男である。
丸眼鏡をかけており、勤勉そうに映る。
ただ痩せぎすなので、頼りない感は否めない。
車椅子を止めると、痩せぎすの男は深くお辞儀をした。
スフィーダのゆるしに従って、自らは赤絨毯の上に設けられた椅子に座る。
二人の顔立ちがどことなく似ているように感じられるので、スフィーダは「親子なのか?」と確認した。
その通りですとの返答があった。
さらに「父はホアキン、私はショーンと申します」と教えてくれたのだった。
ホアキンは意識の混濁が顕著で、もはやまともにしゃべれる状態ではないようだ。
それはとてもつらいことのように思われるのだが、ショーンに悲壮感はない。
まだフツウにコミュニケーションがとれた折、ホアキンはしばしば語ったらしい。
自分には夢が二つあるのだ、と。
一つは、こうしてスフィーダと会うこと。
ホアキンはもう長くない。
だから、謁見を申し込んだ。
父の念願が叶ってよかったと、ショーンは安堵の笑みを見せた。
「もっと早く、頭がはっきりしているうちに連れてきてやればよかったとも思うのですが」
それは今言っても、詮方ないことだ。
スフィーダはショーンに、ホアキンの二つ目の夢はなにかと訊いた。
「孫の顔を見ることです」
そういう回答だった。
「そなた、結婚はしておらんのか?」
「しております。最近、したんです。いわゆる晩婚です。しかも、かなりの」
ショーンは照れくさそうに頭を掻き、次に苦笑じみた表情を浮かべた。
「私は成人してからも、ずっと家に引きこもっていました。家を追い出されてからは、国からお金をいただいて暮らしておりました。どこまでも怠け者で、親と制度に甘えていたのでございます」
静かな口調でそう告白したショーンは、さらに続ける。
「自分の意思で表に出たのは、四十のときでした。ずいぶんと後れを取ってしまいましたが、それでもこの国の社会は、私のことを温かく迎えてくれました。多くのヒトに感謝しています」
スフィーダは「なるほどの」と頷いた。
「そなたが独り立ちしたとき、ホアキンはさぞ喜んだことじゃろうのぅ」
「それはもう。そして、それからというもの、父は長生きをしたい、このまま老いさらばえていくのをなんとかしたいと口にするようになりました。私にはきょうだいがいるのですが」
「ショーンの子が見たい。ホアキンはそう言ったのじゃな?」
「はい。できることなら、おまえの子を抱きたい。なにかにつけて、そう言われました」
「そなたはいくつなのじゃ?」
「六十二になりました」
「その年齢になるまで、出会いという出会いはなかったのか?」
「まことにお恥ずかしいことながら」
「恥ずかしいことではないぞ。妻の年齢も、それなりなのか?」
「それが、三十も年下でして」
「おぉっ。スゴいめぐり合わせじゃのぅ」
「はい。数奇な運命としか言いようがありません」
改めて、照れたように笑んだショーンである。
「では、子をもうけるのも不可能ではないということか」
「実は、もう生まれるんです」
「おーおーっ、ほんによい知らせじゃ。おめでとうなのじゃ」
「ありがとうございます。まったく、自分でも無責任な話だと思うのですが」
「無責任? どうしてじゃ?」
「成人にすら、立ち会えないかもしれないからです」
「そこは気合いでなんとかするしかあるまいな」
「き、気合いですか?」
「そうじゃ」
スフィーダ、「気合いじゃーっ」と力強く言って、右の拳を前に突き出した。
ショーンはおかしそうに、クスクスと笑ってみせたのだった。
◆◆◆
一週間後。
ショーンだけが、謁見に訪れた。
「一昨日、父が亡くなりました。急性の肺炎との診断でした」
そう聞かされた。
「孫は? そなたの子には、会えたのか?」
「私の子は、まだ妻の腹の中におります」
スフィーダは白い天井を見上げ、目を閉じた。
残念という言葉しか浮かんでこない。
顎を引き、視線を前に戻す。
意外とさっぱりした顔をしているショーンがいた。
「そもそも、会えたところで、なにもわかるはずがないのです。ぼけはそれほどまでに進んでおりましたから」
「そうであろうと、一目、見たかったことじゃろうと思う」
「私は本当に、親に迷惑ばかりをかけ、人生を過ごしてまいりました」
「母上は? 健在なのか?」
「もう五年も前に亡くなりました」
「そうか……」
「こんな情けない長男で、だから両親はずっと、恥ずかしい思いをしていたことだろうと考えております」
「親だってニンゲンじゃ。そう思うてしまう瞬間もあったことじゃろう。じゃが、いつまで経っても自らの子じゃ。かわいくないわけがない」
「そうでしょうか?」
「そうに決まっておる」
するとショーンはぽろぽろと涙をこぼし……。
「ああ……。私は本当に馬鹿で愚かな息子です。結局、両親には言えずじまいでした」
「なにを言えなかったのじゃ?」
「負担しかかけてこなかったのに、詫びの言葉を言えなかった。ごめんなさいを、言えなかった……」
「天に召された際に言えばよい。ただし、ありがとうと伝えることも忘れてはならんぞ?」
「はい。承知しております」
「めでたくこの世に生を受ける、そなたの子に祝福を」
「もったいなきお言葉」
ショーンは椅子から腰を上げた。
深々と立礼すると身を翻し、向こうへと歩き出した。
背筋がビシッと伸びた気持ちのいい姿勢で、彼は立ち去ったのだった。




