第55話 どうして今まで放っておいたのか。
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小さな鼻眼鏡をつけ、黒くて平べったい帽子を頭にのせ、祭服のような黒い衣装をまとっている側仕えの老人。
彼の名はノバクという。
ノバクが今の職に就いてから、もう久しい。
四十年くらいにもなる。
その間ずっと、スフィーダのそばでなんらかの業務に従事しているわけだが、彼女は彼がどういったことを専門としているかまでは知らない。
なにか事務処理的なことが得意なのではないか。
なんとなく、そんなふうに予測しているだけだ。
そんなノバクの現在の仕事の一つが、日々訪れる謁見者の対応である。
玉座の間に通じる大扉の前に立ち、彼らを順番に通すのは彼の役割なのだ。
謁見の場を設けてもらう以前、スフィーダは暇を持て余していた。
とにかく時間だけはあったので、暇潰しがてら、彼女はしばしばノバクとチェスに興じた。
二千年以上生きているスフィーダより、ノバクのほうが強い。
彼女は一度も勝ったことがない。
ぎゃふんなのだ。
ノバクとはそれなりに仲良しだと、スフィーダは認識している。
だが、彼女には知らないことがある。
声を知らないのだ。
なんと、彼がしゃべっているところに出くわしたことがないのである。
ここのところ、謁見者とのコミュニケーションが日常となっているわけであり、そのことがとりわけ楽しいわけであり、暇だと感じる瞬間も激減したわけであり、だからその事実に改めて気づかされたのは最近のことだ。
不思議なもので、気がつくと気になってしょうがなくなった。
だから、スフィーダ、ノバクにアプローチしてみようと考える次第である。
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夕方。
スフィーダの本日の仕事が終わったところで、ノバクが玉座の間に入ってきた。
ゆっくりと歩みを進め、所定の位置まで来ると、一礼だけして踵を返す。
立ち去ろうとする。
スフィーダは「これ、ノバクよ、待つのじゃ」と呼び止めた。
するとノバクは、やっぱりゆっくりと身を翻した。
ノバクはなにも発しない。
なにか御用でございますか?
それくらいは言ってもよさそうなものなのに。
四十年ものあいだ、口をつぐんできた。
それほどまでに謎めいたことを、どうして今まで放置していたのだろう。
反省したくなるスフィーダである。
「ノバクよ、おまえはどうしてしゃべらんのじゃ?」
玉座の上のスフィーダのことを、ノバクはつぶらな瞳で、じっとじっと見つめてくる。
あまりにじっと見てくるので思わず身を引いてしまったが、これではいけないと思い、彼女はすぐに背を正した。
「な、なにかしゃべってくれぬか?」
無言のノバク。
「しゃ、しゃべってほしいのじゃ」
やはり無言のノバク。
「しゃしゃ、しゃべってくれ。頼む」
すると――。
「承知いたしました」
手を合わせてお願いのポーズをとっていたスフィーダは顔を上げた。
ノバクは微笑んでいた。
「お、おぉぉ、やっと口を開きよったか」
「お望みとあれば、お応えしないわけにはまいりません」
「なぜ、今までわしの前では口を利かなかったのじゃ?」
「陛下になにかを申し上げるなど、恐れ多くて、とても、とても」
「そんな理由じゃったのか?」
「はい」
「なんじゃ、それは」
拍子抜けしてしまった。
肩も垂れ下がるというものだ。
「じゃが、そなたのことを気にも留めずにいたわしに原因があるとも言える。本当に名前しか知らなかったのじゃ」
「それでよかったのでございます。私は影のような存在を望んでおりますゆえ」
「いや、だったとしても、わしは心配りに欠けておった。本当にすまんかった。この通りじゃ」
スフィーダは深々と頭を下げた。
「こちらこそ、陛下にお気を遣わせてしまったようで、申し訳ございません」
「よいのじゃよいのじゃ。おまえは頭など下げるな。して、ノバクは何歳なのじゃ?」
「六十九でございます」
「おぉ、結構行っておるな」
「陛下に比べれば、まだまだでございますが」
「老後を満喫しようとは思わんのか?」
「できるだけ長く、お仕えさせていただきとうございます」
「そう言ってもらえると嬉しいのじゃが、そなたの細君はどう思っているのじゃ?」
「日々の陛下のご様子を話すだけで、妻はころころと笑って喜ぶのございます。私は陛下のおそばをゆるされたことを、本当に嬉しく感じているのでございます」
「そうか。おまえが嬉しいのであれば、わしも嬉しいぞ」
「そうなのでございますか?」
「うむ。これからも、よろしく頼む。体にだけは気をつけるのじゃぞ?」
「承知いたしました」
そして、ノバクは去っていった。
玉座のかたわらに控えているヨシュアが、「実のところ、彼の役割については、あとがつかえているのでございます」と言った。
「そうなのか?」
「陛下の側仕えなど、人気があって当然でございましょう? 陛下ご自身が人気者であらせられるわけですから」
「なるほどの。確かに、わしは人気者じゃ。はっはっはじゃ。はっはっはなのじゃ」
そのとき、ちっと舌を打ったような音が耳に届いて……。
「ななっ、ヨ、ヨシュアおまえ、今、舌打ちせんかったか?」
「気のせいでございます」
「し、したぞ? 絶対にしたぞ?」
「気のせいでございます」
「わ、わしが人気者だと気に食わんのか?」
「気のせいでございます」
「それしか言えんのか!」
「気のせいでございます」




