第312話 生き物はおもちゃではないはずのに……。
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毛の短い、薄い茶色の犬である。
体が大きい。
赤いスカーフを首に巻いていて、それがなんともおしゃれである。
かわいいっ!
そう思ったが最後、スフィーダは玉座を離れるより他にない。
短い階段をぴょんぴょんと下りて、犬の前で膝を折った。
よっしゃ、来い!
そんな思いなのである。
飛びついてこいという意思表示なのである。
しかし、茶色の犬には伝わらなかったようだ。
犬はスフィーダのほうを少し見ると、すぐに赤絨毯の上で丸くなったのだった。
スフィーダ、残念に思う。
もっと愛嬌があって、もっと愛想を振りまいてくれるような犬に見えたからだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
犬の飼い主であろう。
リードを持っている少女が、繰り返し頭を下げる。
「よいのじゃ、よいのじゃ。人見知りする犬もおるじゃろう。柴犬じゃな、こやつは」
「わかるんですか?」
「だてに二千年以上も生きておらん」
スフィーダはハッハと笑った。
笑ってみせたのだが、目の下のそばかすが目立つ、まだ十一や十二といったところであろう少女は、目尻にじわりと涙を浮かべた。
「ど、どうしたのじゃ? どうして、泣きそうな顔をするのじゃ?」
「毛並みを見てわかりませんか?」
「う、うむ。結構、年を食っていそうなのはわかるぞ」
「そうです。きっともう、長くないんです」
「獣医にそう言われでもしたのか?」
「そんなことはないんですけれど……」
「だったら、心配は要らんということじゃ。このふてぶてしさ。立派な犬じゃ。きっとまだまだ長生きするぞ」
なにが悲しいのか、少女はいよいよ両手で顔を覆い、泣き出してしまった。
「どどっ、どうした? どうしたというのじゃ? その理由を教えてくれ」
「このコ、ストーンっていうんですけれど」
「まさに力強い名じゃな」
「はい。このコが本当に好きなのは、私のお姉ちゃんなんです」
まだ事情を掴みかねているので、スフィーダは首をかしげた。
眉をひそめたりもした。
「いったい、どういうことなのじゃ?」
「このコはお姉ちゃんの宝物でした」
「でした? 過去形なのか?」
「新しい、スゴくかわいらしいチワワが来たんです。そしたら、お姉ちゃんはストーンのことには見向きもしなくなって……」
「そ、そんなの、いかんではないか」
「だから、私がたくさん、遊んであげようと決めたんです。でも、ストーンはあまり私に懐いてくれません。お姉ちゃんに優しくしてもらった思い出が、頭から離れないんだと思います」
「そなたの姉はいくつなのじゃ?」
「十四歳です」
「それくらいの年なら、うまく立ち回ってもよさそうなものじゃが……」
「とにかく、それが本当のことなんです」
スフィーダは丸くなったまま眠っているように見えるストーンの頭に右手を伸ばした。
途端、がうがうと吠えられたてしまった。
そんなこと、予想もしていなかったものだから、ことのほか驚いた彼女である。
「こんなこと、スフィーダ様に話すようなことじゃないのはわかっているんです。でも、どうしたらこのコの苦しみを軽くできるんだろう、って……」
スフィーダは腕を組んだ。
「そなた、名前は?」
「アヤです」
「新しい犬も、姉上に首ったけなのか?」
「そうみたいです……」
「つらいのぅ」
「はい。つらいです……」
アヤはまた、ぽろぽろと涙をあふれさせた。
「だいぶんおじいちゃんなんだから、いっぱい幸せになってほしいんです」
「わしはの、アヤよ。そなたの行為は、けっして無駄ではないと思うのじゃ」
「私はお姉ちゃんの代わりにはなれませんっ」
「そうであるなら、ストーンの面倒を見てやる必要はないはずじゃ。ただなんとなく、飼ってやっていればいい。だが、そうではないのじゃろう? ストーンはそなたの家族に幸福をもたらした存在じゃ。それは間違いないのじゃろう?」
ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らすアヤ。
「ストーンは私が生まれたときから家にいました。私はストーンと一緒に大きくなったんです。なのに、誰からも祝福されることなく、死んでしまうなんて……」
「どうやら、そなたはおませさんのようじゃの」
「おませさん?」
「いい意味で言っておる。十やそこらの娘が、そこまで悩むのじゃ。そなたは利口なのじゃ。口にする言葉にも気遣いが感じられる。素晴らしいぞ」
「素晴らしいんですか?」
「そうじゃ。そなたは素晴らしい女子じゃ」
「ストーンはまた、お姉ちゃんに優しく撫でてほしいんだと思います」
「じゃろうのぅ」
「でも、お姉ちゃんにそうしてもらえないと、ストーンはかわいそうなままです。誰にも不幸になってほしくありません。みんなに幸せになってほしいです」
「ストーンはこんなにかわいいのじゃ。どうか、どうかそなたを含めたそなたの家族には、最期の瞬間まで面倒を見てもらいたい」
「お姉ちゃんに言ってみます。ストーンは悪くないんだから、最期まで仲良くしてほしい、って」
「アヤよ、言葉では言い表せないくらい、そなたは立派じゃ」
「でも、私はストーンになにもしてあげられていません」
「でも、これからがんばるのじゃろう?」
「はい。がんばります」
スフィーダはストーンに額に手を伸ばす。
やっぱり、がるるるるっと怒られてしまった。
◆◆◆
後日、またアヤが訪ねてきた。
泣きながら、泣きながら。
「ストーン、保健所に連れていかれてしまいました……」
「えっ? な、なぜじゃ? どうしてじゃ?」
「私のことを噛んだんです。そしたら、パパとママが、ヒトを噛んだ犬はそのままにはしておけない、って……」
「そう、か……」
確かに、そういうこともあるだろう。
わかる話だ。
「ストーンは、なにも悪くないのに……。寂しいから、かまってほしかっただけなのに……」
アヤは大声を上げて、泣き出した。
「悔しいよぅ、悔しいよぅ。生まれたときから一緒だったのに。ずっと一緒だったのに!」
スフィーダは玉座から腰を上げ、階段を下って、自らより幾分背の高いアヤに抱きついた。
途端、抱き返された。
アヤは「悔しいよぅ、悔しいよぅっ!」と、また言った。
スフィーダもこらえ切れずに、涙を流した。
こんなに悲しいことはない。
アヤが言った通りだ。
ストーンはただ、かまってもらいたかっただけなのに……。




