第289話 ボウルではなく、どんぶりである。
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ねじり鉢巻をして、純白の前掛けをつけている男が、そーっとそーっと、中腰で赤絨毯の上を歩いてくるのである。
両手で大切そうに持っているそれは、陶器製であろう、白いボウルだ。
ボウルの中身はわからない。
ただ、液体がなみなみと注がれているのではないか。
そうでなければ、慎重に歩まなければならない理由なんてないだろう。
「よいぞーっ! そこでじっとしていろ!」
スフィーダは玉座を立ち、短い階段をぴょんぴょんと跳ねて下り、たたと駆けて男の前にまで至った。
「恐縮です、スフィーダ様」
男は片膝をついてみせた。
大げさに「ははぁ」と頭を垂れるのである。
「恐縮だとか、そんなことは気にするな」
「もったいなきお言葉」
「ええぃ。だからそんなことはどうだってよい。なんというか、実に食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐるのじゃが?」
スフィーダはそう言いつつ、ボウルの中を覗き込む。
麺だ。
麺類だ
白くて太い面が琥珀色の液体に浸かっている。
シンプルだからこそ映えるのは白ネギだ。
見た目がシャープで美しい時点で、すでにポイントが高い。
「ふむ。よい香りがしていると思ったら、やはり食べ物のようじゃの。して、このボウルの中に入っているのはなんという料理――」
「ボウルではございません!」
ねじり鉢巻の男、恐らく二十代の後半であろう男がいきなり噛みついてきたので、スフィーダは思わず、どひゃっと身を引いてしまった。
「ボ、ボウルでなかったら、なんなのじゃ?」
「どんぶりです! どんぶりといいます!」
「む、むぅ。聞いたことがないぞ?」
「二千年以上も生きていて、ご存じないんですか!?」
「キ、キツい言い方をしてくれるではないか」
「私はプサルムのニンゲンです。カナデ王国での修行を終え、この国に帰ってまいりました」
「修行? どういうことじゃ?」
「どういうことでもいいですから、まずはこれをご賞味ください!」
「じゃから、このボウルの中身はなんなのかとわしは訊いて――」
「ボウルじゃありません! どんぶりです!」
「ま、間違えたのじゃ。すまん。しかし、あまり声を張り上げるな」
「食べてください!」
「あいわかった。ごちそうになるとしよう」
スフィーダ、割り箸を受け取った。
どんぶりを片手で持って、空いている手で箸を使えということなのだろう。
だが、どんぶりの大きさに対して、スフィーダの手は小さいのである。
「ど、どうやって食べればよいかの?」
「私が間違えました。どんぶりは私が持っています」
「じゃあ、頼む。しかし、どんぶりを持った感じ、もうだいぶん冷めてしまっているような気が――」
「わざわざお城の台所をお借りして作ったんです! これ以上は無理です!」
「わわっ、わかった。わかったから大声を出すのはやめてくれ」
「食べてください!」
「う、うむ」
スフィーダ、箸は苦手である。
普段はフォークにナイフにスプーンなので当然なのである。
しかし、それっぽく持つことには成功したのである。
いよいよ、どんぶりに入っている白くて太い麺をいただいたのである。
つるっと口に入れ、咀嚼し、飲み込んでから「むっ」と唸った。
爽やかでありつつ透明感のある香りが、口の中いっぱいに広がったのだ。
スフィーダ、食いしん坊なので、次々に口へと運ぶ、つるつるつる。
食べ終えると、どんぶりを失敬してスープを飲んだ、じゅるじゅるる。
完食である。
片膝をついたままでいる男に、「うむっ」と一つ頷いてみせたスフィーダである。
「メチャクチャうまかったぞ。なんという料理なのじゃ?」
「うどんでございます」
「ほぅ、うどん。知らんのじゃ。カナデで修業したと申しておったな?」
「うどんはカナデのソウルフードですから」
「おぉっ、ソウルフードときたか。よい言葉じゃの」
「いろいろあってカナデもたいへんでしたけれど、ついにプサルムに出店できるようになって、その一号店の主が私なんです」
「一号店ということは、これからもあちこちで出店するつもりなのか?」
「そこは私のがんばり次第です。プサルムで売れたら、どこの国でも売れると思いますから」
「果てはアーカム、あるいは曙光でも出そうというのか?」
「食に国境はありません」
「深い。その言葉は深いぞ」
「ありがとうございます」
男はやっと破顔した。
「本当に深い香りがした。このスープはどうやって作って――」
「スープではありません! つゆです!」
「わ、わかった。悪かった。このつゆはどうやって作ったのじゃ?」
「昆布だしとしょうゆが命です」
「昆布? しょうゆ?」
スフィーダは目を白黒させる。
昆布煮しょうゆ。
聞いた覚えがあるようで、聞いた覚えがないのである。
「昆布は昆布です! しょうゆはしょうゆです! 直伝の技が成せることなので、詳しくお話しすることはできません!」
「企業秘密というヤツじゃな。にしても、ほんにそなたは声が大きいのぅ」
「うどん屋は威勢のよさが重要です!」
「いろいろと、たいへんじゃな」
「馬鹿にされているんですか!!」
「いい、いや、そうではない」
「スフィーダ様、できればの話なのですが」
「よいぞ。申してみよ」
「調理自体は簡単なんです。ですから、ときどき、麺とつゆを持ってきて、振る舞わせていただいてもよろしいでしょうか? スフィーダ様やヴィノー様にはもちろん、食堂でもお出しできるようになれば、私は本当に幸せです!」
「それはかまわんじゃろう。のぅ、ヨシュアよ」
いつの間にやら左隣に立っていたヨシュアに、スフィーダはそう訊ねた。
「なんの疑いを抱くこともなく出されたものを食べてしまう。私は陛下のそういうお花畑さに辟易しています」
「中身をこぼさぬようにどんぶりを運んでくる男が、悪者であるわけがなかろう?」
「ああ。まったくもって、楽観的すぎます」
「これからは気をつける」
「まるで説得力のないお言葉ですが」
「なんだってよいから、うどんをメニューに組み入れろ。城勤めのみなも喜ぶぞ」
「御意にござます」
男が目を輝かせた。
「ほ、本当にいいんですか?」
「ダメ元でやってきたのか?」
「それはもう。オッケーをいただけるなんて、思いもしませんでした」
「そういうわりには、自信満々のように見えたのじゃが?」
「味には自信があります」
「それでよい。実際、うまかったからの」
「カナデにいる師匠にも、いい手紙が書けます」
「がんばるのじゃぞ」
「はい! がんばります!」
ネフェルティティ、それにダインやリヒャルトも、うどんを口にする日がやってくるのだろうか。
そう考えると、少なからず笑えた。




