第281話 お姫様抱っこをされながら。
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夜の海。
普段通り、ノースリーブの白いドレス姿のスフィーダ。
彼女は左右の手にそれぞれ白いヒールを持って、静かに打ち寄せる波を、えい、えいと蹴飛ばしている。
振り返った先には、黒い軍服姿のフォトンがいる。
フォトンが砂浜の上に両膝をついた。
「おいで?」
そうとでも言いたげに、目を細めてみせた。
「おまえが来い!」
スフィーダはヒールを放り出して、両手で手招きする。
仕方ないなあ。
フォトンは、そんなふうなことを言いたそうな顔。
やがて波打ち際まで、フォトンが、やってきた。
その先にまでは、踏み込もうとしない。
ブーツを濡らすのが嫌なのではないか。
だからスフィーダ、「ブーツくらい、また買ってやる!」と告げた。
フォトンは海に足を踏み入れてくれた。
フォトンにいきなり体を持ち上げられた瞬間、「ひゃっ」と短い悲鳴が漏れた。
女王であるというだけであって、お姫様になれることなどないのだろうが、横抱きにされると、妙に、否、素直に嬉しい。
空を見上げるフォトン。
その視線の先を眺めるスフィーダ。
「わしより月のほうが綺麗か?」
悪戯をするようにそう言ってやると、フォトンは律儀にかぶりを振った。
「おまえがなにを言いたいのか、すぐにわかってやれればと思う。ヴァレリアは羨ましいなと思うのじゃ。とはいえ、すぐには通じ合えんからこそ、わかり合えることもあるのかもしれんの」
フォトンはこっくりと頷いて見せた。
その通りとでも言いたいのだろうか。
「わしは幸せ者じゃ」
自然と出てきた言葉だ。
「わしは本当に幸せ者じゃ」
スフィーダがそう言うあいだも、フォトンは月を眺めている。
細い月を。
「満ち欠けするからこそ、月は美しいのかもしれんのぅ」
するとフォトンは首を横に振り。
「満ち欠けするからこそ、月は悲しいとでも言いたいのか?」
するとフォトンは首を縦に振り。
「おまえはときにロマンティストになる。そしてわしは、そんなキザなおまえが、案外、好きではなかったりする」
フォトンが眉根を寄せてみせた。
「安心せい。嫌いじゃとは言っとらん」
フォトンはホッとしたように肩を下げた。
今夜だけで、何度、フォトンという名を呼ぶことだろう。
そう考えるだけで、楽しくなる。
「他の民と同様に、おまえもまた、わしの子なのかもしれんの。ああ、そうじゃ。おまえには子供っぽいところがある」
首をかしげたフォトンに、「いいや、おまえは子供じゃ」と追い打ちをかけてやった。
「少なくとも、わしの前ではほとんど子供じゃ。ヴァレリアの前では、大人ぶっておるのかもしれんがの」
月明かりが、今夜はまぶしく感じられる。
海という暗闇が、より映えるように見せているのだろう。
「厳密に言うと、わしには恋敵などいないのじゃ。わしは悠久のときを生きる魔女なのじゃからの」
また首をかしげたフォトンに、スフィーダは「まあ、よくわからんじゃろうな」と微笑みを向けた。
「おまえは、ジェルの血を継いだ男じゃ。ジェルは家を守るために、わしとの離別を選んだ。おまえはどうしたい? ……なんてな。すまぬ。とても意地の悪い質問をした」
スフィーダは息をついて、それから先を紡ぐことにした。
「おまえがどうあろうと、わしはおまえとともに死にたい。この気持ち、わかるじゃろう? 悠久のときを生きるからこそ、死を選ぶことに意味がある。のぅ? それくらい、わかるじゃろう……?」
今度はフォトン、勢いよく首を横に振った。
彼は真面目な顔をする。
怒っているようにすら見える。
「おまえはわしに生きろと言うのか?」
無言のフォトンは頷いて。
「……殺生な話じゃ」
鼻の奥がつんとしたが、スフィーダ、今夜は泣かないと決めていた。




