第265話 あたしはそんなの嫌だから。
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「ピット!」
後方からそんな声が聞こえた。
スフィーダは即座に振り返る。
ミカエラの姿があった。
七宝玉の攻撃を食らったせいで、軍服はずたぼろだ。
ヨシュアの手を借り、なんとかといった感じで立っている。
ピットを助けたい、救いたい。
その目が瞳が、そう語っている。
「あるいは彼女は貴方に恋を? だとするなら、非常に興味深い場面です。私の生涯の中で唯一面白いと言っていい」
「テジロギさん、テジロギさん……っ」
「ピット・ギリー中尉、姉上とまた会いたいというのなら、彼らを一掃してもらえますか?」
「わかった。わかったよ……」
立つにしたって傷が痛むはずだ。
立ち上がればさらに痛みが増すはずだ。
それでもピットは立ち上がり、鋭く強い目で睨みつけてくる。
「ピット、やめて! お願い!」
心からの声だろう。
ミカエラがそう叫んだ。
「いいぜ、いいッスよ。来いよ。スフィーダ様でもヴィノー閣下でも、ミカエラでもいい。俺を止めてみせろよ。そんなの、簡単なはずだ」
「ピット! やめて!」
「だから、それしか言えねーのかっつってんだよ。俺はテジロギさんに……テジロギさんを信じて……っ!」
ピットが改めて七宝玉を走らせようとしたところで、ミカエラが「ダメぇっ!」と大きな声を発した。
次の瞬間だった。
椅子に座ったままでいたテジロギの胸を、黄金色に輝く槍が貫いた。
がはぁっ!
途端に血を吐いたテジロギ。
前方に倒れ込んだテジロギ。
今一度振り返ると、左手でミカエラの腰を支えたままのヨシュアの姿があった。
彼は空いている右手で、無慈悲な槍を投擲したのだ。
「ミスター・テジロギ、貴方がいなくなれば、すべて片づきます」
「ば、馬鹿なぁ……っ。私が死ねば、ピット・ギリーの願いは未来永劫叶わず……っ」
ピットは「う、うぅっ」と呻き、次に「テジロギさあぁんっっっ!」と叫び声を上げた。
ヨシュアは「これでいいんですよ」と確信めいた口調で言った。
「これ以上、怪物は生まれない。死者も、よみがえったりはしない。ピット、あるいは貴方の敗北です」
とても冷たい笑みを浮かべたヨシュア。
「本当に残念でしたね、ピット、貴方の姉上が生き返ることなんて、あり得ないんですよ」
「うわぁっ! うわああああああっ!!」
ピットは頭を抱え、そのうち左右の拳を床に叩きつけ始めた。
そんなピットに、ずたずたのミカエラが足を引きずりながら歩み寄る。
ミカエラは地面に這いつくばっているピットのことを見下ろす。
そして、彼の胸倉を無理やり掴むと、彼女はその頬にビンタをかましたのだった。
「しっかりしてよ、ピット! アンタが、アンタがセシルさんのことが好きだったっていうのは知ってる! 痛いほどわかってる! だけど! だけど、それでもあたしはアンタのことが好きになったんだ! お願いだから、セシルさんのことなんて忘れてよ!!」
「ミカエラ……無茶、言うなよ……」
「ミカエラじゃない! アンタはいつもあたしのことをミカって呼ぶんだ!」
「姉貴のことを取り戻したいんだ。どうしたって、どうしたって……」
「死人は生き返らない。それくらい、わかってるでしょ!」
「だからよぉ、ミカエラ、デケェ声出すなよ。うるせーからよぉ……」
うるせーからよぉ。
その一言を聞いて、ミカエラの怒りにはいよいよ火がついたらしい。
ミカエラは何度も何度も、ピットの頬を張る。
ピットはなにも言わずにそれを受け続け、ミカエラはやがて顔を両手で覆ってしまったのだった。
「ピット。本当に。わかる? アンタにわかる? アンタがセシルさんの話をするたびに、あたしが嫉妬してたの、わかってる? わかってるんでしょ……?」
「……わかってるよ」
「えっ……?」
「ああ、わかってる。わかってるさ……」
「そうな、の……?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だよ。冗談ほざくシチュでもねーだろ」
「だったら!」
「ミカ……」
「なによ……?」
「姉貴が帰ってくるかもしれないってのは、さっきも言った通り、夢でしかねーんだよ。姉貴は死んだ。おまえは生きてる。たったそれだけのことだ。だから……わかってるんだよ、頭では、わかっているんだよ……」
「……キス」
「あん?」
「キスっ」
「ああん?」
ミカエラが仰向けのピットの上に馬乗りになった。
「もうダメなの。言葉だけじゃ、足りないの、信じられないの」
ミカエラの声は、切実さを帯びている。
「アンタのことは誰にも渡さない。だからピット、アンタも誓ってよ。あたし以外の女には見向きもしないって、約束してよ」
ピットの「俺って、移り気だからなあ」というまあるい声には、優しさがあった。
「そんなふうに、ふざけたふうにものを言えるんだったら、もう大丈夫だよね? ねぇピット、そうだよね?」
「二回目だ。姉貴は死んで、俺はおまえが好きなんだ。俺自身、混乱しちまった。そんな俺を見ていたおまえからしたら、もっと混乱したんだろうな。ああ、それくらい、俺だってわかって……。悪い。泣きそうだ。なんでそうなのかは、やっぱよくわかんねーんだけど……」
ミカエラがピットにキスをした。
もう逃がさない。
そんなふうな勢いを孕んでいるように見えた。
ピットのことを上から下に押しつけ、ミカエラはキスを続ける。
あまりに長い口づけだったからだろう。
キスをやめた瞬間、二人は揃って「ぷはっ」と息を吐いた。
「ピット、愛してる愛してる愛してる……っ!」
「だからよぉ、姉貴は死んだんだ。わかってるんだ……」
「だったらあたしから目を逸らすな!」
「わかってんよ、わかったよ。俺が間違ってた。……わりぃ」
潔い謝罪だった。
ピットはもう心配ない。
ミカエラの想いが、言葉が、冷たく凍えていた彼の心に温もりを与えたのだ。
近づいてきたヨシュアが、「陛下、帰りますよ」と言った。
スフィーダは彼に対して、「このあと、二人はどうなるのじゃ?」と訊いた。
「場所は関係ありません。床の硬さも問題としないことでしょう」
「と、いうことは……?」
「はい。ここで二人は初めて体を重ねることに――」
「やめろぉっ! 生々しいことを言うなぁっ!!」
スフィーダは両手で顔を覆った。
しかし、指のあいだは開いているわけだ。
床に転がっているピットと、彼の上になっているミカエラは、見つめ合っている。
この空間には、テジロギの死体が転がっている。
しかし、そんなことはおかまいなしに、ミカエラは乱暴に上着を脱いだ。
美しい背中だ。
本当に美しい。
とてつもなくイレギュラーな状況での、体の交わり。
ヨシュアの移送法陣で去りゆく中、スフィーダは微笑んでいた。
若者同士の愛し合う姿を見ることができて、彼女はとても、満足していた。




