第207話 まるでガラスが砕け散るように。
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面積の狭い黒のビキニを身につけているのは、エヴァ・クレイヴァーである。
まさに健康美という体つき。
プールサイドに腰掛け、一緒にバシャバシャと水を蹴り上げているのだが、それだけで、なんだか楽しいのである。
そんな、日曜日の昼下がり。
「そなたが休日に訪ねてくるなど珍しいのぅ」
「珍しいもなにも初めてじゃない。っていうか、ちょっとした規律違反よね」
「大いに規律違反じゃ。そなたは今、前線にいるはずなのじゃからな」
「リンドブルム中将はそこまでお堅いヒトじゃないわ。そうでなくとも、言わば私はライセンス持ちなんだし。ある程度の自由はゆるされるのよ」
「傲慢じゃな」
「陛下はお堅いのね」
「北の動きになにか変化は?」
「なにもナシ。あったらさすがに戻ってきたりしないわよ」
「ティターンは強いのじゃろう?」
「そうらしいわね。だから、いつ戦争が始まるんだろうってドキドキしてる」
「エヴァ」
「はーい。わかってるわよぅ。好戦的なのはよくないっていうんでしょ? でも、私としては、いろいろと試してみたいの。本当に魔法がうまくなってるっていう実感があるし、そうであることをもっと実感したいから」
「じゃからといってじゃな」
「だ・か・ら、適宜やるだけだってば。暴走なんてしないわ。そんなに愚かじゃないわよ、私って」
後方から誰かが近づいてくる気配。
振り返ると、予想通り、ヨシュアがいた。
真っ白なバスタオルを持って、歩んでくる。
「陛下。そろそろ上がられてはいかがですか? お風邪を召されてはたまりませんので」
「今日は暖かい。今しばらく、大丈夫じゃろう?」
「よほどの理由がない限りは、お上がりくださいませ」
「仕方ないのぅ」
スフィーダは腰を上げ、身を翻し、両手を上げた。
すかさずヨシュアが柔らかな手つきで体を拭いてくれる。
エヴァがスフィーダの隣に並んだのだ。
「閣下、私の体も拭いてくれない?」
「貴女は馬鹿なんですか?」
「い、言うに事欠いて馬鹿とかっ!」
「今回の件は大目に見ます。早く北方の警備の任に戻りなさい」
「わかってるわよ。ねぇ、閣下、そんなことより――」
「早く北に行ってしまいなさい」
「い、行ってしまいなさいとか! それはさすがに言いすぎよ!」
「貴女には期待しています」
「それ、誰にでも言ってるんじゃないの?」
「ええ。その通りです」
「な、なんて暴言吐くのよ」
「この上なく柔らかなニュアンスで述べているつもりです」
「か、閣下、貴方ねぇっ――」
「異議は受けつけません。永久に、です」
「そこまで言わなくたって……」
エヴァがショックを受けたような顔をする。
泣き出しそうな顔に見えたのは気のせいだろうか。
後ろに誰かの存在を感じたのは、そのときだった。
スフィーダは振り返り、エヴァも身を翻す。
もはや懐かしさを覚える存在。
白いローブをまとった、緑色の魔物が宙に浮いていた。
頭髪はなく、ただただ緑色。
瞳の色まで緑。
青年くらいに映る。
とっくに殲滅し尽したものだと思っていた。
どこに隠れていたのだろう。
また、どうして訪れたのだろう。
魔物の表情は切羽詰まったものであるように見受けられる。
スフィーダは当然「なんの用じゃ?」と問うた。
「に、兄さんの敵っ!」
緑の魔物はそう言って、目を鋭くした。
「そなた、兄がおったのか?」
「ア、アバっていう」
「ああ、そうか。偶然に違いないが、アバのことはよく知っておるぞ。わしの大好きな姫を死に追いやってくれたゆるせぬ輩じゃ。安心しろ。痛いのは一瞬じゃ。滅してくれよう」
すると、隣から「待ってよ、陛下」とエヴァが声を掛けてきて。
「私がやるわ」
「馬鹿を言え。アバは大馬鹿であったが、相当な使い手じゃった。あの弟とやらが同じような力量なのであれば、恐らくそなたでは敵わんぞ」
「敵わない? そんなこと、やってみなくちゃわからないじゃない。言ったわよ? 私は成長する魔法使いだって」
「じゃから、それはまだ言い切ることができぬことであって――」
スフィーダがまだものを言っているところで、エヴァが突っ掛かった。
自らもバリアを張りつつ、それをもって相手のバリアに勢いよくぶつかっていった。
「ちょっ! 待つのじゃ! エヴァ!」
そう叫んだスフィーダではあるが、「もう遅い。やらせてみましょう」とヨシュアに言われた。
やれやれと呆れたような、彼の口調だった。
なにせ、あのアバの弟だ。
やはり弱くはないだろうと予測される。
しかしエヴァは、力尽くで百メートル以上、押し返した。
そして、右手から黄金色に輝く矢を幾本も放った。
アバの弟、そう名乗った魔物のバリアが砕け散る。
まるでガラスが粉々に割れるように。
もはや雌雄は決した。
エヴァは容赦しない。
針状の細い矢で相手を串刺しにした。
最近放てるようになったという雷でぼろぼろにした。
果ては炎で炭の一つも残さずに焼き尽くしたのだった。
強い。
確かに強くなっているように見える。
エヴァが戻ってきた。
ヨシュアの前で胸を張り、顎を持ち上げ、「見た?」と偉そうに言った。
「服を着なさい、エヴァ・クレイヴァー。そして任務に戻りなさい」
「相変わらずそっけないのねぇ。でもそんな閣下のこと、嫌いじゃないわ」
「戻りなさい」
「はーい」
エヴァはヨシュアの手からバスタオルをさっと奪うと、それで髪を拭きながら、歩いていった。
彼女の軍服はスフィーダの私室にある。
着替えが済み次第、移送法陣を使って現場に戻ることだろう。
「ヨシュアよ」
「はい」
「見た限りじゃと、エヴァは確かに成長しているように見受けられる」
「彼女については、特異な存在だと信じたいところでございます」
「エヴァが強くなると困るのか?」
「私の意見を申し上げても?」
「そう言っておる」
「これほどまでに、可能性を否定したくなったのは初めてでございます」
「例外の存在はよくないと言いたいのじゃな?」
「さようでございます。不確定要素の存在は排除したいのでございますよ」
ヨシュアは右手を額に当て、深刻そうに俯いてみせた。




