第186話 穏やかなとき。
日曜日。
スフィーダはプールサイドに腰掛け、脚で水をバシャバシャと蹴り上げていた。
特になにも考えていない。
考えていないのだが、ふと思い出されることがあった。
緑の肌をした魔物の長、オベリスクのことが頭をよぎったのだ。
惚れてはいない。
間違っても、そんなことはない。
殺してやるときも、迷いなどなかった。
断罪するつもりで、介錯するつもりで、首を刎ねてやった。
それでも、思うのだ。
見映えのする男だったな、と。
美しい少年だったな、と。
潔い子供だったな、と。
とにかく殺しはしたものの、オベリスクのことをそこまで嫌おうという気にはなれない。
同じ人外同士、本当は仲良くできたのではないか。
それこそ、友人にだって、なれたのではないか。
しかしそんなこと、今さら思い返しても、仕方がない。
そのとき、正しいと思ったから、正しいと考えたから、斬首した。
それだけだ。
それだけのことだ。
スフィーダは脚でバシャバシャするのをやめ、よっこいしょと立ち上がった。
途端、後方からタオルで包まれる。
だけど、気配が違った。
やんわりとしたヨシュアの手つきより、幾分、乱暴だったのだ。
後ろを振り返る。
すると、そこには黒い軍服姿のフォトンがいて。
スフィーダは意外であるあまりに目をぱちくりさせ、ぽかんと口を開けた。
「フォトンよ、いつからわしのことを見ておったのじゃ?」
そんなふうに訊ねても、当然、口の利けないフォトンからは、なにも返ってはこない。
まあいいや。
そう思い、スフィーダは両手を上げた。
体のあちこちを、フォトンが拭ってくれる。
じゅうぶんに加減をしているつもりなのだろうが、ヨシュアのそれと比べると、やはり、ずいぶんと力が強い。
彼のそんなぶきっちょさが、また愛おしいのである。
まんべんなく体を拭ってもらったところで、スフィーダはしゃがんだ格好のフォトンの首に両腕を巻きつけ、抱きついた。
その瞬間、吹き飛んだ。
オベリスクの思い出など、消し飛んだ。
フォトンが背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「なにかあった?」
そう問いたいのだろう。
「よいのじゃ、よいのじゃ。おまえが気にすることではない」
フォトンの首筋に、ちゅうっと唇をあてがう。
本当に、怖ろしいまでに太い首だ。
大好きな首だ。
だが、肉体だけではなく、無論、性格だって好きだ。
多分、いや一生、彼より好きな男は現れないだろうなと本気で思う。
とにかく思い切り吸いついてやったので、フォトンの首筋にはキスマークがついたことだろうと思う。
スフィーダは心の中で快哉を叫んだ。
ざまあみろ、ヴァレリア!!
◆◆◆
昼食はヨシュアを含め、三人でとった。
二人の男子は揃って体が大きいので、並んで座ると窮屈そうに見える。
こんな立派な体をしていて、立派な志を持っているニンゲン二人が、なりふりかまわず自らの道をゆかんとする生き様には、やはり敬意を表したくなる。
言わずもがな、フォトンとヨシュアは特別だ。
プサルムの有史以来の稀有な才能を有していると言っても、なんら過言ではない。
もっと言ってしまうと、あるいは自らを越える可能性だってなくはない。
スフィーダは二人のことを、そんなふうにも評価しているのだ。
シミュレーションしてみても、ヨシュアに勝てるビジョンは明確ではない。
フォトンについても、膂力によって力任せに来られたらどうなるか。
とにもかくにも、二人は買うに値する。
なにかの折には彼らに守ってもらうことができる。
それってとても、いや、確実に、贅沢すぎることなのだろう。
食後の紅茶の時間。
「さて、ヨシュアよ。なにか話のネタでもないのか?」
「ございません」
「そ、即答か」
「指揮官も有能であれば、兵も優秀ですから。現状、防衛ラインの充実に注力する。それだけでじゅうぶんでございます」
「そう聞かされると実に心強いが……」
「おや。私の言葉が信用ならないと?」
「そうではないが、おまえはときどき嘘をつくじゃろう?」
「はて。そんな記憶はございませんが」
「馬鹿を抜かせ」
「そう言われましても」
「今、なにもないのであればそれでよい。じゃが、有事の折には、その旨、わしにきちんと知らせるのじゃぞ?」
「それは以前にも聞かされましたね」
「じゃったら尚のこと、肝に銘じておけ」
「御意にございます」
「うむ。して、フォトンよ」
スフィーダが目をやると、フォトンは相変わらずの鋭い目を返してきた。
「兵の育成は順調か?」
フォトンはこくりと頷いた。
「人員は揃いつつあるのか?」
また、こくり。
「以前にも勝る部隊になるとよいのぅ」
またまた、こくり。
「こういう時間がいつでもとれるとよいのじゃがな」
苦笑したスフィーダ。
ヨシュアの「フォトンは責任ある立場です。たまにでご容赦ください」という言葉に、スフィーダは「わかっておる」と答えた。
らしくもなく、フォトンがにこりと笑ってみせる。
「あ・い・し・て・い・ま・す」
はっきりとそう口を動かしてみせたものだから、スフィーダは赤面した。
もう少し、恥じらいというものがあってもよいのではないか。
そうも考えたのだが、素直に気持ちを伝えてもらえると、やはり嬉しいのだ。




