第179話 思わぬ事態。
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その日の夕方、プサルムの首相であるアーノルド・セラーが、玉座の間を訪れたのだった。
どうしてアーノルドが?
なにも事情を聞かされていない。
首相がじきじきに訪ねてきたことから、重大な用があるのだろうとの予測はつくが。
アーノルドはビシッと立礼すると、スフィーダのゆるしに従い、椅子に腰掛けた。
いつもフラットな彼なのに、今日はなんだか難しい顔をしている。
怖い顔をしているようにも映った。
「ヴィノー閣下、今ならまだ間に合います。考え直していただけませんか?」
アーノルドは開口一番、そんなことを言った。
「私の意思は変わりません。変わりようがありません」
「しかし」
「作戦は継続します。なにがあっても、です」
二人がなにを話しているのかまったくわからないので、スフィーダはまず左方を見上げてヨシュアの様子を伺い、それからアーノルドへと視線を戻した。
彼女は、自分が焦っていることを自覚する。
不安な思いばかりが頭の中で広がるからだ。
「ヨシュアよ、いったいどういうことじゃ? なにがあったのじゃ?」
「陛下が知る必要はございません」
「そ、そんな言い方はないじゃろう? 今まで二人三脚でがんばってきたではないか」
「この先もずっとそうでございます。私は陛下のために尽くします」
「の、のぅ、お願いじゃ。アーノルドでもよい。何事なのか、教えてもらえんか?」
「私がお話しいたします」
「セラー首相」
「ヴィノー閣下、黙っていてください。私は到底、この事態を容認できない」
「貴方がなにをおっしゃったところで、なにも変わりません」
「それでも、この場で陛下にお伝えします」
アーノルドは冷静な、否、少し怒りが込められたような口調で、「ヴィノー閣下の奥様、クロエさんがさらわれました」
耳を疑いたくなる知らせだった。
背筋を冷たいものが滑り落ちる。
次の瞬間、思わず玉座から立ち上がり、スフィーダは「な、なんじゃと!?」と大きな声を上げていた。
彼女はヨシュアを見る。
彼はとても静かな表情で、目を閉じている。
「だ、誰じゃ? さらったのは何者じゃ? 声明、あるいは情報が飛び込んできたからこそ、こちらの知るところになったのじゃろう?」
「さすがです。陛下は冷静でいらっしゃる」
「そっ、そんなことはないぞ、アーノルドよ。これでもかってくらい、わしは取り乱しておるぞ?」
「ヴァーミリオンズ」
「ヴァーミリオンズ? ……あっ」
思い当たる節があった。
確か、先日、グスタフを脱国してきた男が話していた。
自ら達がそうであった、と。
「ご存じなのですか?」
「知ってはおる。グスタフの特殊部隊じゃろう?」
「朱色が識別子ということですかね。目立つ色だ」
「そんなことはどうだってよい。改めて問うぞ。さらわれたということは、先方からなにか要求があったということじゃな?」
「グスタフはもはや、傾きかけています」
「傾きかけている?」
「はい。降伏するからある程度の自治は認めてほしい。そういう話があったのです。我々もハインドも、譲歩するつもりでいた。その矢先に、この出来事です。ヴァーミリオンズなる連中は、どうしても負けを認めたくないらしい」
「具体的に、ヴァーミリオンズはなんと言ってきておるのじゃ?」
「我が軍とハインド軍に撤退しろとのことです。でなければ」
「でなければ……?」
「クロエさんを殺害すると脅しをかけてきています」
「さらったというのは事実なのじゃろうか。あるいはブラフということも――」
「どうあれ行方をくらましたのは事実なのです。万一のことがあった場合、私を含め、関係者はみな、絶対に後悔することになります」
「それは首相としての物言いか?」
「倫理的な観点から発言しているという部分もあります」
「話を聞いていて感じたのじゃが、要するにアーノルドよ、そなたは軍を引くのもやぶさかではないと考えているということか?」
「無論です」
ここでヨシュアが「それがいけないと言っているんですよ」と冷たい調子で言い放った。
「セラー首相。確かに人質の命は大切かもしれません。ですが、要求を飲めば、相手を図に乗らせることになる。そうでなくとも――」
「ですから、貴方の言い分くらいわかっているんですよ、ヴィノー閣下。それでも、見過ごすわけにはいかないと言っているんです」
「繰り返します。作戦は続行します」
「首相の権限で止めることも可能なのですが?」
「そんなもの不要です。グスタフは取り潰します」
もはやスフィーダは怒っていた。
なぜ、自らの妻を蔑ろにできるのだろう。
どうして、人間味の一つも見せることなく非情な決断を下せるのだろう。
スフィーダは玉座から腰を上げ、ヨシュアの向き合った。
怒りゆえにぎりりと奥歯を噛んでから、「ヨシュアよ、しゃがめ」と命令した。
彼は言う通りにした。
したからこそ、彼女の右のビンタを、まともに食らったのだった。
アーノルドのほうへと振り向くスフィーダ。
「アーノルドよ、ダメじゃ。作戦中止じゃ。女王としての命令じゃ」
すっくと立ち上がったヨシュアが、凍てつくような視線を寄越してきた。
スフィーダは負けることなく睨み返す。
ヨシュアは言った。
「自らの妻のことだから、このような言い方をしています。自分のせいで迷惑はかけたくない。彼女なら、絶対にそう考える」
「それは違う。ヨシュアよ、間違っておるぞ。クロエはおまえのことを深く深く愛しておるのじゃ。再びおまえに会いたい。そう思わぬはずがない」
「脅しに屈してはなりません。誰の命が秤にかけられようと、一度決めたことは貫き通さなければならない。セラー首相、以上です。私の妻のことは、気になさらなくて結構です」
「ヨシュア、貴様ぁっ!」
「陛下もお黙りくださいませ」
「本当に後悔しますよ? ヴィノー閣下」
「そうです。事後、私が苦悩すれば済む話です」
椅子から腰を上げ、立礼し、身を翻したアーノルド。
彼はやがて大扉の向こうへと姿を消した。
ヨシュアの言い分はわかる。
彼の判断は、あるいは正しいのかもしれない。
否、正しいとしか言いようがない。
だが、しかし……。
スフィーダの目からは涙があふれた。
ヨシュアに抱きつく。
彼は優しく頭を撫でてくれた。
「こんなことがあってよいのか? ゆるされるのか……っ」
「よくはない。ゆるせることでもない。だからこそ、容赦することなく、すべて叩き潰すんですよ」
「じゃが、クロエが、クロエが……」
涙が止まらなかった。




