第167話 自ら手首を切り落とした。
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白いブラウスの袖がぷらぷらしていたので、右の手首から先がないことはすぐにわかった。
名はテイラー。
艶やかな金髪が美しい、二十歳の女子である。
「訊きづらいことから訊くぞ。右手はどうしたのじゃ? いつ失くした?」
「もう三年も前のことです」
「理由、あるいは原因は?」
「私の家は片親だったのですけれど、日常的に父から虐待を受けていました。そして、父は自分が眠るとき、それに仕事に出るときには、必ず私を拘束したんです。虐待がばれないようにするために。私が逃げられないようにするために。手錠を右手にはめられて、反対側は固定されたテーブルにつながれて……」
「助けは呼ばなかったのか?」
「猿ぐつわをされましたから。はなから諦めていたということもあります。……でも」
テイラーは俯いていったん口をつぐみ、それから意を決したように顔を上げた。
「父が仕事に出掛けたあの日……あの日に限って、刃物が、鋭く光る包丁が、手の届くところにあったんです。なぜかはわかりません。とにかく、あったんです」
「……なるほどな。だいたい、わかったぞ」
「そうです。包丁で手首を切り落としました。がんばって、がんばって……。叫び、泣きじゃくりそうになるくらいの痛みをこらえて……」
「すぐに病院にかかったのか?」
「いえ。お金は持っていなかったんです。だから親戚の家に飛び込みました」
「その親戚はさぞかし驚いたじゃろう?」
「はい……」
「そなたが父子家庭だったと過去形で述べた理由もわかった。今はもう、付き合いがないのじゃ?」
「とてもではありませんけれど、怖くて……」
テイラーはまた下を向いた。
「怖いときは逃げてよいのじゃ。不幸な目に遭ったな。片手がないと、難儀することも多いじゃろう?」
「そうですね……。ですけど、今の私は幸せなんです」
「恋人でもできたのか?」
「結婚したんです」
「おーっ。それはまことめでたいではないか」
「ありがとうございます。彼が私を支えてくれています。とにかく何度も好きだと言ってくれます。そして……優しく抱いてくれます。感謝しても感謝しきれません」
「なによりじゃ。それにしても、最近、身の上話をする者が多いのぅ」
「あっ、ご迷惑でしたか?」
「いや、むしろ逆じゃ。みな、わしになら話せると思ってやってくるわけじゃ。それは信頼されていることの証左じゃろう? だから、嬉しく思うのじゃ」
「そういうことですか」
「そういうことなのじゃ」
「……一つだけ、不安があるんです」
「不安?」
「街で父と出くわさないか、それが少し心配で……」
「虐待を受けていた旨を、警察には話しておらんのか?」
「私がいなくなった以上、父は一人ぼっちなんです。罰はそれだけでじゅうぶんかな、って……」
「わしはそうは思わんがの」
「そうですか?」
「うむ。牢の中での反省を促す必要があると思うぞ」
「でも、やっぱり……」
「いや。わしのはただの意見じゃ。そなたがどう考えるか、それが重要じゃ」
「だったら、このままにしておくことにします」
「まったく、感心な娘じゃの。ほんに、大したものじゃ」
恐縮してしまいます。
そう言って、テイラーは微笑を浮かべた。
愛らしい笑みである。
「末永く、夫と幸せにな」
「はい。ありがとうございます」
◆◆◆
三日後。
玉座の間。
椅子の上で、テイラーは浮かない顔をしている。
「どうしたのじゃ? なにかあったのか?」
「夫が刺されました……」
刺された?
まさか……。
「きっと父は、私と夫が一緒に歩いているところを見掛けたんだと思います。それで、どこからともなくあとをつけて……」
「どうしてそなたではなく、夫が刺されたのか……」
「どうしてだと思われますか?」
「恐らく、そなたを不幸のどん底に陥れてやりたかったのじゃろう」
「やはり、そうなのでしょうか……」
「わしはそうじゃと考える。とはいえ、父親が犯人ということで、即刻、捕まったのじゃろう?」
「はい。現行犯ですから」
「夫の容態はどうなのじゃ?」
「背中を刺されたんですけれど、無事です。近いうちに退院もできると」
スフィーダ、「それはよかった」と安堵した。
「父は父なりに私のことを愛していて、だから私に戻ってきてほしかったのかもしれません」
「じゃから、そういう考え方はよくないぞ。虐待は虐待、犯罪じゃ。そんな親に同情するなと、わしは言いたい」
「そうあることが正しいのでしょうか……」
「とにかく、くだらない思考に振り回されるな。夫を愛していろ。それだけでじゅうぶんじゃ」
スフィーダがそう告げても、テイラーは沈んだ顔をやめない。
優しい性格なのはわかる。
だが、凶悪極まりない父に肩入れするのはよくない。
「テイラーよ」
「はっ、はい」
「女のことを軽んじる男はクソッタレじゃ。それだけは肝に銘じておけ」
「でも、私は父のことを……」
「あるいは、その思いは夫に対する裏切り行為に値するかもしれんぞ?」
「裏切り、ですか……?」
「天秤にかけろとは言わん。じゃが、なにが一番大切か、それだけは忘れてはならん」
「それは……言うまでもありません」
「じゃろう?」
「はい」
「やはり、罪人に同情してはならんのじゃ」
「でも、スフィーダ様なら、きっとどんなヒトが相手でも……」
「鋭いのぅ」
スフィーダは苦笑した。
「同情とまでは言わんが、そのニンゲンが罪を犯す過程までを考慮してしまうと、どのような裁きが正しいのか、わからなくなることもある」
「やっぱり、そうなんですね」
「悪いクセみたいなものだと、わしは認識しておるのじゃがな」
「でも、私はお優しいスフィーダ様のことを尊敬します」
「わしには過ぎた言葉じゃ」
「いいえ。尊敬します。尊敬させてください」
テイラーは、心地よさそうに笑ってみせた。




