悲劇はどこで救われるのか
芸人の江頭2:50が、映画「キッズ・リターン」についてこんな発言をしているらしい。
「観ているオレたちは救われているのに、アイツらは決してハッピーじゃない。この引き裂かれるような感覚がオレを切なくさせるんだよね」
この発言を聞いて、(なるほどなあ)と思った。この発言を切り口として、以下、簡単に自分の考えを書いていきたい。
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元々、自分にとって「悲劇というのはなぜ存在するのか?」というのが疑問だった。過去の古典文学を見れば、大抵は悲劇である。おまけに、主人公は狂人や人殺し、女たらしなど、ろくでもない人間が多い。どこかの哲学者が言っていたが、「利口ならば問題は起こらない」のであって、問題が起こらなければ、ドラマは起こりようがない。
喜劇をハッピーエンド、あるいは現実の中で「幸福」になる物語とすると、現在のエンタメが指向するのはそこで、それは大衆の欲望と一致する。僕の中のある部分の欲望とも一致する。人は「現実に幸福になりたい」のであって、その程度が下がれば「なろう小説」なんかが現れるが、「幸福」の定義を何にするにせよ、幸福になりたい事は変わりがない。
そこで、「現実はどうあれ、物語内で幸福になれる話」というのが溢れてくる。これは見やすい話で、主人公に共感して読む人は、主人公には幸福になって欲しいわけである。例えトラブルが起こっても問題は解決され、最後には願望は成就する。それは誰だってそうだと言われれば、そうだろう。では、悲劇というものはどうして書かれねばならないだろう? 自分に似た主人公が破滅する物語は一体、どうして書かれるのだろう?
自分が想定しているのはソフォクレス「オイディプス王」のような、根底的な悲劇である。どうしてあのような悲劇は作られねばならないのだろう? 現代的観点からすれば、あのような物語によって誰が「得」をするのか? 「ワンピース」という大ヒット漫画があるが、主人公ルフィの首が急にちょん切れて、死の恐ろしさ、運命の過酷さが作品内で現れるとはまず考えられない。
それでは悲劇は何の為にあるのか? 人間の悲しさ、虚しさ、生きる事の悲哀を示す意味はどこにあるのか? 冒頭の江頭の発言とも関わるがーー結論から言うとーー悲劇は「観客」というメタな視点によって救われる。その作品内部においては救われないとしても、それはそれを見て、主人公に共感し、悲しんでいる「観客」という場所において救われる。つまり、主人公達は悲しい運命によって破滅するとしても、それを観ている「観客」は存在するのであり、その場所によって、主人公達は救われる。なぜなら、彼らはその運命を「見られていた」からであって、「共感」を受けるのであって、そこで、彼らの悲しい人生が見えない形で他者と交流する。
例えば、現実に、無実の罪で牢獄に入れられて死刑になる人というのを想定してみよう。この人物は、「自分は殺してはいない」という事実を自分だけが知っている。他の誰も知らず、他の人間は全て彼を「ろくでもない人殺し」と決めてかかっている。法律も裁判も彼が殺したと結論づけ、逃げ道はない。彼は絶望の中で死刑になる。彼に救いはない。彼は死ぬ。
この最も想定したくない現実ーーしかし、これが真の現実ではなかろうかと自分は思う。フィクションの話に戻るなら、もしこの無実の罪で死刑になる人が物語として描かれるのなら、「実は彼が殺していない」というのを知るのは本人以外にも存在する。それはつまり「観客」である。ここにおいて、この人物が知らない場所において、彼を見ている存在がいる。もし、彼がこの存在…人間社会を飛び越えた見る者の存在を信じたとしたら、それを「神」と呼んでもいいだろう。
だから、僕には「見る神」「悲しむ神」という概念は、カントで言えば「物自体」に相当するものとしてあると想定できる。フィクション内部における悲劇の外側に位置するのは「観客」である。これはフィクションであるから「観客」がいる。例え、それを読むのが一人しかいなくても、それがメタな立場において、作品内部を「救済」する存在である事には変わりはない。
では、もしもこれを現実に移したらどうなるか。僕らの現実は過酷である。現実はフィクションではない。だから、見ている人間はいない。無実の罪で捕まっても、「殺していない」と知っているのは自分一人だけだ。彼はそのまま死んでしまう。ここで、彼が「神」を想定すれば、それは悲劇に見たフィクションの構造と一致する。彼は、「真実を知っている神」を信じる。もちろん、そんなものが存在するかどうかはわからない。そんなものが存在できるとか存在できないとか論証できない場所に神がいると想定する事、これはメタな場所にいて、全てを見ている者としての「神」という存在を考える事だ。これは悲劇の外部に「観客」がいると考えるのに似ている。
現実の外側に「神」がいると考えるかどうか。これは信仰の問題なのでさて置くが、何故、悲劇が存在するのか、そして何故、偉大な物語は喜劇ではなく悲劇なのか。どうして、人間は救われる、嫌な事があっても最後には解決され楽しく生きられるという物語ではなく、人間の生きる惨めさを描いたものの方が優れているのか。(シェイクスピアの悲劇と喜劇の価値の重みを考えるとやはり悲劇の方が上だろう)
その答えはそのまま、人間の生とはその通り惨めなものであるからであって、これを認め、それを描き出す事は、それを「観客」に託す事である。つまり、希望は、悲劇において消失したわけではない。どんな暗い哲学でも、物語でも、彼がそれを書いて表現する事そのものには希望はなくなったわけではない。ただ、希望はその位置を変えた。それは物語内ではなく、物語の外に出た。人間の悲しい運命に涙を流す「観客」(神)の位相において、物語は救われる。
先に、現実の外側に神を信じるかは信仰によると言ったが、僕はーー現代人には滑稽に聞こえるだろうがーーいずれ、こうした問題が俎上に昇るだろうと思っている。そうして、実の所、僕の言う「神」はメタな位置にあるわけだから、現実という相対的な場所においては、認識する事が不可能である。つまり、僕並びに、僕の言う「信じる人」は、現実という位相において、現実の外側に神を信じない人と全く同じ生き方、考え方をするという事になるだろう。ただ違うのはその外部を想定するか否かである。これはカントの物自体…神の要請のようなものだろう。
さて、自分はそのように、悲劇は外側の「観客」において救われると考える。これを現実に当てはめれば「観客」の位置に「神」がいるという事になるだろう。自分はそんな風に考えている。そういう意味では神はただ見ているだけである。人間の運命に涙を流しているだけの存在である。そういう神を僕が視認できる可能性はないが、物語を作る上では、そういう構造を考えた方が、悲劇を作る理論としてわかりやすい。それを現実に持ち込む事を「信仰」と僕は呼びたい。