或る治世の終わり(三十と一夜の短篇第29回)
北国の王懐はごく若い頃から、「その性、聡敏、温厚にして公明正大」と評されてきた。父王は自身の才覚が凡であると自覚していた為、懐が成年に達すると早々に譲位した。懐王は、女好きで、後宮で寵姫の争い事や哀れな出来事が起こったが、民はそれを笑い話としながら、鼓腹撃壌の生活を送っていた。
懐王の治世が二十余年に及ぶようになると、王は政に倦み、女色に耽る日が多くなってきた。それまでの善政で作り上げてきた仕組み、それを支える臣下たちの努力で、民の暮らしにはなんら差し支えは出なかった。
北国の王族の一支族で、王の不興を恐れず諫言する清廉の臣に景という者があった。景は懐王の王太子建の教育係でもあった。
王太子が年頃となったので、東国の王女を花嫁と向かえることとなり、太子の教育係の次官伯が東国に花嫁を迎えに行った。伯は東国の王女を見て、大層な美女であり、懐王の好みに適った容姿の持ち主と知った。
伯は王女を北国の都に連れかえったが、懐王に言った。
「この王女様は陛下が娶られよ。王太子様には別の姫を選ばれた方がよろしい」
王女は政略結婚の相手が子から父に変わり、驚いたが、現役の王の妃にとなるのに不満はなかった。
王太子の建と景は理不尽と感じたが、あからさまな不平は父王への不孝となると堪えた。伯は懐王の側近へと昇進し、東国の王女は東姫と呼ばれ、一身に寵を集めて、やがて王子を生んだ。
こうなると表立って建や景が批判をしなくても、懐王や伯は二人が煙たくなってくる。懐王は親の情から、伯は建から恨まれているのではと自己保身と懐王への阿りから、東姫の生した王子昭を後継にしたいと願うようになってきた。
「長幼の序というものがございます。まして、昭王子はまだ赤子、どのよう才をお持ちか判りませぬ。王太子様はご長男で、ご立派に成長しておいでです。跡継ぎを代えられたいとのお考えは尋常ではござませぬ」
景が懐王に上奏してくるのは当然だった。
懐王は、これも王族の務めと、建を辺境の砦の防衛の任に就かせ、景を西国への使者とし、二人を切り離した。景が西国に赴いている間に、伯が謀り、王太子謀反の罪をでっち上げて、辺境の砦に軍を進めた。景の息子の員が王太子と共に砦におり、建に家族ともども逃亡しようと持ち掛けた。
建は肯かなかった。
「父は私が邪魔なのだ。東姫と末弟可愛さに目が曇っている。その目を晴らす手立てを思い付かぬ。逃げたところで、どこまでも父の手は伸びてこよう。父に疎まれた私を受け入れてくれる処があるとも思えぬ。
私は父の命に従うが、私の子まで巻き込むのはあまりに哀れだ。
員よ、我が子を連れて、我が母の国に逃げてくれまいか。そして何時の日か私の汚名を雪いで欲しい」
員は叩頭して誓った。
「必ずや我が君!
我が君のお子様をお守りし、何時の日か北国の都にお子様が凱旋されるように努めます」
員と我が子勝を生母の出身地西北の国の逃すと、建は王軍に下った。建は王太子の身分を剥奪され、自死するように命ぜられた。建は与えられた剣で自刎して果てた。
景が西国から帰ってきたのは、全てが終わってからだった。建の死を嘆き、景は男泣きに泣いた。
「陛下は何故肉親を信じず、追従者の言をお信じになったのです。王太子の弁をお聞きになられるべきでした」
そして、員の逃亡を知って、言った。
「員は我が国に干戈の災いをもたらすか」
北国の宮廷に景の居場所はなかった。期待を掛けてきた建を喪い、老いて英明さを欠いた懐王と、佞臣伯が幅を利かせている。耳に痛い諫言は阻まれる。
景は士大夫の象徴である冠を被らず、髪をぼさぼさにしたまま、出仕せずに彷徨い歩いた。川と川とが合流する深い淵にまで辿りついた。
「景様ではござまいせんか。そのようなお姿でどういたしました?」
漁夫が景に声を掛けた。
「今の宮廷は濁っている。皆酒に酔うように乱れている。私一人が行い澄まし、酔えぬのだ」
「世の流れに迎合するのも処世の一つでございます。皆と同じようにできませんので?」
「沐浴したら、冠の塵を払い、衣服も改めて身に着けるものだ。清廉の者は濁りを寄せ付けない。私は常にそうありたい。世もそうあるべきだ。
徒に川底を突いて泥で濁して何になろう。
私が世を正すには老いて力がない。亡命した息子がこの国に帰ってくるのを待つのも辛い」
景は淵に身を投げ、亡くなった。
懐王は邪魔な者たちがいなくなったと安心し、ほかの王子たちを退けて、昭を王太子とした。昭の母親が東国の王女であり、伯が懐王に信頼されていると見て、東国では伯を買収して、北国の力を削ごうとあからさまに働きかけるようになってきた。
懐王が少年の頃から学友として側にいた臣下たちも老い、伯が我が物顔をしている宮廷から自ら去る者があり、遠ざけられる者もあった。志ある者は批判して左遷されるよりも隠棲や亡命を選び、北国の人材は目に見えて減っていった。
懐王は今更ながら、臣下の輔け無くして大きな翼も空へと羽ばたけないと気付き始めた。
慰めを求めようと後宮の東姫を訪ねると、東姫は昭に歌を教えていた。
「その歌は何の歌か?」
「わたくしの故郷の歌でございます」
「昭はこの国の王になるのだからこの国の歌を教えよ」
東姫は相変わらず薔薇のように美しかったが、棘があった。
「東国のあるじはわたくしの兄です。甥が東国の歌を覚えておいてなんの差し障りがありましょう。
東国はいまや勢い盛ん、北国よりも国力があります。また、亡くなった建殿の乳兄弟の員が西北の国に迎えられ、西北の国の参与となり、国を富ませております。
この国の者たちで東国や西北の国でこそ才を活かせると北国を出ていく者が多いと聞きます。
わたくしは言うがままに嫁がされる楔のような道具に過ぎません。ですから、建殿から陛下に夫が変えられようとも、何の意見すらできませんでした。むしろ賢明な君主の妻となれるのだから晴れがましいと思おうとしました。
しかし、今となってみればどうでしょう。
陛下は『騏驎も老いては駑馬に劣る』のお姿そのものではございませんか。このままこの子が王となっても、兄やその子の顔色を窺っていなければならないでしょう。ですから、故郷の歌を教えているのです。
建殿の妻となっていればまた違った人生だったかも知れません」
懐王は若い妻の言い草に憤った。
「この国がそなたの生まれた国に呑まれると思ってか!」
「さあ? もしかしたら西北の国に呑まれるのかも知れません。どちらにしろわたくしと昭は兄を頼るしかないでしょう」
妻が夫や嫁ぎ先の国に殉じる気がない、愛情ではなく、義務感で連れ添っているのだと知り、懐王は肩を落とした。自らの勘気を恐れず諫めてくれた景が懐かしく、後悔ばかりが淵のように深く募った。
昭はまだまだ幼く、母の教えることを真似るばかり。ひらめきや度胸が足りなくても、建は思慮深く、人の意見に耳を傾ける我慢強さがあった。生きている時は器が小さいと感じていたが、今いる王子たちの中で一番見込みがあり、物静かさで人臣を惹き付ける魅力があったと、懐王は自らの不明を恥じた。
「この世で知らぬことはなく、出来ぬことはないと信じていたが、私は父のように退き時を知らなかった。
ゆけどもゆけども、青雲までの道のりは遠く、日は暮れる。道半ばで私は老残の身を晒すか。」
懐王は気力を失うとともに、生命力も失ったようだ。二年の後身罷った。
王太子の昭が王位に就いたが、幼年故に東姫が垂簾の影で政務を執った。それは北国が東国の傀儡であることを意味した。懐王の生前大人しくしていた諸王子たちが叛乱の烽火を上げ、北国の宮廷の乱れは遂に民まで巻き込んだ。
諸王子たちはお互いを潰し合い、または都の昭王を狙って戦いを続けた。昭王は東姫と共に東国へと逃亡した。
西北の国から建の遺児勝を頭とする員の率いる軍が北国に入ってきて、ほかの王子たちを圧倒し、やがて勝が新しい北国の王となった。
景のモデルは楚の屈原や伍子胥の父です。




