兎の黒い影
地上の夜は賑やかで心地よい。生命を育む大地、親のように優しく見守る空。風に吹かれて揺れる草木は耳に良い音色を響かせた。こんな些細で当たり前なことに感動することも生きる意味になりうると刃物のような鋭い瞳でこの世界全てを映す。艶やかな長い髪を揺らす彼女に誰かが呼びかける。それは玉兎だけが聞き取れる特殊な声で他人には聞こえない。また特定の一個人に向けたものであるため耳打ちに等しい。
「名残惜しい……」
彼女はゆっくりと瞼を閉じ、背中に携えた四枚の血に塗れた翼をはためかせ、空へ飛びあがった。同時に強い風が巻き起こり、白い羽が辺りに舞い踊る。
***
太陽が一番高い位置にある頃、永遠亭で永琳はとある急患を診ていた。急患というのは白狼天狗で哨戒中に突然体調が悪くなり、休憩時間を使って診療に来たのだという。一通りの診断が終わり、簡単な薬を処方して帰ってもらった後、永琳は鈴仙を部屋に呼んだ。
「一見するとただの風の諸症状だけどおかしいと思わない?」
「はい。頭痛、咳、その他もろもろと症状がやけに多すぎます。人間ならまだしも病気に強い妖怪がここまでとは」
鈴仙は永琳の意見に同意する。伊達に何年も月の最高医の手伝いをしていない彼女も段々と勘が鋭くなってきたのだろう。
「ウイルスを調べないとわからないわね」
永琳は机に向かって顕微鏡を覗き始めると「何かわかったら呼ぶわ」と言って黙り込んだ。
廊下を歩く鈴仙は嫌な予感でいっぱいだった。手紙の内容のせいで不吉な想像がよぎってしまう彼女は“杞憂だ”と頭の中で自分に言い聞かせた。まさかあの五人の中にオリオンラヴィという精鋭がいるかもしれない、誰かが噓をついているかもしれないということ。
数分後、鈴仙は呼び出されて永琳の元へ駆け、調査の結果を聞いた。
「すごいわよ。一つのウイルスから様々な症状が重複して起こるように精密に遺伝子改造が施されているの」
「まさかあの手紙の……」
鈴仙が初めて暗号の内容を理解した時、随分と慌てていたが永琳からすればどうでもいい事だった。
「私は昔似たようなものを月で見たことがある。だから解析も早く進んだの」
鈴仙は「月で、ですか」と繰り返す。
「月で見たのはあれよりも恐ろしいものだったわ。ありとあらゆる遺伝子、原子崩壊を引き起こす感染力の強いウイルスよ。私が最初に発見していなければまずいことになっていたわ」
「そんなものが……」
鈴仙は戦慄した。自分の知らない間に恐ろしいものが存在していたという事実に。だが同時に安心もしていた。永琳さえいれば問題の解決は容易であるという確信があったからだ。しかし彼女の心のどこかで”このままでいいのか、こんなことでいいのか”という気持ちが残り、息をしていた。そのことを鈴仙も自覚はしていた。
「このウイルスも遺伝子に作用するように作られている。こんなことが出来るのは月の都でも限られてくる」
「ということは月の関係者が関わっているということですよね?」
「そうと断定はできないけど、その可能性は高いわね」
「やっぱりオリオンラヴィですよ。師匠だけに危害を加えないで他は例外と言うことですよ」
鈴仙は最後に「おそらく」と小声で追加する。彼女は不穏分子であるオリオンの玉兎もどうにかしてほしいという気持ちがあったが、現状で誰がオリオンであるかわかっていないから語勢を強めることをやめたのだ。
ウイルスは永琳が処分するという方向で話が決まり、鈴仙が部屋から出ようとした瞬間、稲妻が落ちるような音が聞こえた。音がある程度大きく、明瞭に聞こえたため、発生源は遠くない。
「聞こえました?」
「妖怪が暴れているのかもしれない」
鈴仙は「様子を見てきます」と言い残しでドタドタと廊下を走る。一度自分の部屋に寄ってブレザーをささっと羽織って、ボタンを閉めて整える。鈴仙が玄関で靴を履いて外に飛び出すと、また同じ音が聞こえた。今度はかなり大きく聞こえ、白い煙が上がるのも見えた。
「どんどん近づいている……」
音がした方向へ鈴仙は竹林の上空すれすれを飛んで、周囲の波長を読み取る。彼女は一つの意乱れた波長ともう一つ安定したものを感じ取る。その場所へ急行するとそこには見知った二つの姿が竹林を走っていた。
「秋翠! 鋭! 何をしてるの!?」
大声で呼びかけるが反応がなく、聞こえていないようだ。彼女らの進む方向からして永遠亭に向かっていることに鈴仙は気づき、竹藪の中に降りて呼びかける。この前のことと言い、鈴仙からすれば秋翠の行動は怪しかった。
「ちょっとふざけるのもいい加減にしてよ!」
ようやく声が届いたのか、息を切らし、両腕をふる鋭と秋翠が鈴仙の方を向いた。
「ふざけていたらもっと楽しそうに走っていますよ!」
「私に限っては何で走っているのかもわからないんだけど」
秋翠がそう言った瞬間に光線と共にバリバリと何かを引き裂くような轟音が彼女を横切った。光線は鋭の顔面を貫き、頭部を丸ごと焼き払った。その後、首を失った胴体は少し走った後にどしゃりと地に崩れた。鈴仙と秋翠は足を止める。
「え……?」
余りにも突然の出来事に二人は言葉を失った。さっきまで確かに動いていたそれは今やただの肉の塊と化してしまった。秋翠はおもむろに骸へと歩みを進めて目の前に来るとそれを眺める。
「……これは……どういうこと?」
鈴仙は開きっぱなしだった口を無理矢理に動かして言葉を出した。だがそれは秋翠には届かない。鈴仙は呆然と立ち尽くす秋翠を揺さぶってもう一度「どういうことなの!」と語勢を強めて訊く。
「鋭が……殺された。さっきまで……さっきまで!」
秋翠は気が動転しているのか鈴仙の問いかけには全くの反応を示さず、どれだけ揺さぶっても効果がない。鈴仙もうつ伏せの鋭へと視線を向けた。首は炭化して黒く変色しており、鼻をつく焦げた匂いはさながら焼き魚のものとほぼ同じだった。これが鈴仙の最も恐れていた“死”であった。月から逃げたのもこれが理由だったのだ。
鋭が沈黙して何者かの狙撃はぱったりと止んだ。安全を確認した鈴仙は人形の様な秋翠と共に永遠亭へと向かった。
***
「とりあえずは安静にしておくことね。ちょっとしたら起きるからその時に話でも聞くといいでしょう」
永琳が布団に横たわり静かに呼吸する秋翠を見ながら鈴仙に言う。ろくに話が通じない程ショックを受けていた秋翠は気を失ってしまって今に至る。鈴仙も同じように気絶してしまいたいほどだったがそれを彼女はこらえた。
「音の正体は何だったの?」
永琳が尋ねてくるが上の空の鈴仙のは聞こえていなかったのか無反応だったので、頬を優しく叩いてもう一度訊いた。
「あ、すみません。ビーム兵器の射撃音です。彼女らは狙撃されていてそれで……」
鈴仙が口ごもるので「それで?」と永琳が最後に聞こえた言葉を繰り返す。こみ上げる恐怖、悲しみを噛み殺し鈴仙は口を開いた。
「亡命した玉兎が頭を撃ち抜かれて死亡しました……」
永琳も鈴仙が死に怯えていることくらい知っているのでこれ以上深く聞こうとせず、話を切り上げた。
「後はよろしくね」
永琳はそう言い残して部屋を出る。扉をトンと閉める音を最後に辺りは静寂に飲まれていき、この空間だけが切り取られたかのような感覚に鈴仙は落ちる。
不意に鈴仙は月の都に居た頃を思い出す。とある日、月に地上人が攻め込んで来るという情報が入り、玉兎の間ではその話題でもちきりだった。中でも鈴仙の所属する月の使者が最前線で防衛任務が出るかもしれないという噂が彼女を心底恐怖させた。いくら地上人とは言え、ある程度の技術は持っている。交戦したら死ぬかもしれない。今まで自信があるようにふるまってきたがそれは恐怖の裏返しでもあった。
このままでは確実に戦いの嵐に巻き込まれる、そう思った鈴仙は月を離反することを決めた。最初はみんなで逃げようかと思っていた鈴仙だが大人数では月人にバレて、戻されてしまい、最悪の場合には裁きが落ちるかもしれない。かと言っても誰か一人選ぶこともできない彼女は独り、勝手に逃げてしまった。
「戦いの嵐……でも私たちは関係ないはず」
そう関係ない。鈴仙は思わず言葉にするとすぐ傍から「関係なくない」とか細い声がした。
「秋翠……気が付いたの」
「仲間が殺されて関係無い訳ない。鈴仙は彼女が友達じゃないって言うの?」
秋翠は状態を起こし、鈴仙の両肩を震える手で掴んだ。その震えは怒りと出てこない力を振り絞るために起きたものだった。
「……」
秋翠の言葉に鈴仙は何も言うことは出来なかった。結局自分は臆病者で成長できない兎なのだと決めつけ殻にこもる……そんなことはもうしない。鈴仙は心の恐怖を取り払い、今自分にできることを考えた。
「鋭はオリオンラヴィの玉兎が来ているって言ってた。多分それが原因で……」
そのとき鈴仙は獄猫が持って来た手紙の内容を思い出した。オリオンノシシャガクル、アナタニハキガイハクワエナイという永琳へのメッセージ。それは永琳にしか適用されていない。つまり秋翠の言う通り、存在を知られたことが原因で鋭が殺されたならば、じきに傍にいた者を黙らせにくるであろう。
「私は敵討ちに行く」
秋翠はよろよろと立ち上がって部屋を出ようとするが鈴仙が立ちはだかりそれを止める。
「相手はオリオンラヴィ、一人じゃ勝てない。それに容姿だってわからないから無謀よ」
「勝てなくてもいい、無謀でもいい、一撃喰らわせるので十分!」
あんなあっけない別れをし、何もしてやれなかった、そのことに秋翠は面目がたたないのだ。押し切って進もうとする秋翠は胸ぐらを鈴仙に掴まれて大きく怒鳴られる。
「私たちは仲間でしょ!」
秋翠はその魂の叫びで正気に戻った。今まで死に急いでいた自分が信じられないほどに彼女は冷静になり、畳にぺたりと座り込んで深呼吸をした。
「落ち着いた?」
「うん……」
二人はオリオンの兎に立ち向かうため、最初に武器を集めることにした。そのためある人物を呼んだ。その人物はあの現場付近にいたようですぐに永遠亭へ辿り着き、玄関にやってきた。
「また会ったね鈴仙。10分ぶりかな」
と緋燕が白い歯を見せる。きっとこれからのことが楽しみなのだろう、いつもより目が輝いていた。
「秋翠も久しぶり」
その横にいた彗青が秋翠を見つけるなり明るく声をかけると小さく手を振る。
「相変わらず眠そうだね。ちゃんと寝てる?」
「別に眠くないし、寝てるから」
「挨拶もそのくらいにしといて。私達には時間がないの」
鈴仙が二人の間に入り、会話を止める。だがこんな緊迫するような状況でも笑って再開を喜べるだけの気力はあった。
鈴仙は二人を永遠亭に上げ、自室に案内すると早速話を切り出した。
「呼んだ理由は一つ、武器が欲しいの。できるだけ多くの」
「お安い御用! 対人、対戦車、対空、対神……欲しいなら対星まで幅広く用意できるよ!」
途端にたたき売りの商人のように饒舌になる緋燕。その腕には生成したいくつもの無骨な銃器が、どれも大切そうに抱えられている。
「出来ればあんまり高威力のじゃなくて制圧用のものがいいかな」
「制圧なら素粒子バズーカとかで脅すのが速いんじゃない?」
緋燕はいかつい丸太のようなバズーカ砲を担いだ。これは豊姫が持つ扇子の起こす“素粒子レベルで浄化する風”を放つ専用弾頭を高速発射する代物だ。だがこの無駄な発射システム故に製造コストが高く、また危険なためにお蔵入りになってしまったのだ。
「そんな恐ろしいものも扱いたくない……」
秋翠が悪寒に震えながら言う。発射に失敗すれば最小単位と化して消えてしまうのだからゾッとするのだろう。緋燕が自然に彗青に銃口を向けると「ちょっとやめてよ」とバズーカを手で払いのけられる。
数分の談判の末に使う武器が決まり、それらを装備して部屋を出る。
「ずっと思ってたけどこんなにも何に使うの?」
玄関で彗青がローファーを履きながら訊いてくる。レーザーライフル、熱切断刀、グレネードランチャーに小型電磁フィールド発生器などを腰に下げたりすれば疑問に覚えないはずもない。鈴仙は視線がまごつく秋翠にチラッと目配せを送り、口を開いた。
「妖怪退治のボランティアみたいなのよ。さっき爆音を起こした妖怪の退治を命じられてね……」
と言うと緋燕がいきなり口出ししてきた。
「私の目……いや耳は騙せないよ。さっきの爆音は明らかにビーム兵器の音だった」
それは長らくそのようなものを扱っている彼女だからこそ言えるセリフだった。だから誰も反論することができない。
「何か隠してるでしょ?」
鈴仙は話すことをためらい、口を開こうとしなかった。オリオンラヴィについて喋り、聞いた時点でその者も排除対象となるかもしれないのだ。秋翠も同様に沈黙し、俯いている。それにまだその玉兎の情報すら掴めていない。故に緋燕や彗青が鋭を殺した張本人だともいえてしまう。
「どうしたの? 二人ともおかしいよ、いきなり武器が欲しいだとか……」
緋燕は不安に顔を曇らせた。同時に自分は今までの行動は信用を奪うものだと気づき、懺悔の念に駆られた。
「何か話せないようなことなの?」
鈴仙は彗青の質問に対して頷くことしかできない。
「それが私にどんなものを与えようと構わない。だから話して、仲間でしょ?」
微笑みかける彗青の言葉に鈴仙は心を打たれた。ついさっき自分が秋翠に言ったことがそのまま返ってきた。緋燕も「そうだよ、困った時はお互い様ってね」と同感し、明るい笑顔を見せた。
「本当にいいの? これから何が起こるかわからないんだよ」
秋翠が念を押すように訊くと「いつだって何が起こるかわからないのが人生でしょ?」と彗青が得意げにウインクを飛ばした。
「オリオンラヴィ……は知っているわよね。その片割れが幻想郷に来ていて、それで……」
鈴仙は一番重要なフレーズを喉に引っ掛けてしまい、声に出せずにいた。本当は伝えない方がいいと思ってしまう自分がどこかにいて、それを無意識に防いでいる。
「鋭がそいつに殺された」
見かねた秋翠が代弁する。すると彗青は顔を真っ青にして「嘘でしょ……!」と膝から崩れ落ちた。対して緋燕は何も言わなかった、がその心は糸で何重にも締め付けられるような痛みに苦しんでいた。
「それだけじゃないの、そのオリオンの玉兎が存在を知られたがために私たちの命を狙っているかもしれない」
「だから武器が欲しかった」
と秋翠が付けたしをするとうなだれる緋燕と彗青に近寄って、かがんで話しかける。
「悲しみたいのは山々……でも私たちには今が安全だという保障がない」
「だけど狙われてるなんてことも……」
彗青が震える手で秋翠の肩を掴んで言う。思っていたよりも事態が深刻で今になって恐怖を感じているのだろうと秋翠は読み取る。
「鋭は私にオリオンラヴィに関する何かを伝えようとしてビーム砲で頭を焼かれた。自信をもっては言い切れないけどそれが原因の可能性は高いと思う」
彗青を温めるようにして抱いた緋燕は「今は秋翠を信じよう」と言う。
「どの道、私は鋭の仇を討ちたいと思っているから戦いは避けられないかもしれない。でも話し合いで分かり合えるなら、できればそうしたい」
「元から巻き込むつもりなんてなかったから戦えなんていわないわ。だから安全な永遠亭で二人は待ってて」
わざわざあんな手紙を寄こすくらいだから流石に永遠亭に直接攻撃はしないと鈴仙はにらんでいた。
(こんなことで師匠に迷惑かけられない。これは私たちの戦いなんだ。いつまでも頼ってばかりじゃいけない!)
「そうさせてもらうよ。戦いは苦手だからね」
緋燕が自分よりも大きい彗青を、お姫様を抱き上げるように軽々と持ち上げる。
「ちょ、ちょっと。恥ずかしんだけど!」
緋燕の腕の中でジタバタする彗青を落とさないようにバランスを取りながら彼女らは永遠亭に消えていった。
「これからどうする?」
「相手は不意打ちがお得意なそうよ。ならばこっちが罠で不意打ちをかけてしまえばいいのよ」
早速二人は準備に取り掛かろうとすると何者かが接近してくるのを感じ取る。それは非常に激しい波長だった。大抵このような波長の持ち主は臨戦状態か緊迫した状態である。
「もう来たの!?」
鈴仙が伸びる竹で隠された空を見上げた。秋翠も「何!?」と同じ方向へ目をやる。
“それ”は鷹が獲物を捕る様な速さで竹やぶを突っ切って彼女らの前に降り立った。その瞬間に鈴仙はレーザーライフルの銃口を対象へ向ける。だが大地に降り立ったのは玉兎であったがすぐに、白い両手を頭の所まで上げた。
「撃つな!」
鈴仙はその声が記憶にあった。また特徴的な紺色の髪と小さな体が記憶からその名前を引っ張り出した。
「獄猫!? あなた帰ったんじゃ……」
今頃、月でのんびりしているのではないかと思っていた玉兎が現れて鈴仙は驚きを隠せなかった。
「話がある」
獄猫は頭を振って前髪を払ってその少し幼げな顔を見せた。顔では心情が読めないが、鈴仙が波長を読めばすぐにそれが分かった。
(焦りと……恐怖?)
竹林は北風でざわめき、空は灰色の雲で覆われて淀んでいた。