生協さんの甘くない恋事情
僕は消費生活協同組合――いわゆる生協に勤める宅配作業員だ。毎日決められた地域をまわり、注文された商品を届け、次に配達する予定の注文票を受け取る。
この仕事のいいところは、いろんな人と関われるところだ。脚が悪くて買い物にいきづらい高齢者。子どもが小さくて手が離せない主婦。仕事の忙しさでなかなか料理まで手が回らない女性。料理が苦手だが、手軽に作れるものを注文する男性。
まわる地域は曜日によって変わる。週に一度は同じお宅にいくことになっていた。そうすると相手も自然と僕の顔を覚えてくれる。あんまり記憶力の良くないおばあちゃんが名前を呼んでくれた時は、特にうれしかったなぁ。それにお話し好きな主婦の方とは、玄関先でもよく話し込むことがある。あまりに気に入られて一度、「娘の彼氏になってほしい」といわれた時には参ったけど。
今日僕がまわるのは、新興住宅地としてここ最近越してきた人が多い住宅街だ。まだ真新しい家が立ち並ぶとあって、注文するのは若い主婦の方が多い。
僕はドライバーをしている先輩と一緒に、注文先のお宅をまわった。何軒かまわったあと、先輩が手をこすり合わせながらいった。
「うぅーっ、にしても今日は冷えるよなぁ。まだ十月だってのに、真冬みてぇだ」
「そうっすねぇ。おまけに雨まで降ってますし」
僕も手袋をはめた手を握りしめた。いつも配達のためにつけているものだが、今日みたいな日はかえってラッキーだ。
今日の寒さは天気予報でも「今季一番の冷え込み」といわれるほどだった。こんな日に配達……特に冷凍のものはキツい。
先輩がシートベルトを締めた。
「仕方ねえ。ちゃっちゃと済ませるか!」
「はい」
そうして数軒まわり、ようやく残りは一軒になった。運転でお疲れの先輩に代わり、僕が荷物をもってインターホンを押した。シャレた字体のローマ字で、「Maizawa」と表札がある。
「こんにちは、毎日コープです」
そう名乗れば、すぐに中から人が出てきた。まだ若い女性で、白いニットにジーンズがよく似合う可愛らしい人だった。
実をいうとこの家はいつも留守が多く、配達した荷物は箱ごと玄関先に置いていくのが常だった。だからこうして家主が出てきたことに少し驚いていた。
「ご苦労様です」
「あ、いえ」
女性……おそらくこの家の奥さんなのだろう。彼女はまだ幼さすら見える顔に微笑を浮かべながら、僕から荷物を受け取った。
「寒いのに大変ですね」
「い、いえ。仕事なんで」
目を合わせるのが照れくさく、僕は被っていた帽子のつばをさげた。
彼女が荷物を家に運び入れ、次の注文票を持ってきた。
「はい、じゃあこれお願いします」
「お預かりいたします。それでは……」
「あっ、ちょっと待って」
引き返しかけた僕をなぜか呼び止め、彼女は家の中へ引っ込んだ。なにかと訝っていると、彼女はすぐに戻ってきた。手になにかを持っている。
それを差し出しながら、彼女は笑顔でいった。
「甘酒です。あっ、アルコールは入ってないから安心して。子供に飲ませようと思って、米麹で作ってたんです。よければどうぞ」
彼女は僕の手に、携帯用の保温性の高いボトルを押し付けた。僕は慌てて断った。
「いや、受け取れませんよ。お気遣いなく」
「いいじゃないですか、あったまりますよ? 容器のことを気にしてるなら、また来週配達の時に持ってきてくれればいいんで」
そう彼女は屈託なくいい、意地でも僕にこれを持たせようとしていた。仕事中になにかいただきものをすることは、正直いえばしょっちゅうある。世話好きのおばあちゃんの家なんかにいった日は、自家製の漬物をタッパーごと押し付けられた。
それでもこの寒い時に、甘酒というのは非常にありがたい。中に入っている甘酒の熱さなんて伝わるはずもないのに、なぜかそれを握る僕の手はすごく熱かった。
一週間後、僕は再びそのお宅をまわった。
インターホンを押して出てきた彼女は、またニコニコと優しそうな笑顔を浮かべていた。
「こんにちは」
「こんにちは。先日はどうも」
帽子を押さえながら頭をさげると、彼女は手を振りながら答えた。
「いいの、たいしたことしてないんだから気にしないで。お味はどうでした?」
「あ、はい。すごく美味かったです」
甘酒は特に好きなわけではないが、米麹ならではの優しい味わいが印象的だった。あれなら子どもでも美味しく飲めたことだろう。
僕の答えに、彼女は嬉しそうにいった。
「ならよかった。押しつけといて実はマズかった、なんていったら笑っちゃいますものね」
笑うとますます若々しく見える。子どもがいるらしいが、一体彼女はいくつなんだろうか。
だけどそんな踏み込んだ質問ができるわけもなく、僕は当り障りのない話題を口にした。
「以前は配達の時、おうちにはいらっしゃらなかったみたいでしたね」
「ええ、仕事の都合で。でも冷凍の食材とかやっぱり気になるし、どうにかこの曜日だけはここにいれるようにしたんです」
「そうだったんですか」
その時、トラックから先輩の声がした。
「おーい、宮原! 早くしろ」
「あっ、はい!」
僕はまた彼女に頭をさげて、それからハッとなった。まだボトルを返していない。ボトルは今トラックの助手席に置いてある。すぐに戻って取ってこなければ。
「あ、あの」
僕は口を開くと同時に、彼女を見つめた。彼女はなにかしら、というように首をかしげて僕を見返してくる。それを見て僕は、喉まで出かかっていた言葉が急激に下がっていくのを感じた。かわりにとんでもないことを口にした。
「この前のボトル、忘れてきちゃったんです」
「あら」
彼女は目を丸くさせた。そうなると、ますますあどけない少女のようだった。
ウソをついている罪悪感を感じつつも、僕はいった。
「な、なので……。また来週でも、いいですか?」
彼女は一瞬僕を見つめたあと、すぐにニコッと笑いかけてくれた。
「もちろん」
また一週間が過ぎた。決まった配達を終わらせて、最後の家に到着する。
さすがに今日はボトルを手に持った状態でトラックを降りようとした僕に、先輩がいった。
「おい、あんまり深入りすんなよ?」
「へ?」
「相手は人妻なんだからな」
僕はドキリとしつつ笑い飛ばした。
「なにバカなこといってんすか。そういうんじゃないっすよ」
だけど先輩は真剣な表情を崩そうとせず、僕はそれから逃れるように荷物を取りにいった。
インターホンを押して出てきた彼女は、相も変わらず優しげで笑みを絶やさない。今日はなにか料理でもしていたのか、可愛らしい水玉模様のエプロンをしていた。
「こんにちは」
彼女はエプロン姿が恥ずかしいのか、ちょっと照れくさそうにはにかんだ。
「ごめんなさいね、ちょっと今子どものおやつをつくってたもんだから」
「そうだったんですか」
「ええ。よかったら……ああっ、たっくん!」
彼女が悲鳴のような声をあげると同時に、玄関の隙間から小さな男の子が出てきた。彼女とそっくりなくりくりした瞳が可愛い、利発そうな子だった。
たっくんと呼ばれた子どもは庭へ駆けていこうとしたが、彼女に抱きあげられた。
「もう、お庭で遊ぶのはダメっていったでしょ」
たっくんは不満そうに唇を尖らせた。
「どうしてダメなの?」
「この前、お庭に入ってきたにゃんにゃんに、勝手にソーセージあげたんでしょ? パパすっごく怒ってたんだから」
「だってにゃんにゃんがおなか減ったって!」
「あのにゃんにゃんは、裏のおばあちゃんちの子なの。だから勝手にご飯あげたら、おばあちゃんも困っちゃうでしょ」
優しく諭すようないい方に、たっくんもしぶしぶうなずいた。彼女が地面におろしてあげると、タタッと家に中へ戻っていった。
僕に向き直った時、彼女は少し恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
「ヘンなところを見せてごめんなさい」
「いや……。お子さん、可愛いですね」
「やんちゃ盛りなんです。三歳って大変」
愛想笑いを浮かべながらも、内心僕はひどく動揺していた。彼女が人妻で、子どもがいるってことはすでにわかっていたはずなのに。どうして僕は今さら、こんなにショックを受けているのだろう。
震えないように力を込めて、僕は手に持っていたボトルを差し出した。
「これ、遅くなりましたが」
「ありがとう」
そのあとは義務的に荷物を運び入れて、注文票を受け取った。
「じゃあ、お預かりいたします」
動揺が表面に出ないように、いつもより素っ気ない態度になってしまった。
それが気になったのだろうか、彼女は少し眉をひそめた。
「どうかされました?」
「いや……なんでもないです」
「そう? ならいいんだけど」
彼女は玄関の脇に置いてあった小さな袋を手に取って、僕に手渡してきた。
「さっき焼いてたクッキー。多すぎちゃったからおすそ分け。皆さんでよければ食べてくださいね」
可愛い袋に入ったそれはまだほんのり温かくて、甘そうないい匂いがする。僕は黙ってそれを受け取り、頭をさげた。お礼の言葉をいえる余裕がなかった。
どんなに憂鬱でも、一週間は早い。またいつものお宅をめぐり、最後の家についた。
僕の様子に気づいてか、先輩が声をかけてきた。
「今日は俺が代わりにいこうか?」
「いや……。平気っす。自分でいきます」
今日こそは一切動揺せずに、クールにスマートに仕事を終えるんだ。そう決意を固め、僕はインターホンを押した。
「毎日コープです」
いつもなら元気な彼女の声で、「はーい」と返事があるはずだった。だが今日は違った。
ドアがいきなりガチャリと開き、姿を見せたのは、ガタイのいい男性だった。
男性はにこりともせずにこちらへ来ると、荷物を受け取った。
「どうもご苦労様」
「あ、こ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
結局動揺して上ずった声が出てしまう。男性は気にした様子もなく、淡々と荷物を家に運んでいた。
そんな彼に思わず、僕はたずねてしまった。
「今日は、その……奥様、は?」
奥様という言葉が、なぜか喉につっかえたように小さな声になった。だけど男性は普通に答えた。
「妻なら仕事ですが、なにか?」
「い、いえ……。なんでもないです」
こういう時もあるんだろう。彼女が仕事で、たまたま旦那さんが休みを取れた。だから今日は旦那さんが対応した。なんの不思議もない。その家庭によって色々あるんだから、一配達員の自分が気にするようなことじゃない。
なのに……。僕はどうして、こんなに胸が痛いんだろう。
失恋だ。二十七にもなって、あろうことか人妻に失恋した。
そのことに気づいたのはその晩のこと。着替えのために会社のロッカールームへいった時だった。
先週彼女がくれたクッキーがまだ残っている。みんなで食べて、といわれたのに、結局僕は誰に渡せるわけもなく持ち帰った。
あの日、一枚食べて、その絶妙な甘さとほろりとした食感に、涙ぐみそうになった。子どものおやつだからか、あんまり濃い味付けじゃない。それでもほんのりした優しい甘さが彼女そのものを表しているようだった。
とてもそれ以上は食べられず、かといって捨てることもできない。悶々とした思いのまま、僕はそれを袋に入れ直し、ロッカーにしまった。
いつも組んでいる先輩が、様子のおかしい僕に気づいてか明るい調子でいってきた。
「宮原、今日このあと一緒にどうだ?」
「へ?」
「へ、じゃねえよ。奢ってやる。好きなだけ飲め!」
「いや、僕そんなに飲めないっすよ」
「知ってるよ! 気分だけでもいい、飲むんだよ」
がっちり肩をつかまれたまま、断るすべもなく会社近くの居酒屋へ連れていかれた。
生ビールと焼き鳥の盛り合わせ、唐揚げにタコのわさび醤油付け、それから枝豆を注文し、とりあえず乾杯する。焼き鳥が出てくるまでの間は、枝豆とお通しの厚揚げに大根おろしをかけたものをつまんだ。
先輩は一息にビールを半分まで空にすると、僕にいった。
「だからいっただろ、深入りすんなって」
いきなり核心を突くようなことをいってくれる。僕は苦笑いをした。もうごまかしだって効かないのだ。
「そうっすね」
「いきなり忘れろなんて酷かもしんねえけどさ。相手はもう決まった人もいるわけだし、子どももいるんだろ? だったらおまえ、諦めるしかねえじゃん」
「……はい」
わかりきっていたことだが、改めて突きつけられるのはキツかった。僕はうなずきながら、やけくそにビールを流し込んだ。あまり酒は得意じゃない。すぐに酔いが回って、頭がくらりとした。
それでも今日は失恋の痛手もあってか、いつも以上に酒を求めた。泥酔して、なにもかも忘れてなかったことにでもしてやりたい。
僕は焼き鳥が届く前に、近くにいた店員さんに叫んだ。
「すいません、ビールおかわり!」
「はーい」
その間延びした返事が彼女と似ていて、ますます切なくなってきた。すぐに運ばれてきた二杯目も、ぐびぐびと喉に流し込む。さすがに先輩も心配そうだった。
「おいおまえ、そんなに強くないんだろ?」
「平気っす。飲まなきゃやってらんないんで」
まさか自分の口からそんな言葉が出る日がこようとは。アルコールでぼんやりしてきた頭で、そんなことを考えた。
その時、焼きあがったらしい焼き鳥が運ばれてきた。
「お待たせいたしましたー」
「おっ、美味そう」
先輩が弾んだ声でさっそく一本取り、僕もかぐわしい香りのそれを見た。同時に運んできた店員さんの顔も目に入り……。
「あ」
声を漏らしたのはほぼ同時だった。
驚いたなんてものじゃない。酔いがすべて吹き飛んでしまったかのようだ。そこにいたのは間違いなく、僕が失恋をした彼女だったのだから。しかも彼女が胸につけている名札を見てさらに驚いた。「井上舞」……井上!?
「な、なんで」
あまりの衝撃に言葉が出てこない。すると彼女の方から声をかけてきた。
「毎日コープさんの方ですよね? えーと確か、宮原さん!」
あってます? と彼女はクスクス笑った。僕は壊れたロボットのようにこくこくうなずいた。
先輩はいつもトラックに乗っていたけれど、それでも彼女の顔を覚えていたらしい。怪訝な顔でたずねた。
「あれ? おたく、マイザワさんじゃないの?」
「あー、あれはですね」
彼女は苦笑いを浮かべながら答えた。
「姉の嫁ぎ先なんです」
「……は!?」
「うちの姉夫婦、共働きなんで、家を留守にしてることが多くて。それで昼間は、私や母が交代で甥っ子の面倒を見にいってるんです」
なんてことだ。僕は愕然とした。
つまり僕は、勝手に恋をして勝手に失恋したと思い込み、先輩まで巻き込んでやけ酒を煽っていたと。……今すぐぶっ倒れてもいいだろうか?
その後、別の意味でやけになった僕は、先輩にやめろといわれるまで飲み続けた。こんなにたくさん飲んだのは、成人式以来だった。おそらく明日は二日酔いだろう。休日だから助かった。
足元もおぼつかないぐらいフラフラに泥酔した僕を、先輩がどうにかして支えてくれた。外に出ると、また冷たい雨が降りだしていた。アルコールで熱くなった身体にはちょうどいいかもしれない。
居酒屋を出たすぐ脇にベンチがあり、僕はそこに座らされた。アルコールのせいか全身が重く、ぐったりして動けない。
先輩が電車の時間を調べていると、一度閉まった居酒屋の扉が開いた。顔をのぞかせたのは彼女……井上さんだった。
井上さんは僕に気づかわしげな目を向けていた。いや、酔っ払ってそう見えているだけかもしれない。実際はただの呆れた目線かも。
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん、平気っす」
まだ酔いの醒めきらない僕は、先輩に対する時のような変な言葉遣いになってしまった。彼女はぷっと笑った。
「大丈夫じゃなさそう」
「んなことないっすよ」
「顔緩んでるもの。いつもキリッとしてるのに」
キリッとしてる? 僕が?
ちょっと驚いて僕は聞き返した。
「そう見えた?」
「はい」
彼女はそういってから、ちょっと照れたように付け足した。
「カッコいいなって思ってました」
その言葉に、アルコールとは無関係に身体が熱くなってきた。重かったはずの身体がガバッと動いた。
「ほ、ほんとに?」
「はい」
彼女は再びそう答え、ちょっと頬を赤くさせた。
急な展開にどうしようかとまわらない頭を回転させていると、先輩が声をかけてきた。
「おい、そろそろいくぞ」
「あっ、はい!」
フラフラとまだ力の入らない身体に喝を入れる。すると井上さんが、僕の手になにかをぎゅっと握らせてきた。
「よかったら使ってください」
折り畳みの傘だった。もしかしたらこれを渡したくて、わざわざ出てきてくれたのだろうか。
「あ、ありがとう」
「いえ」
「また配達にいった時に返します」
すると彼女は少し考えたような顔になり、次いで微笑した。今までではじめて見る、いたずらめいた魅惑的な笑顔だった。
「いえ。明日、私の家まで届けてください」
なんとなく登場人物の紹介
・宮原泰介
本作主人公。ついにフルネームを明かされなかった悲しい人。
生真面目でお人好し。配達先の奥様方には可愛がられている。
知らない間に井上さんに餌付けされていた。
おそらく将来は嫁の尻に敷かれるタイプ。
・井上舞
本作ヒロイン。終盤までずっと人妻と勘違いされていた。料理とお菓子作りが得意。
実はまだ大学生。昼は時折姉夫婦の家で、甥の面倒を見ている。三歳児に手を焼かされている。
たまたま配達に来た宮原を気に入り、差し入れと称し餌付けしようと試みる。
夜は居酒屋でバイトをしている。実はその頃から……?
・先輩
名無しの生協さんの先輩。
とにかくいい人。
・たっくん
本名は毎澤拓海。可愛いがやんちゃ。猫好き。
叔母の舞を手こずらせるのが趣味。
名前があんまり出てこなかったので、一応紹介させていただきました。
拙い文章でしたが、楽しんで読んでいただけたら幸いです。
これからもusaと小説たちを、どうぞよろしくお願いいたします(*'ω')ノ