4.水島直子――アイ
何百回目かの帰宅ラッシュの満員電車。扉の前に留まる者を押し、押され、不快な接触に顔をしかめながら、人の波に流されていく。人混みに紛れて体を触られるのにも慣れたし、満員電車は人を人と思わなくなる魔の空間だと思う。降りる間際、脚の間に手を入れてきた長身の男の腹に肘鉄を入れた。どうしてこうも、人は人に触りたがるのだろうか。そんなに触りたいなら自分で自分を触ればよいのに、どうしてそれでは満たされないのか。
思考と共に足を止める。自分の思考にダメージを食らってしまった。頭の中に放り投げた言葉が心に返ってきたようだ。私だって、自分で自分を触ることでは満たされない。だから………。
「落としましたよ」
肩に触れられたので、反射的に振り払うように体を捻った。駅のホームの雑踏の中、高校生だろうか、ブレザーの制服を正しく着た男の子が、私に物を差し出している。しかし、それは私のものでは無い。
「違いますか?」
不安そうに眉を寄せ、男の子は持っている物をお腹のあたりまで下げた。
「…………私のじゃないです」
男の子が怪訝そうな顔をする。先ほどまで私が落としたものなのか不安そうだったのに、"でも僕はあなたがこれを落とすところを見ました"とでも言い出しそうな表情だ。
「そうですか」
そう言って、男の子は私のカバンに手を伸ばした。咄嗟に退くと、男の子は距離を詰めてカバンの持ち手の間に物を置いた。
「さようなら」
柔和な笑みを残して、男の子は階段を降りて行った。
残された私は途方に暮れた。仕舞うことも投げ棄てることもできなくて、周囲の視線から隠すようにそれを胸で抱えた。
だって、どう見ても、これは………。