これから、何のために生きていこうか。【1】
「いや、違います…」
俺は下を向いた。
リクはしつこく尋ねる。
「え、ミナトだろ?お前、絶対ミナトだろ!?」
「だ、だから、違いますって。…そんなに、そのミナトという方に似てますか?」
「似てるもなにも、お前ミナトだろ!!完全にミナトだろ!!」
リクは譲らない。
「完全にミナトと言われましても…。僕自身、完全にケイスケですので…、その、もう行っていいですか?」
「ケイスケってなんだよ!!お前さ、親御さんも、地元の皆んなも心配してるんだぞ!!電話の一本くらいしてやれよ!!」
「はぁ…。あなたもしつこい人ですね。僕がそのミナト?さんに似てるのかは知りませんが、人違いも過ぎますよ。急いでますので失礼します」
俺は走った。
久しぶりに全速力で走った。
いつぶりだろう、こんなに腕を振り、足を上げ、前へ前へと一生懸命に走ったのは。
まさか、地元の幼馴染のリクに会うとは思わなかった。
合わせる顔なんてない。
まぁ、合わせちゃったけどね。
格好悪いだろう、流石に。
俺は変わるんだ。
変わるために田舎を出た。
夜逃げのように出てきた。
上京して、もう2年。
てことは、もう27歳。
いい大人だ。
コンビニの深夜バイトで生計を経て、なんとなく生きて、早2年。
母さん、父さん、心配してんだろうな。
友達はどうだろうか。
そうでもないか、血も繋がってないし。
皆んな、自分で精一杯だろう、きっと。
さて、
これから、何のために生きていこうか。
「ミナトさん?」
「………」
「ミナトさんってば!!」
「え?あ、ごめん、何か言った?」
「休憩どうぞ」
「あ、休憩ね!ありがと!」
午前2時。
この時間になると、コンビニは暇になる。
それを隙に休憩を取る。
22歳のキムラ君は先月入ったばかりの新人だ。
彼は人当たりが良く、元気な青年だ。
俺とはまるで違う。
持ち前の洞察力も優れている。
一ヶ月の間で、万引き犯を3人も捕まえる程の頭のきれる男だ。
そのため、俺が大した男じゃないという事もすぐに察し、今じゃ小馬鹿にされている。
今日もそうだ。
出勤と同時に、
「ミナトさん」
「ん?何?」
「これ、プレゼントです」
「プレゼント?え?」
「いつも世話になってるんで」
「あ、ありがとう」
「開けてください」
「うん」
「どうっすか?」
「…えーと」
「気に入りました?」
「……これ、スーパーボールだよね?」
「はい。え?嫌いっすか?」
「え?いや、嫌いではないけど」
「よかったっす」
「…うん。ありがとう」
よかったっす、じゃないだろうキムラ君。
これ、どうするんだよキムラ君。
………キムラ君。
しかし、久しぶりだな、スーパーボール。
小さい頃はテンション上がったけど、今じゃただのゴムボールだな。
休憩室のテーブルにスーパーボールを軽く落としてみる。
トン、トン、トントントントン……。
だよな。
そうなるよな。
知ってるんだよ。
そうなるのは。
でも、
少し何かが閃きそうな気がした。
何だろう、この感じ。
-2秒で思い出した。
ニュートンだ。
重力を発見したニュートンさん。
リンゴが枝から落ちるのを見て、地球には何か引き付ける力がある、と閃いたんだ。
万有引力の灯火だ。
一歩早かったな、ニュートンさん。
俺も閃きそうだったよ、ニュートンさん。
流石だよ、ニュートンさん。
あなたはリンゴで、俺はスーパーボールだ。
リンゴがよかったなぁ…、食えるし。
スーパーボールって……キムラ君…。
午前8時。
バイトが終わり、今日はこのまま喫茶店にでも行こうと思う。
快晴だ。
気持ちの良い朝だ。
生きていてよかった。
そう思えるほどの朝だ。
朝食は駅前の喫茶店のフレンチトーストとアイスコーヒーにでもしよう。
いつもの席、空いてるかな。
奥の壁側の席が一番落ち着くんだ。
夜勤で疲れた身体を、壁が優しく受け止めてくれる。
その席で飲むコーヒーが一番好きなん…
痛い。
轢かれた。
痛い。
凄い痛い。
右のケツが痛い、凄く。
あと、舌打ちが聞こえた。
嫌だ。
凄い嫌だ。
行っちゃったよ…。
轢いた奴。
まぁ、
自転車だから良いか。
…いや、
ダメだろ。
轢き逃げだよな?これ。
え?だよね?轢き逃げだよね?
自転車でも轢き逃げだよね?
完全にケツに…右のケツに前輪直撃だし。
右のケツ絶対怪我してるし。
舌打ちされたし。
あ、舌打ちは関係ないか。
でも、怪我してる。
逃げやがった、舌打ち野郎。
あの、じじぃ。
よし交番だ。
確か、少し先に交番があったはずだ。
………待てよ。
交番に行って、どうする?
轢き逃げです、って伝えたとして、
どうする?
自転車だから、ナンバーなんてないし。
運転手の後ろ姿しか見てないし。
あ、声は聞いたな、チッてやつ。
あ、舌打ちだな、チッてやつは。
…あれ?
交番行く意味あるか?
捕まるか?
てか、轢き逃げ事件として警察さんは動くか?
あの無線みたいなやつをすぐに使ってくれるか?
サイレンの音、鳴るか?
俺の右のケツのズボンからタイヤの跡を採取して、似たようなタイヤの自転車を徹底的に探してくれたりするか?
………しなそうだな。
よし、喫茶店に行こう。
まぁ、いいや。
生きてるし。
まず外装が最高だ。
他の喫茶店とは違う、安らぐ色使い。
地面から壁へ、壁から屋根へと優しい緑の蔓が伸びている。
ドアの周りには茶色の木の根が囲み、安らぎの空間へと俺を誘ってくれている。
さぁ、ドアを開けよう。
チリンチリンチリン…。
心地よいドア鈴の音に気付いた店員さんが、笑顔で俺を出迎えてくれた。
「すみません。只今、満席でございます」
「あ、そうですか。じゃあ、また来ます」
俺は笑顔だった。
こういう時は心に余裕を持たなければならない。
いいじゃないか。
結構じゃないか。
好きな店が繁盛しているんだ、素晴らしい事じゃないか。
よかった。うん、よかったよ。
こんなに繁盛してるなら、早々に潰れる事はない。
なんてついているんだ、今日は。
……また来よう。
午前8時40分。
駅へ向かう。
深夜勤務の俺は、出勤ラッシュに急かされている人々を見て優越感に浸る。
俺はこれから家へ帰るんだ。そして、ぐっすり寝るんだ、君たちがせっせと働いている中、心地よい眠りの世界へ飛び込むんだ。
しかし、狭い。
満員電車は狭い。
そして、モワッとする。
湿気だ。
出来れば一両ごとに最新の除湿器を完備してほしい。
あと二駅。
少しの我慢だ。
そんな決心をしたのも束の間、俺の目に、ある種のオアシスが飛び込んだ。
あそこの席、一人分空いているじゃないか!
歩数で言うと、その席まで約6歩半程だろうか。
夜勤終わりの俺の足を気遣って、きっと神様が空けてくださったんだ。
まるで、モーセの十戒の如く。
神様、ありがとうござ…
んはっ…!?
…見てる!?
その席を中心として、俺と調度対角線上にいるマダムが見てる!!
しかも進んでいる!!オアシスへと!!
諦めよう…うん。
きっとマダムは俺よりも疲れているんだ。
きっとマダムは徹夜3日目なんだ。
どうぞ、マダム
お座り下さいませ…。
…。
え?
ぇぇえええ!?
立ってる!!
マダムが立ってる!!
空いている席の真ん前で立ってる!!
何故…
何故、座らないんだ!!?
そして、
何故、あえて、空いている席の前に立つと決意したんだ!!?
…分からない。
確かに、
確かに空いている席の前にはスペースがあった。
しかし、それは次の駅などで降りる方達の配慮、
『もうすぐ旅立つ私達には必要のない席でございます。』
という、声に出さずに伝えるポジショニングだ。
なのに…
何故、座らないんだ…。
座ればいいじゃないか、マダム。
仮に、マダムが座れば、そこにスペースができる。満員電車内に一人分のゆとりができるんだ。
何故、座らない…
…ま、
まさか。
見えているのか?
霊的なものが…。
すでに目には見えない何者かが座っているというのか!?
確かに、あのマダムの首に巻いた黒いスカーフや紫色のモダンな上着を見ると、何かそれ系の力を持っていそうな気がしないでもない。
だとしても、
座ろうぜ、マダム。
透けてるんだからさ、霊的なものは。
マダムを見届けながら、俺は電車を降りた。
午前9時。
喉が渇いた。
予定では今頃、水滴という名の鱗を纏った冷えたアイスコーヒーを飲んでいるはずだったんだ。
喉の渇きが俺の脳に追いつけていない。
それを察した両足が、自動販売機へと闊歩する。
日常には様々な葛藤が存在します。
その葛藤をどのように処理していくか、どのように活かしていくか。
人間の感情と心情は助け合いながら歩みを進めていきます。
主人公のミナトは思うでしょう。
まぁ、なんとかなるか
と。