9.5話
布をトンネル状に張って作られた、簡素な馬車。
その車内で僕らは、壁を背に二対二で向かい合って座っていた。
固い木製の腰掛の上に座った僕は、頬杖を突きながら辺りを見渡す。
まず向かいに座る美香ちゃんが目に入る。美香ちゃんも頬杖をついているけれどその目は僕ではなく、馬車をあやつるおじさんの向う側、外の景色を眺めていた。僕もなんとなく、彼女が見ている方向を見る。
青い空と、そこに浮かんだ白い雲。草原を風が撫でてゆき、緑がさわさわとざわめいた。その中をまっすぐに突き抜ける茶色い道を、馬車は進んでいた。舗装はされておらず、踏み固められた土がむき出しになっていた。
「……綺麗な空ですね」
僕の右隣の紫苑さんが呟く。
その発言に何の意図が含まれていたのか、または何の意図もなかったのかはわからない。けど、もしこの車内の微妙に気まずい空気を察しての一言だったなら、大いに失敗だったと言えよう。
現状は何も変わらない。
不意に、美香ちゃんの隣の神崎が立ち上がった。
馬車の屋根は低いので半腰の中途半端な体制だ。そのまま、消えそうな声で小さくつぶやく。
「疲れた」
なら立たなきゃいいだろ馬鹿が。
「水でも飲む?」
「……ああ、ありがとう」
しかし、僕と違って優しい美香ちゃんの考えは違った。いや、僕も優しいのだ。彼が傷付くと思って、考えたことをすぐ口に出したりしなかった。そもそもそんなこと考えてる時点でとかいうのは……まあ、ノーコメントで。
美香ちゃんはカバンから水袋を取り出す。牛かなんかの胃袋から作られた道具で、一リットルくらいの容量がある。これもランドがくれた物だ。
……さて、ここで考えてみよう。
美香ちゃんが今神崎に差し出しているのは、美香ちゃんの水袋。金属製の飲み口部分には、当然、何度か美香ちゃんも口をつけている。
そして今それを受け取らんと右手を差し伸べた神崎は、この直後もちろんそれに口をつけるだろう。
つまりそれが何を意味するか。
美香ちゃんと神崎の、間接キス。
僕は俊敏だった。
「スト――――――ップ!!!!」
言うが早いか立ち上がり、左手では美香ちゃんの手を、右手では神崎の手を掴む。二人とも驚いた様子で僕をのほうを見た。
「……信也、ちょっと痛い」
「あ、ごめん」
美香ちゃんを掴んでいた手を離す。とっさの事とはいえ美香ちゃんに痛い思いをさせてしまった。これは猛省しなくてはなるまい。
「大丈夫? 痣とかになってない? ごめん僕、考えなしに美香ちゃんのこと掴んじゃって……」
「おいコラ俺に謝罪は無しか」
「本当にごめんね、もう二度とこんなことしないから」
「なんか握る力強くなってんだけど。うっ血しそうなんだけど」
「し、信也、私は大丈夫だから」
「一応見せて? 痣になっちゃったかも……」
「おいシカトすんな」
左手で美香ちゃんの手首をそっと持ち、痣とかになってないか見てみる。赤くなっている様子もないし、どうやら大丈夫のようだ。問題なく動かせるようなので骨などの心配もないだろう。
「なんか羽虫がブンブンうるさいけど、気にしないでね、美香ちゃん」
「よしわかった。お前今度こそ殺してやる」
羽虫の方から僕のこめかみに向けて鋭いこぶしが飛んでくる。それを素早く左手でいなし避けると、羽虫が驚いたように僕のことを見てきた。
羽虫のくせに二足歩行とは傲慢だな。虫はおとなしく自然に帰れ。
「お前、なんで今のパンチ……」
「ははっ、笑わせてくれるな羽虫。そのくらい避けられて当然だろう。一応これでもちょっと武術はやってたんだ」
主に美香ちゃんを守るための護身術を。……それよりも、だ。
今は、いち早くこの虫(神崎)を駆除しなくては。
「美香ちゃんにつく虫はすべて僕が追い払ってやるわああ!! 食らえ、ジャンピングスターターアタッ」「やめい」びしっ
側頭部に柔らかい衝撃。何かと思えば美香ちゃんからのチョップだった。呆れたように眉を下げ、チョップしてない方の手でやれやれと言った風に目頭を揉んでいる。
「んなっ! 止めないでくれ美香ちゃん、こいつは今僕が」
「 だ ・ ま ・ れ 」
妹から上目づかいでお願い事をされた。
わーい胸がときめ……かない。こんな睨まれてるのに喜べるほど僕は変態じゃない。
「とりあえず信也、座って」
「……はい」
言われるがまま、もといた椅子の上に腰を落とす。
「ねえ信也、もう一回言うから」
しかし美香ちゃんは納得いかなかった様子。
僕のことをにっこり笑いながら睨みつけ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「 す わ っ て 」
その二秒後、僕は座っていた。
床に正座で。
我ながら美しいフォルムチェンジだったと思う。
■ ■ ■ ■ ■
「はあ……なに信也、そんな事気にしてたの?」
「そんな事とはいかに。間接的ではあるにしてもキスはキスであるからして、乙女の貴殿はもう少しためらいをもってですね……」
美香ちゃんの意見に反論する。
足が痺れて痛い。だんだん足先の感覚がなくなってきた。
話を聞くところによると、美香ちゃんは間接キスとかを気にしないらしい。
気にしないのか……。意外だな。
「……ならいいけど、別に」
本人が気にしていないなら、問題ない、かな。……個人的にはやめてほしいんだけど、僕にそれを止める権利はないし。
「じゃあ、もらうぞ」
神崎が美香ちゃんの水袋を受け取る。カチッと給水口のふたを開き、口元へ。
口から離したまま、そそぐように飲む。……なんと。
「神崎、お前いいやつだな」
「うるせえ」
間接キス回避。やったぜ。
しかし美香ちゃんの唾液は飲まれてしまった。まあ僕も、鍋とかの時に唾液の交換はできてるから良いか。……うーむ。釈然としない。
「ほらよ」
「どうも」
神崎が美香ちゃんに水袋を返却。ふたを閉じてカバンに仕舞う。
「ところで美香ちゃん」
「? なに?」
「僕の正座はいつ解除されるので……?」
「まだ」
かわいい笑顔だった。
「……綺麗な空ですね」
紫苑さんがぼそりと、空を見ながら呟いた。
とりあえず書いたので投稿です。
この四人が馬車に揺られている理由は、次話の冒頭で説明がつくと思います。