#07 大学生・周防直弥
「あれ、そこにいるのは倉間の姫じゃないか。ぼうっと突っ立ってどうしたの」
広間を出て少し先の縁側でぼうっと庭を眺めていると、唐突に男の声が響いた。振り返らなくとも、声の主は誰だかわかる。年の割に大人の色気のある声だ。結月はそれを、常々、軟派な声だと思っていた。声をそう表現するのが正しいのかは定かでないが、とにかくそうだ。性格が声に滲み出ている。
「ちょっと、無視しないでよ。悲しいだろ?」
少しも悲しんでる様子はないにもかかわらず、男は芝居がかった調子で結月との距離を詰める。自らが美形であることを自覚している彼は、思ってもいないことを簡単に口にし、女性と見れば誰彼構わず口説く。天から与えられたものを最大限活用し、モラトリアムな大学生活を謳歌しているらしい。
結月はこの男のそんなところが嫌いだった。だいたい、姫などと痛い名称で結月を呼ぶのは、知る限り一人しかいない。
「その様子だと、無事、首が繋がったんだね」
「……ええ。仰るとおり首が繋がったので、喜びを噛み締めているんです」
さわやかな気持ちが一瞬にしてぶち壊しだ――ねめつけるように結月は男へと視線を向けた。思った通りの人物が、茶化すような顔で結月を見ていた。
「今日は着物じゃないんだ?いつもみたいに華やかに着飾った“お姫様”な君を眺めて目の保養にするのが、ここに来る唯一の楽しみだったんだけどな」
「悪かったですね、ただの制服で」
「んー、いや。今のは言葉の綾ってやつだな。セーラー服ね。うん、新鮮でいいんじゃない」
品定めするように上から下へと伝う視線に、結月は身震いした。わ、私には青少年保護育成条例という強い味方がついているんだから――こんな女の敵に負けてなるものか。
仔兎のように戦慄きながらも小さな牙を見せる結月の様子に、なぜか男は満足げな表情だった。もしかして、サディズムの気でもあるのだろうか。顔は素晴らしいが、性格は素晴らしく残念なようだ。
「そういうあなただって、それ、普段着のようですけど」
「はぁ、今日くらいは勘弁してよ。当主会議では正装、付き添いも正装って、いつまでも古いしきたりに縛られてさ、正直面倒なんだ。ったく、なにも一限がある日の朝に呼び出さなくても……ふわあぁ……眠い」
男は大きな欠伸をする。その聞き捨てならない台詞に、結月が眉根を寄せた。
「会議の時間をわざわざ繰り上げて集まったのは、元はといえばあなたのお父様の発案なのでしょう?それをまるでお兄様が悪いみたいに非難するのは止めて。筋違いだわ」
「相変わらずブラコンだなぁ。嫁の貰い手がなくなるよ」
「結構!あと、それについて、とーーーっても気持ち悪い噂を聞いたんだけど。あなたのところへ嫁になんて、絶対にいきませんからね」
「ああ……それね。親父が勝手に言ってるんだよ」
「勝手にって、なに暢気に構えてるのよ。それを諌めるのが周防家次期当主のあなたの役目なのよ?」
結月がこの男の許婚候補にあがっているらしい、と耳にしたのはつい最近のことだ。もちろん、半泣きで駆け込んだ先の静流は否定したが、噂は立ち消えるどころか尾ひれがついて広まり始めている。それもこれも、この男が自らの役割を果たしていないから――結月はムカムカと腹の立つ気持ちをなんとか抑えた。年上である男に対する口調がおざなりになるのは、この際仕方がない。
それを苦笑しながら聞いていた男は、結月を制し、その肩にぽんと手を置いた。
「別に諌める必要はないでしょ?特に問題ない話なんだし」
「なっ……」
「倉間家は既に代替わりして、静流さんという当主がいる。しばらくは安泰だろう。とはいえ出自に問題があるから、いずれ跡継ぎ問題は起きるけど……」
「変なこと言わないで!」
「ごめんごめん。とにかく、俺は構わないよ?君の事は好きだしね?」
「……周防家が、何を考えてるかは知りませんけど。私は政治の道具に使われるのはまっぴら御免ですから!」
言い捨て様に肩に置かれた手を払う。小気味良い音がした。そんなことをされても余裕の表情で自分を眺めている男の顔を一睨みすると、結月はその場を走り去った。
「君の主はお転婆だねぇ」
払われた手が少し赤みを帯びている。そんなに嫌だったのかなぁ、などと独りごちながら手をさすり、背後に近づく人影に声をかけた。
「年下の女性をからかうものではありませんよ」
能面のような顔をして、声をかけられた波流が立ち止まる。
どんな時でも――少なくとも自分が見ている限りではそうなのだが――感情を他人に読ませないというのは、ある意味尊敬できる特技だ。いや、波流の場合はそういう性格なのか。どちらにせよ、自分には真似出来ない。
「で、何をしてるのかな?波流チャンは」
「その呼び方はやめていただきたいのですが。直弥さんのお父上が当主会議の後から屋敷をふらついたまま行方が知れないものですから、お探ししているのです」
その言葉に、直弥はがっくりと肩を落とした。波流に冷たくあしらわれたことを悲しんだのではない。告げられた事態に、厄介事の気配を感じたのだ。
渋々ながら、問うた。
「どこにいる?」
『――屋敷右奥の廊下だな。確かにうろうろしている。迷子にでもなったんじゃないのか?』
渋い声が返った。この廊下には、直弥と波流の二人しかいない。
しかし三つ目の声はたしかに、直弥の耳元を彩る赤い石から響いた。
「ちょっと呼んで来てよ」
『――みだりに他家で姿現しをしてはならぬ、というしきたりがあったはずだが』
「また、しきたり……。はいはい、わかったよ」
古臭い風習とは難儀なものだ。直弥は不満を隠しもせず、盛大にため息をついた。
直弥とて、式神の他家における規律は理解している。それでもどうにかしてくれないかなぁなどと淡い期待を胸に頼んでみたのだが、律儀で頑固者な己の式神は、主の命よりもそちらを遵守するらしい。
「というわけだから、すまないが案内してくれないか、波流チャン」
「ですから……。直弥さん、以前から再三申し上げていると思いますが」
「俺は、可愛いものは可愛いと声を大にして愛でる主義なんだ。博愛主義ってやつ」
直弥にとってそれは当然の主張だったが、波流は白けた目で嘆息した。
「また随分と都合の良い解釈をなさいましたね。直弥さんの主義に口を挟むつもりはありません。問題にしているのは呼び方です。結月に対しても、悪趣味な呼び方をなさらないでいただきたい」
「えぇ。倉間の姫からは文句は言われてないよ」
「もう言い飽きたのではないですか。本当に昔から、嫌がらせのようにねちねちと呼び続けているのですから。その神経を疑います」
「ひどいなぁ。親愛の情を示しているんだよ」
「そのような情は示さなくて結構です」
「うーん……。なんか波流チャン、言い方が姫に似てきたような」
じろりと冷たい視線を向けられ、直弥は「はいはい……」と白旗を揚げた。
そうして、広大な屋敷の敷地を五分ほどゆっくりと歩いた後。
波流に連れられた屋敷の奥で、直弥は、不機嫌そうに佇む父の姿を見つけた。
「父上。探しましたよ」
「おお、直弥か」
いかにも庭で可憐にほころぶ梅の木を眺めていたという風を装いながら、父である周防家当主は振り返る。
「ちょうど良いところに来た。観梅も飽きてな。そろそろ帰ろうと思っておったところだ」
「そうでしたか。では参りましょう」
息子が無理やり貼り付けたような笑みを浮かべているというのに、父が気づく様子はない。昔からそうだ。父は息子に関心がなかった。
いや、別の意味でならば大いに関心はあった。それこそ周防家の跡取り息子として。その評価を上げることだけに尽力してきた父の期待に、直弥は充分に応えた。成績もよく、人付き合いもよく、祓師としても卓抜した才能を発揮した。
そんな息子を父は溺愛し、常に連れ歩き、自慢の種にする。それでも、息子の心の在り処について、父が気にしたことは一度もない。直弥はあくまでも、周防家の地位を磐石にするための道具でしかなかった。
「観梅とくれば、観桜だね。確か今年の観桜会は倉間家の担当だったっけ?どう、準備の様子は」
「そうですね。縹と柑子がそろそろ準備に入る頃だと思いますが」
波流が先導しながら答えた。
観桜会とは、五曜各家が一堂に会するだけあって格式高く、高度な情報交換の機会として古くから特別視されている場だ。毎年、桜が満開になる花見の時期に行われる。梅の時期にもう話題にするには気が早いように思えるが、実のところこれの準備には途方も無い労力と時間がかかるのだった。以前は毎年その準備に追われてげっそりしていた直弥がそう思うのだから間違いない。
盟主に静流が立ち、彼の鶴の一声で主催が各家持ち回り制になってからは、五年のうち一度だけ辛抱すればよくなった。これであともう少し、いや欲を言えばかなり、カジュアルな場になれば――ようするに一般的に言う盆暮れ正月の普通の親戚付き合いみたいなものになれば、何も言うことはないのだが。
そう波流に愚痴を零すと、「普通の親戚付き合いというものがどういうものなのかわかりませんので……」と返された。まったく、これだから籠の中の鳥は。
「なんだ、倉間の式神までおったのか。この主一人も守れん出来損ないが」
主に直弥が饒舌に話しかけていた雑談の最中、波流の存在に気づき、周防家当主が立ち止まった。途端にわざとらしく顔を歪める。直弥はその意図に気づき、嘆息した。――ああ、またか。
周防家当主は先ほど静流にやり込められた憂さ晴らしでもするように、口の端を持ち上げた。
「主の失敗は僕の責任。結月殿の失態は、すべてお前の咎なのだ。わかっておるのだろうな」
「……重々承知しております」
「いくら祓師のなり損ないとはいえ、お前はもう少し出来ると思っておったわ。結月殿は周防家の大切な許婚候補。せいぜい、式神としての責務は果たしてもらわなくては困る」
――倉間の式神。
それは、周防家当主が波流を揶揄するときに好んで使う蔑称だった。
南雲家は倉間家の分家にあたる。傍流の出には、しばしば血の濃い者が現れた。
波流もそのうちの一人だ。しかし波流は幼少時の事故が元で手足に傷痕が残るほどの大怪我をし、祓師としての能力を大きく損なった。
結界を張る、妖魔を退ける程度のことは難なく出来るものの、一人で妖魔を祓えるだけの力はもうもたない。そのため、結月に付き従い式神を持たない彼女を支える――生ける式神となることが、波流に残された道だった。
ただ、その事実を知るものは直弥を含めてごく僅かだ。あえて口にしない限り、波流は一流の『護衛』なのであり、それを嘲弄することなど誰にもできはしないのだ。
「結月を守ることは我が務め。周防家当主に言われるまでもありません。それから、最近、直弥殿の許婚の噂を耳にいたしますが」
波流は少しも動じることなく目の前の初老の男を見据えると、毅然とした態度で告げた。
「五曜の盟主である静流様のご意向がすべて。そのことをお忘れなきよう」
「まったく、南雲家の人間はどいつもこいつも、倉間家に従順すぎて困る」
憤懣やる方無い様子で、周防家当主――父が車のシートに乱雑に凭れかかった。
静流はおろか波流にまでいいようにあしらわれたのだ。怒りの持って行き場がない。おかげで車内には険悪なムードが漂っていた。
(あーあ……本当面倒だな)
エンジンが静かにかかり、滑らかに走り出す。さすがは高級車と言いたいところだが、今日ばかりは運転手のその技術を褒め、労わりたい。なぜなら直弥には、運転手の気持ちが痛いほどわかるのだ。
きっと彼は今、こう思っているだろう――触らぬ神に祟りなし、と。
「仕方ありませんよ、父上」
そうは言っても、いつまでもこのままではいられない。直弥はおもむろに口を開いた。
「分家は本家に付き従うもの。周防家とて例外にあらず、そうやって我々は五曜の血を絶やさず残し続けてきたんですから」
「しかし、あの倉間の若僧は異常すぎる。この数百年にわたり、妖星も現れず、大禍の封印も解けてはいないというに、今更五曜の務めがどうのと目障りにもほどがあるわ」
「ですが、祓師にとって務めは重要なことですよ。静流殿も祓師の一人。その責務は重々に感じられておられるのでしょう」
「そんなわけがあるか!あやつは我ら周防家から盟主の座を奪い今日に至るまで、その力を一片たりとも使っていないのだぞ」
「ええ……」
「その上、祓師をかき集めて、まるで王のように君臨しておる。権力でも誇示するつもりか」
かき集めて、と言うが、五曜の中で実際に祓師として存在するのは僅かな人数しかいない。特に、実戦経験があり即戦力となれるのは、周防家の直弥、倉間家の静流の二人くらいだ。
同じく五曜を構成する碓氷家と宝生家にもそれぞれ一人ずつ祓師が存在するが、直弥から見れば幼稚園のお遊戯レベルの出来だった。結月は潜在能力こそ高いと聞くものの、初陣をあんな形で終えたばかりで、はっきり言って話にならない。
平家にいたっては、祓師が存在しなかった。来年ようやく、孫娘が試術を受けられる年齢になる。
つまるところ、どういう意図なのか静流が実戦から身を引いている今、祓師としての仕事をほぼ一手に引き受けているのが、直弥なのだった。
(――権力、ね)
車の窓から、周防家の屋敷が見えた。倉間家と同じくらい趣のある立派な造りだ。大きすぎる正門に吸い込まれるように、車が進入する。
仰々しく出迎える執事とともに屋敷に入ろうとした父が、振り向きもせずに言い放った。
「直弥、お前は宿命に殉じるなど馬鹿馬鹿しいことは考えるでないぞ」
「もちろんです。死ぬのは御免ですから」
「お前は周防家の繁栄にのみ心を砕けばよい。倉間の生意気な若僧から盟主の座を取り戻すのだ。幸い、お前にはそれが出来るだけの力がある」
「はい、父上。仰せのままに」
恭しく一礼する。
どう答え、どう動けば父が満足するのか、直弥にはわかりきっている。
屋敷の中に父の姿が消えた。それを見届け、浮かべていた笑みが一瞬にして消え失せる。心の底からこみ上げる気持ちを、押し殺すことはできそうになかった。
「……クソッたれが。権力に憑かれてんのは、お前だよ」