#05 侵蝕
「――結月。何か言うことは?」
制服についた土埃を無表情に払いながら、波流が発言を促した。
「仕方ないじゃない。お荷物がいたのよ」
結月がビシッと指を颯太に向ける。自分は間違っていない、どうだ、と言わんばかりだ。だが、それで波流が納得した風はない。チラリと颯太を眺めたきり、視線を結月に戻した。
「その荷物とやらを勝手に拾ったのは誰?」
淡々と返す波流の言葉に、結月は「うっ……」と呻き、押し黙った。あくまでも自分の非を認めないらしい。その意固地な姿に、波流が小さくため息をついた。
「初陣だっていうのに、討伐の難易度を自ら上げてどうする」
「……だからそれは人助けで」
「そんなのは、自分の身も満足に守れない人間がすることじゃない」
「そんな風に言わなくても……!」
「そのくせ、力を使い果たして。退魔結界を張れと言ったのが聞こえなかった?」
「わ、私、その……攻撃特化型だから……」
「素直に『できませんでした』と言いなさい。結界術の練習をサボっていたからこうなる」
どうあっても結月の主張は認められないらしい。容赦なく切り捨てる波流の言葉に苛立ったのか、結月が語気を強めて反論した。
「でも!逃がすわけにはいかなかったわ。ちゃんと退治できたし、よかったじゃない」
「それは結果論。いざとなれば止めを差すのは結月じゃなくても出来る。それとも―― 一人で戦ってたとでもいうつもり」
含みのある一言に、結月がぐっと唇をかんだ。
確かに、あの場には結月だけではなく波流もいた。普段、波流が結月を守っているという事実からしても、波流の実力はなんら劣るものではないはずだ――おそらくは。
結月はスカートの裾を握り締め、項垂れた。
「だって……早く一人前と認めてもらいたかったの。お兄様にも……波流にも」
「……今度からちゃんと考えて行動して。――少し肝が冷えた」
波流が額に手を当てた。思い返したのか、眉間に皺を寄せ難しい顔をしている。
考えてみれば、波流にとって守るべき人間が目の前でこの上ない危険に晒されたのだ。言葉に感情を乗せずに話してはいるものの、内心動揺しているとしても無理はない。
妖鳥に対し防御無視の攻撃を繰り出そうとした結月はもちろんだが、それを間近で見せられた波流もまた、こうして引き続き冷静さを欠いているという事実が伝わったらしい。結月は言い募ろうとするのをついに止めた。
「……ごめんなさい」
「わかればいい」
やっと出た謝罪の言葉に、波流は小さく頷いた。それを機に詰問は終わる。
波流は気分を切り替えるように今度こそ大きく息を吐くと、結月の隣で未だ呆けている颯太に視線を移した。
「……それで?彼はなぜこんな状態でここに?」
ここで颯太に直接事情を聞かず、結月に聞くあたりが波流が波流たる所以なのだが、今それは完全に判断違いだろう。
「わかんない。波流も近くにいたなら知ってるでしょ。私が助けたとき、空に浮いてたのよ。本当に何なのかしら」
結月はしげしげと颯太を眺めた。
「んー、とりあえず祓っちゃおうか?」
「わああぁぁ!ちょっと待って!」
颯太は慌てて大声をあげた。とんでもなく物騒なことを言われたような気がしたのだ。全力で阻止する。
「……はぁ」
二人のやり取りを眺め、波流が暫しこめかみを押さえた。いかにも頭が痛い状況、という空気を感じる。颯太は申し訳ない気持ちになった。
「あの……すみません。自分でもよくわからなくて……」
「ああ、ごめん。ちょっと色々考えてしまって。あまり気に病まないでほしい」
何を考えたのだろうか。この表情ではあまり良いことではなさそうだ。聞くのが怖い。
「ん~、何?もしかしてこの人やっぱりもう死んでるのかなーとか?」
「うん、まあ……」
「変なこと考えないで!生きてますから!!」
――やはりとんでもないことを考えていたようだ。
颯太の涙ながらの訴えが夜の街に木霊する。波流は颯太の反応に少し驚いたようで、逡巡の後、口を開いた。
「ごめん、少しからかっただけ」
「えええぇぇ……」
「いや、少し可能性はあると思ったけれど……」
「どっちですか!!」
「も~、はいはい。生きてる、生きてるから。静かにして」
面倒かつ適当な調子で、結月が会話に割って入った。
「波流には冗談は通じないの。だから絡んだ私が悪かったわ。とにかく、あなたはあの時死んでなかったし、容態が急変してない限りは生きてるはず。だから、大丈夫よ」
「……あの時?」
結月の物言いが引っかかった。何かを知っているような口ぶりだ。颯太は怪訝な顔で結月を見返したが、口を開いたのは波流のほうだった。
「君は、二年一組の蓮見颯太君。――合っている?」
「は、はい。あれ?なんで俺の名前を?」
「君は今日の夕方、交通事故にあった」
「えっ……何で知ってるんですか!?」
そういえば、そんなこともあった。色んなことがありすぎて最早遠い記憶になっていた事故のことに言及され、驚いた。が、さらに驚きの事実が結月からもたらされた。
「だって、救急車を呼んだの、私たちだから」
「ええっ!」
「あの時、ちょうど現場のそばにいたのよ。倒れてる人の中にあなたがいることに波流が気づいて、トラックに轢かれたわけだし酷い怪我じゃないかって言うから、搬送先までついていったの。その時、救急隊員の人に色々説明するために、勝手だけど生徒手帳を見たわ」
「それは……お手数おかけしまして……」
颯太は縮こまって頭を下げた。そこまで心配させておきながら、怪我はたんこぶだけだったなんて、言えない。いや、言ったほうがいいのか。世話になった二人なのだから。
「だけど波流もよく同じ学校の生徒だって気づいたわね。学ランってどれも同じに見えるけど」
「そうじゃない。名前は知らなかったけれど、顔見知りだったから気づいただけ」
「顔見知り?もしかして、二人は知り合いだったの?」
結月が目を丸くして、颯太と波流を交互に見た。その反応に、今度は颯太と波流が顔を見合わせる。
「まさか、覚えてない?結月も昨日、下駄箱の前で彼と会ったよ」
「えっ……」
結月が絶句する。
何もそこまで、と思うが、あまりの絶句ぶりに思いのほか気まずい空気が漂った。
「そ……それで私たちの名前を知ってたのね。さっきから気にはなってたの」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
颯太が結月や波流の名前を知っているのは、転校二日目にして二人が学校の有名人だからだ。それに引き換え、颯太は二人と違って持て囃されるような生徒ではない。
たった一時会っただけで――しかもあんな状況で――結月の記憶に自分が残っていると思えるほど、幸福な脳の作りにはなっていなかった。だから、結月が颯太の顔を覚えていなくても、まして名前を知らなくても、別に構わないのだ。
とはいえ、結月のほうはそうは思ってはいないようだった。バツが悪そうにもじもじと動く。
「ご、ごめんなさい……。あの時はちょっとその……」
「そ、そんなに気にしないでよ。なんかそれどころじゃなかったみたいだしさ」
「本当にごめんなさい……!誰かに八つ当たりしたのは覚えてるんだけど……」
恐縮している結月は、なんというか可愛らしかった。颯太は思わず笑ってしまい、結月に恨めしそうに睨まれる。そこで、提案することにした。
「じゃあ、もしよかったら、あいこにしてもらえると助かる」
「あいこ?」
「そう、倉間さんの昨日の件と、俺のこの……なんて言えばいいかわからないけど、とにかく助けてもらった件。あいこにするには全然つりあわないとは思うんだけどさ、倉間さんがいいなら」
「……なるほど、相殺ってことね。……うん、いいわ。そうしましょ!」
提案はどうやら結月のお気に召したらしい。途端に元気を取り戻す様子がまた可愛らしかった。
「ところで……俺も一つ質問してもいいかな。今更なんだけど」
「なに?」
「倉間さんたちはなんでここにいるの?」
颯太は至極尤もな問いを投げかけたつもりだった。が、結月の動きがぴたりと止まった。その目が、明後日の方向に泳ぎ始める。
「それに、さっきあの鳥を倒した倉間さんの……なんか不思議な力とか。南雲先輩が出した炎とか」
そう、言い出せばきりが無いくらい、わけがわからないことが起こり過ぎていたわけで――颯太はここぞとばかりに問いを重ねた。こんな真夜中に空を漂う自分も自分だが、そこに居合わせ、妖鳥などというありえない存在と戦っていた結月たちこそ、最も不可解な存在なのだ。
「そもそもあの鳥はどういう」
「ス、ストーップ!質問が増えてるわよ?」
「あ。まあ、それはそうだけど」
途中で発言を止められ、颯太の勢いが萎む。その隙を狙ったかのように、結月は腰に手を当てると尊大な態度に出た。
「駄目。男に二言は無しよ。最初に質問は一つって言ったんだから、一つだけ答えるわ」
「う。じゃあ……」
「その前に。あなたは大切な質問を私たちにしないといけないんじゃない?」
「えっ。なに?」
「――『ボクはこのまま漂い続けなければならないんでしょーか?』」
「……!!」
結月の言葉に、颯太の顔色が変わる。
「俺、このままなの!?」
「それはわからないけど。元に戻れる当てはあるの?」
「……ない。倉間さんには心当たりがあるの?」
「ないわ」
「ちょっと!」
颯太のツッコミが虚しく響く。思わせぶりに言うのだから、何かあるのかと一瞬期待してしまった。
「でも、一緒に考えてあげることは出来るわよ」
結月は艶めいた唇に指を当てて首を傾げると、気落ちしている颯太のそばに屈んだ。
「あなたは、わけもなく空に浮かぶ前はなにをしてたの?」
「……寝てたと思う。病院のベッドで。考えたんだけど、これって幽体離脱なのかな」
「うーん……。どうかしら。身体が生きてて別にあるとしたら、今のあなたの存在は魂ってことになると思うけど……」
「魂って……どういうこと?」
「うぅーん……」
颯太と結月は互いに唸りあった。それで事態がどうにかなるわけではないが、一緒に考えてくれる人がいるというのはとても心強い。
「何か他に気づいたことはない?」
「うーん……。あれっ?」
結月に促されて再度身体を見つめていた颯太は、あることに気づいて声を上げた。
「なんか、身体が薄く光ってる……かも」
「ええっ?」
改めて見下ろした身体は、よくよく見なければ気づかないくらい、薄く発光していた。まるで光の膜に覆われているようだ。この新発見が解決の糸口になるかもしれない――そう期待に胸を膨らませる。
しかし、颯太と同じように凝視した結月は、首を横に振った。
「光ってるようには見えないけど……」
「いや、光ってるよ。よく見てよ」
「……ううん、別に何も変なところはないわ。ねぇ、波流もそう思うでしょ?」
結月は、そばにいた波流の腕を引く。それに呼応して颯太の身体を眺めた波流は、一旦そこから目を伏せて考え込んだ。
「結月の言う通り、変わった様子は感じられない……けど……」
「もしかして、波流、何かわかったの?」
「……今はそれを議論するには情報が少なすぎる。それより、きちんと身体に戻れるかどうか試したほうがいい」
波流はあっさりと会話を切り替えた。うまくはぐらかされたような気がしないでもない。だが、この状況では埒が明かないのも確かだ。元の状態に戻ってから、なにが起きていたのかをじっくり考える。その順序でもいいはずだ。
「えっと……身体は病院にあるのよね。とりあえず、病院のほうには動いてみた?」
「もちろん、何度も試したよ。でも駄目だった」
「戻れーって念じるとか」
「それも駄目」
「そうよね……。それが出来てたらこんなことにはなってないものね」
念のため、もう一度颯太は試してみた。しかし、結果は同じだ。
結月が肩をすくめた。お手上げ、という顔だ。本当にどうすればいいのか。颯太はほとほと困り果てて波流を見上げた。頼みの綱はこの人だ、となんとなく思える。
颯太の縋るような視線にも、波流はたじろぐことはなかった。指を顎に当て、ふと呟いた。
「……もしかしたら、時間が解決するかもしれない」
「時間がって……。そんな失恋の格言みたいなこと言ってる場合?悠長にしてたら、また妖魔に見つかって食べられちゃうかもしれないわ」
「それは嫌だ!!」
呆れる結月の言葉を食い気味に颯太が叫んだ。冗談ではない、もうあんな思いは懲り懲りだ。無抵抗に襲われ喰われるなんて。今回は運よく助けてもらえたが、二度目はきっと――ない。
「推測が合ってるなら、そう長く待たなくていい。たぶん、もうすぐ」
波流が、左手につけていた腕時計に目を落とした。思わず颯太はその視線を辿る。時計の盤面が小さいために颯太には今が何時かなど見えないし、そもそも波流が何の時間を確認しているのかもわかりかねた。
結月が波流に近づき、時計を覗き込む。
その時、結月の髪に何かの光がうっすらと差した。淡く輝くそれは、次第に街全体に広がっていく。あることに気づき、颯太は街の向こうにある山のほうを見た。
日の出だった。山頂から、朝日が顔を出し始めていた。
「――あ」
時計から顔を上げた結月が、ぽかんと口を開けた。そして、ただ、見届ける。
眩しそうに目を細めた颯太の姿が、キラキラと輝きながら光に溶けるように消えていくのを。
「蓮見さーん、朝ですよ。起きましょうね」
看護師の快活な声とともに、大きなカーテンが音を立てて引かれた。
どうやら今朝は快晴らしい。窓から差し込む朝日が、閉じていた瞼を刺激する。
「う……朝……」
喉が異様に渇いていた。寝ぼけ眼をこする。なんだか頭が重い。
窓の外で気持ちよさそうに風に木の葉を揺らす木々をぼんやりと眺めていると、なにか黒い影がサッと脳裏をかすめた。
その一瞬で、一気に記憶が蘇った。弾かれるように飛び起きる。
(――今のは)
おぞましい、闇。鳥に姿を変えた、妖魔の残像。
無意識のうちに、手が身体を確認するようにあちこちに触れた。意識したとおりに身体が動き、重力を感じる。心臓が早鐘を打っているのがわかった。
「戻ってる……」
ここは病室だ。昨夜眠りに落ちた、ベッドの上。そして、いつもと同じように目覚めた。
定義できない、先ほどまでの曖昧な存在ではもうなかった。これが通常の、人としてあるべき姿だ。彼ら風に言うならば、颯太の意識は颯太の身体という『器』の中にきちんと収まっている。
「どうかしましたか?よく眠れていたようですけれど」
挙動のおかしな颯太の顔を、看護師が覗き込んだ。
「……俺、眠ってました?普通に」
「え?ええ……何度か巡回しましたけど、ずっと気持ちよさそうにすやすや寝てましたよ?」
質問の意図がわからないながらも、看護師は丁寧に答える。
その後、ワゴンに載った朝食が各病室に配ばれてきた。看護師はそれらを確認し、午前中に実施する予定の検査の説明を簡単にしてから、隣の病室へと向かっていく。
(――夢、だったのか?)
病院の平和な朝の光景に、手にした箸の動きが止まる。自分の内心とのギャップが違いすぎて、心の整理がつかなかった。
夢だったら、いいのに。
そんな思いに頭を振る。そんなはずはなかった。
夜の街、広がる闇、襲い掛かる風。そして結月との出会い、静寂を切り裂く閃光。こんなにも鮮明に覚えている。
なにより、思い出すたびに心の底から湧き上がる恐怖感が、それが現実だったと強く示しているのだ。
だが、それだけだ。それ以外の証拠は何もない。
寝ている間に起きたホラー。悪夢を見た、と考えるのが普通だろう。結月や波流の印象が強すぎて、そんな突拍子もない夢を見てしまった。そういうことなのかもしれない。
「朝はニュース見ないと落ち着かないな」
隣で美味しそうに味噌汁を飲んでいた織部がテレビをつけた。さすがは商社勤めというところだろうか。颯太は気分が晴れないまま、おかずの焼き鮭を口に運んだ。何度かチャンネルを替えて落ち着いた番組では、景気が上向きになってきたとか、外国のとあるの地域の情勢がどうのとかいう固い話題が続いている。
織部のわかりやすい解説に頷いていると、「次のニュースです」というアナウンサーの声とともに、見慣れた風景がテレビに映った。
『昨夜未明、品川区で局地的な突風が発生し、住宅二棟の屋根が損壊、付近の民家の窓ガラスが割れ、庭の木が根元から折れるなどの被害がありました。事前に強風警報等の予報は出ておらず、気象庁の見解では――』
ポトリ、と颯太の箸から鮭の身が落ちた。
口をあんぐりと開け、穴が開くほどテレビの画面を見つめる。
「あれっ、ここから割と近いな。確かに昨日はやたらと風が吹いてたし。危ないねぇ」
朝食を食べ終えた織部もまじまじと映像を眺めた。折れた木の前で、リポーターが住民にインタビューを敢行する様子が映し出されている。颯太はごくりと唾を飲み込んだ。
(――同じだ)
真夜中に見た光景が、そこにあった。
不意に、結月が語っていた言葉が蘇る。
『――すでに実害が出始めているし……もし何もないところで力を使えばもっとひどいことになる……』
つまりは、そういうことだった。
今テレビに映っている光景こそが、巨大な妖鳥が巻き起こす旋風が生み出した、実害なのだ。もし、結界の効力が完全になくなったあとで、同じことが起きていたのなら――颯太はゾッとした。
(夢じゃ、なかったんだ)
颯太はざわめく胸を押さえ、窓の外に目を向けた。
あんなにも恐ろしいことが秘密裏に起こり、秘密裏に終わる。世の中は何も知らず、至って平和な朝を迎えている。
本当ならば、颯太だってそちら側にいたはずだ。
しかし、あるべき平和な日常は昨日を限りに壊れ、何かが侵蝕し始めようとしていた。
颯太は、昨夜会った二人のことを思い返していた。
結月は、波流は、今どうしているんだろう――。