#04 夜の闇さえ撃ち抜いて
――そして、今。
再び迫り来る闇に、颯太はあえなく吹き飛ばされ、またしても風に巻き上げられていた。体重を感じさせない身体は、どうやっても制御不可能だ。
「ちょっと――もう!どこまで飛んでくのよ」
屋根の上で仁王立ちしていた結月は、華麗に突風をかわしていたようだ。
なおも襲い掛かる何かをすばやい身のこなしで避けると、宙を睨み飛び上がった。伸ばされた細く白い手が、颯太のパーカーのフード部分を掴む。途端に颯太に重力がかかった。
「ぐえっ、く、苦しい!首が絞まる!」
「ちょっと我慢して」
颯太の決死の申告をさらっと流し、結月はフードを掴んだまま落下した。ほどなく、街灯の下に影ができる。
左手に颯太、右手に銃を手にした結月が、その光の差す場所に降り立った。結月は伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げる。リボンが風を纏い、髪が揺蕩った。
「そんなに暴れられたら困るんだけど」
といいつつも、結月はそこまで困った顔はしていなかった。
ゼィゼィと荒く息をしながら、颯太はこの扱いに礼を言うべきか注文をつけるべきか迷う。だが、自分が言われたわけではないらしいと気づいた。結月の視線は颯太ではなく、少し先の薄暗い道端に向いていた。
キイィィ、と何かが一声上げた。
高いだけで耳障りな音が、夜の静寂を切り裂く。結月に対する返答のように。
(――やっぱり、そうだ)
確信に変わった思いを、颯太は思わず口に出していた。
「倉間さん、何か見えてるんだ……」
結月が視線をやっと颯太に向けた。
ああ、と思い出したように、フードを掴んでいた手を離す。
「あなたには見える?」
「……何も見えない」
「本当に?その割には、私と同じところを見てるようだけど」
「本当に何も見えないよ。何もない。真っ暗な闇があるだけ……」
結月は颯太の答えに一つ瞬きをした。そして、ふっと笑った。
「見えてるじゃない。そう、それが正解。――半分ね」
意味がわからず、颯太はぽかんとした。
半分正解、とはどういうことか。
「妖魔は普通の人には見えないの。でも、今のあなたは普通じゃない。だから少しだけ見えてる」
「妖魔……って」
颯太の顔から血の気が引いた。
妖怪。魔物。そんな単語が脳裏を渦巻く。おぞましいモノしか連想できない。おおよそ人間とは相容れない――化物。そんな想像上の、あるいは自分とは全く無縁だと思っていたモノが、そこにあるという。
「あ……あの闇が妖魔?」
「あなたはあれの本質を捉えてる。あれを闇だと認識しているのはそういうこと。ただし、私にはあれの器も見える」
「器?どういうこと?」
「あなたも見えれば手っ取り早いんだけど……。そうね、見えるかも。闇に目を凝らしてみて」
じわりと浮き出す汗を感じながら、颯太は闇に目を向けた。あれが恐ろしいものだとわかってはいたが、妖魔だと言われた途端、さらに空恐ろしいものに思えてくる。怖々と見つめたが、そこには闇が広がるだけだった。
「……特に何も変わらないけど」
「怖がって見ようとしていないからでしょ。ちゃんと視て」
事実とはいえ、面と向かって指摘されると少しムッとした。いきなりわけのわからないことが起こり過ぎてついていけてないだけなんだ、別に怖がってるだけじゃない――颯太は頭を振った。このままでは男としての面子が廃る。
颯太は再度、闇を見た。
黒く塗り潰されたような闇。夜の帳に馴染むように果てなく続く闇。
ふと、闇が揺らめいた。ハッと目を見張る。一瞬得た感覚を逃してはならない。
闇はゆっくりと歪み、抵抗するように戻り、また歪んだ。
颯太は意識してそれを見つめ続ける。そして――闇の中にうっすらと浮かぶ輪郭を掴んだ。
闇の中に、さらに濃い闇を形作る輪郭。目の錯覚が起きたのかと思った。たとえるなら、絵を眺めていると別の絵が浮かんでくる錯視のように、それは唐突に闇から現れ出た。
ばさり、と大きく広げ構える羽が見えた。
(な、なんだ、あれ……)
――巨大な風切羽を持つ、鳥だ。目が異様な光を帯び、こちらを見据えている。
いや、あんな大きさの鳥など今まで見たことがない。颯太の背丈を覆うほどの巨体だ。
硬質な嘴が僅かに開いた。耳障りで不快な音が漏れ出てくる。
ごくり、と唾を飲み込み、颯太は思わず後ずさった。その顔色から、結月はそれを見たと判断した。
「すごいわ。祓師でもないのに見えるなんて。身体がおかしな状態だと、そういうこともあるのね」
「一応、確認するけど……あれ、鳥だよな?」
「――正解。さっきのと合わせて、パーフェクト。おめでとう」
颯太にとってはめでたくもなんともないが、盛大に拍手される。結月は言葉を続けた。
「あれは妖鳥よ。影喰いに憑かれて一週間ってところかな、だいぶ大きくなってる。なかなか姿を現さないから探すのに苦労してたのよね。見つかってよかった。そろそろ空腹も限界で餌を探してたのね」
せっかくの結月の説明だったが、颯太の頭にはうまく入ってこなかった。ここへきて許容量オーバーだ。脳が正しく処理できず、耳が拾った単語を繰り返した。
「餌……」
「そう。餌。あなたは今、あれに美味しく食べられそうになってるの」
「はあっ!?」
耳を疑う発言だ。食べられるだなんて。平和に暮らしていたはずなのに、そんな無残な死に方は想定外だ。それでも、そうなる可能性について残念ながらこの目でしっかりと確認してしまった。受け入れがたい現実というものは、ままある。
「……あんなのに襲われてたなんて」
「襲われてる、の。――まだ終わっちゃいないわ!」
茫然自失と呟く颯太を結月が突き飛ばした。
視界の端に、妖鳥の羽が振り切られるのが見える。驚く間もなく、二人が立っていたところに激しい風が吹き付けた。風圧によって近くの木がありえない角度にしなり、折れる。どこかの民家のガラス窓が、派手に割れる音がした。
「……マジかよ」
甚大な被害に目を覆った。咄嗟に、颯太はおかしな体勢のままあたりを見渡す。
探していた結月はすぐ見つかった。颯太の斜め後方に舞い上がっている。結月は颯太とは違い制御可能な身体で近くの電柱の上に降り立つと、足元の妖鳥を見下ろした。
だが、その様子が少し変だ。
「しまった……!結界の効力が切れ始めてる……」
結月の顔にはありありと、“失敗”の二文字が浮かんでいる。
途端に、颯太の心に不安が押し寄せてきた。どういうわけか眼下の妖鳥と渡り合う術を持ち合わせ、優位に立っていたように見えた結月が、一転、なにかまずい表情をしているのだ。口出しする立場ではなかったが、気が急いた。
大丈夫だよな、大丈夫だと言ってくれ――願いを込めて、颯太は問いかけた。
「ど、どうした……?」
「どうしたもこうしたも……」
空を見上げた妖鳥の不気味に光る眼と、結月の目があう。
「――このままじゃ、術が使えない」
(なっ……)
瞠目し、颯太が足元を見下ろすのと、そこにいる妖鳥が声を上げたのは同時だった。絶望へと誘う旋律とともに、広げた羽に浮力を得て妖鳥がその身を起こす。
よく見れば、鳥の胸元あたりの羽毛はどす黒く汚れていた。結月の銃が放った閃光に貫かれた箇所なのかもしれない。その深く空いた一穴からは、黒い鱗粉のようなものが流れ出て周囲に霧散している。ますますもって、ただの鳥ではない。
「ホントにどうにもならないのか?」
「結界がもうもたないわ!すでに実害が出始めているし……もし何もないところで力を使えばもっとひどいことになる……」
「実害?」
聞き返した颯太の言葉に、結月は反応しなかった。切羽詰まった顔でなにやら思案しているが、見る限りその進捗は思わしくない。
妖鳥が作り出し始めた濃い闇を、颯太はぼうっと眺めた。あの恐ろしい生き物がなにをしようとしているのかはわからない。だが、もう何の抵抗も出来ないのならば、あえて追及する必要はないのかもしれない。これから先起こりうる惨劇を甘んじて受け入れる。――受け入れなければならない。
(そんなの……嫌だ……!)
颯太は強く頭を振り、一瞬囚われかけた諦めの思いを振り払った。だが、こんな状態の自分に、今何ができるというのだろう。ただの人間が、あんな化け物と対峙して無事でいられるなど奇跡以外の何物でもない。
いや、それでも奇跡は一度起きたのだ。結月という救世主が現れた。その夢は無常にも散り、颯太は二度目の奇跡を求めて足掻いている。
(やっぱり、もう駄目なんだ)
絶望が、颯太の思考を乱し始めたときだった。
颯太の心情とは程遠いところにある落ち着いた声が、背後から届いた。
「――そこまで」
まるで、試合終了、とでも告げているかのようだった。
颯太は反射的に振り返った。今、自分は宙に浮いているのだ。同じような高さに人が存在するはずはない。隣の結月を除いて。しかし、黒い学生服に身を包んで現れ出たその人は、そこにいることが当然という顔をして、颯太が浮かぶ民家の屋根の上に佇んでいる。
結月は声の主の正体はわかっていたようだった。苦い顔をして振り返った。
「波流……」
「時間切れだよ。とりあえず結界を張り直す。結月は次であいつを仕留めて。できる?」
声の主は、颯太にとってこの二日で見慣れた顔の美少年――南雲波流だった。
「……わかったわ。できる」
「じゃあ、彼はこっちで預かるから」
「えっ、俺?」
「そう。早く来て」
来て、と言われても自分の意思では行けないのだ、と伝えようとしたところで、腕を波流に掴まれた。どうやら颯太の状態は把握しているらしい。
そもそも波流はこの緊迫した場に唐突に現れながら、結月のように動揺してはいなかった。しかも、これから結界を張ると言う。いったいどこまでこの状況を把握しているのか。おそらくは最初から知っているのだ、と颯太は漠然と思った。
「――護縛」
地表に降り立った波流が片膝をつき、地面に右手の人差し指と中指を差した。短く言葉を放つと同時に、その指先から火焔が発する。
焔はまるで意思を持っているかのように凄まじい勢いで左右に分かれて走り、あたり一帯を囲む輪になった。奥には、燃え盛る火焔の輪の中に閉じ込められた結月の姿が見える。その右手に持つ銃が、赤々と照らされた。
「火事!?倉間さんが中にいます、南雲先輩!」
「落ち着いて。これは単なる炎ではないから」
慌てふためく颯太に対し、波流はまったく取り合わない。焔が行き届き、きっちりと輪が完成したことを確認して、波流はようやく地面から指を離した。すると、嘘のように火焔が立ち消え、静寂が辺りを包み込む。颯太にとって、白昼夢でも見たような――今は昼ではないけれど――信じられない気持ちだ。
「えっ……!?どういう……」
「しっ。静かに」
人差し指を口の前に立て、波流が制止する。波流の視線の先には、なにやら動きの鈍くなった妖鳥と、それに狙いを定める結月の姿があった。
颯太が固唾を呑んで見守る中、引き金に掛けられた結月の指が躊躇なく引かれる。瞼に焼きつくような光とともに、爆音が轟いた。
耳を劈くような鳴き声が響く。
自ら的になるために身を差し出していたとしか思えないほど無防備だった妖鳥が、ゆっくりと仰け反り倒れた。
「倒したんですか!?」
「そうだね、たぶん……。ただ、まだ消えていない……」
快哉を叫ぶ勢いの颯太とは裏腹に、波流が慎重に妖鳥の様子を伺う。
颯太と同じく飛び上がって喜んでいる結月が、「やった……!初任務完了!」などと叫びながら地に横たわる妖鳥に駆け寄った。
その一瞬だった。ピクリ、と妖鳥の足が動いたのは。
「――結月!離れて!」
波流が飛び出す。指を前に差し出し何かをしようとして、ぎり、と唇を噛んだ。そのまま駆け寄りながら、驚きのあまり固まっている結月に叫ぶ。
「結月、自分で退魔結界を張って!ここからじゃ結月に届かない!」
「え、ええっ、結界……!?」
波流の指示に結月が戸惑った。波流と同じように指を差し出しながら、しかしそれを見つめる瞳は頼りなく、動作に移ろうとはしない。
「結月、早く!」
「ま、待ってよ!そんなこと急に言われても……っ」
右往左往している間にも、妖鳥が瀕死の身体を動かしていた。
それでも、飛んで逃げることはもう出来ないと悟ったのか。一矢報いようとする鉤爪が結月の頭上でギラリと光る。
「倉間、危ない!」
颯太はただ、声の限り叫んでいた。恨めしい、と痛烈に思った。ふよふよと浮かんでいるだけで、この場で何も出来ずに守られているだけの自分が――。
「――っ、境戒!」
襲い掛かる鉤爪が、間一髪、波流の凛とした声に阻まれた。鋭利な切っ先が結月の頭上に引かれた一閃に弾かれ、無残に欠片を散らす。
(間に合った……!)
ただ、颯太がホッとしたのもつかの間。結月は鉤爪が振り下ろされるより早く、両手を掲げていた。それはどう見ても、波流の指示したそれの動きではない。
右手には銃。既にその標準は定められている。対の左の掌には、まだ何もない。
「結月、それは駄目……!」
波流が僅かに目を見張る。だが、止める意思はあっても、助けに入った以上の動きは間に合わない。眩い光が結月の左手に生まれ、それは右手にあるものと同じものに変形していく。
「……観念、しなさいッ――!」
両手に構えられた銃口から、二つのエネルギーが轟音とともに放たれた。
暴発ともいえるような、凄まじい音と圧力。もし颯太が普通の状態ならば、立っていられないほどの衝撃。
閃光が消え、夜の街がようやく静寂を取り戻す頃には、結月のセーラー服のはためきもいつの間にか収まっていた。あたりを濃く包んでいた夜の闇すら、薄まっているような気がする。
そう、全ては終わっていた。
妖鳥には、絶命の声をあげることすら許されなかった。器の輪郭が解け、闇の塊が地面に堕ちる。
それは砂山が崩れるように一度大きく崩れた後、夜の風に舞ってサラサラと消えていった。