#03 真夜中の邂逅
目覚めた時、ぼんやりとながらも真っ先に目に映ったのは、見慣れないどこかの天井だった。
(ここは――)
次第に焦点が定まってくる。薬品のような独特の匂いがした。
――病院だ。
左上には、液体が入った袋が吊り下げられていた。
身動ぎすると、聞き慣れた声がした。
「――颯太?気がついたの?」
寝ている颯太の顔を覗き込んだのは、颯太の母親だ。
ちょうどリンゴを切っているところだったらしい。左手に半分に切れたリンゴ、右手に果物ナイフを握り締めている。
「……っ痛……」
起き上がろうとして、後頭部に走った鈍い痛みに顔を顰めた。手を当てると、柔らかい布の感触がある。頭に包帯が巻かれていた。颯太の母は、心配そうに颯太の後頭部に手をやった。
「ああ、まだ腫れてるものねぇ。おっきなたんこぶだったから……」
「たんこぶ……!?」
ものものしく病院で寝かされている割には平和そうなワードだ。
そもそもなにが起こったのかわかっていない颯太は、母の言うとおり大きく腫れている後頭部をそっとさすりながら、恐る恐る切り出した。
「あのさ……なんで俺ここにいるの?」
「颯太、覚えてないの?トラックに轢かれかけたのよ」
「トラックに!?」
ぎょっとして母を見るが、当の母はのほほんと「テストの順位が下がったのを気にするなんて、大学ならどこでもいいのに困ったわねぇ……」なとど頬に手をやって呟いている。とてもではないが、交通事故にあった息子の目覚めに感動しているようには見えない。母はリンゴの皮をウサギ型にカットし、あろうことか自分で食べた。
それを眺めながら、颯太は母親の答えに引っかかった箇所を復唱した。
「――轢かれかけた?」
「そう。すんでのところで助けに入ってくれた人が颯太を突き飛ばしたから、轢かれずに済んだの。感謝しなさいよ」
「そ、そうなんだ……」
あの時感じたのは、トラックに轢かれた衝撃ではない。突き飛ばされた衝撃だったのだ。おかげでたんこぶ一つ作っただけで、こうして無事に生きているのである。なんという奇跡だろうか。ありがたすぎる話だ。
「それで、俺を助けてくれた人は?」
「あ、ここにいます」
隣のベッドから突然声が上がった。
そこには、左手を上げてニコニコしている、四十代前半くらいの男性がいた。見たところまだまだ働き盛りのサラリーマンという風情だが、如何せん戦闘服であるスーツはヨレヨレの状態でベッド脇に置かれている。
「こちら、織部さん。駅前にある商社にお勤めされていて、偶然通りがかったところを助けていただいたのよ」
「蓮見颯太です。この度は助けていただきありが……」
母の紹介を受け、颯太は御礼を口にしかけて――戸惑った。
なんとも大変なことに、目の前の男性の頭は包帯でぐるぐる巻きにされ、右手も肩から包帯で吊るかたちで固定されている。
(ええええ……どう見ても俺より重傷……!?)
「いやぁ、代わりにちょっとトラックにぶつかっちゃってさぁ、ハハハ」
「え、あ、あの……。ご迷惑をおかけしてすみません。傷のほうは大丈夫なんでしょうか?」
「まあ、このくらい大丈夫だよ。それより駄目だぞ、まだ若いのに世を儚んじゃあ」
「は……?」
「勉強すれば順位も上がるから。来年は受験生なんだって?いやぁ、私にも君と同じ歳の息子がいるから、なんだか放っておけなくてね」
「は、はあ……」
目の前の男性――織部といい、母といい、さっきから何を言っているのだろうと視線をベッド脇の小さな台に移すと、そこには颯太が所持していた鞄が立て掛けてあった。事故の衝撃で中身が外に出て散乱したとかで、ノートやペンケースは鞄の中に入れてあるものの、そのほかの細かなものが所在なさげにまとめて置いてある。
その中に、小さく丸まった紙切れがあった。手を伸ばして広げる。
それを見て、やっと颯太にも理解できた。それは三学期の実力テストの結果と、その順位が印字されたものだ。母はこれを見て早とちりしたのだ。
冬休み、まったく勉強していなかったせいで、その結果は散々たるものだった。それでも、別にテストの結果に絶望してこの世とおさらばしたかったわけじゃない。少し現実逃避するため、見なかったことにして、紙を丸めて鞄に突っ込んだりはしたものの。
だが、颯太が自ら進んで赤信号の横断歩道に飛び出した、という状況がある。今更訂正できるような雰囲気でもなく、颯太はため息をつくと紙切れをそっと鞄の中に仕舞った。
「あら?急に風が強くなってきましたねぇ」
この病院の消灯は夜九時らしい。
就寝前の巡回で病室を訪れた年若い看護師が、窓にかかったカーテンの端をちらりと開けた。そこからは、時折、病院の庭の木々が風に揺れる様子が見て取れる。
「ホントだ……。窓がガタガタいってる」
「強風警報なんて出てましたっけ?」
「夕方の天気予報では、そんなこと言ってなかったと思うんですけど……」
織部の問いかけに、看護師が小首を傾げた。
確かに、さっき颯太と織部が見ていたバラエティ番組の後に流れた天気予報でも、とりたてて変わった事は言っていなかったように思う。
しかし、輝きが敷き詰められた満天の星空を脅かさんと、遠くの山側には大きく分厚い雲がかかっていた。それは勢力を伸ばすように、街のほうへと流れてきている。風のせいか、その流れは早い。
「じゃあ、夜更かしないで寝てくださいね」
看護師が壁際の電気のスイッチを切り、部屋全体が暗くなった。急に静まり返った病室は落ち着かない。颯太は何度も寝返りを打った。
「眠れないのかい?」
優しい声がかかる。織部のものだ。カーテンで仕切られているが、声は問題なく聞こえる。この病室は四人部屋だったが、今夜は颯太と織部の二人しかいなかった。
「入院って初めてなので、緊張してるのかもしれないです」
たんこぶで入院する人間というのも初めてなんじゃないだろうか、と思う。後頭部を強打しているということもあり検査入院をすることになったのだが、今の自分は至って元気そのものだ。
「ハハハ。夜の病院ってちょっと怖いところがあるから。俺も若い頃に初めて入院したときは、なかなか寝付けなかったよ」
「そうなんですか」
「それに、満月の夜には何かが起こるって言うしね」
唐突な言葉に、颯太は仕切られたカーテンのほうを向いた。
待てども、続きになるような織部の言葉はない。時折強い風が窓に吹き付けるが、それ以外に余計な音は一つもなく、逆に静謐があたりを包み込んだ。
気持ちよさそうな寝息が、カーテンの向こう側から聞こえ始めた。その規則正しい音に、颯太の不安がほどけていく。いつしか颯太もまた、深い眠りに落ちていった。
――寒い。
肌が凍える感覚が、閉じていた意識を呼び覚ます。颯太はうっすらと目を開け、愕然とした。広がる住宅街を見下ろせるほど高い空中に、何故か颯太は浮かんでいた。
呆然としていたのはほんの一瞬だ。颯太は勢いよく身を起こした。だが、身体は自分の意思通りに動かず、バランスを失ってしまう。完全に制御の効かない身体が、不安定に上下に揺れた。
颯太は今、無重力状態の宇宙飛行士のように、夜空を漂っていた。
「なっ、なんで?俺、寝てた……よな」
独り言に答える声は、もちろんない。
それでも、動揺している自分を少しでも落ち着かせるため、颯太はそれを続けた。
「寝巻きは……着てる。あっ、下に見えるのは病院!?」
パーカーとジャージを確認し終えたところで、足元にある大きな建物が目に入った。看板を目視で探し、そこに書かれた文字を読む。今夜、颯太が入院している病院の名前と一致した。
改めて、ペタペタと身体を触る。感触はあるし、身体が透けているわけでもない。それでも今この時、自分の存在が寝てる間に勝手に外に出て、あまつさえ浮いているだなんて、どう考えても正常な事態とは思えなかった。
「なにこれ。夢遊病?いや、幽体離脱ってやつ?魂だけ身体から出てるの?――てか寒ッ!」
魂だけでも寒さって感じるんだ――などと、どこか頭の遠くで思いながら思い切り身震いする。病院のベッドでぬくぬくと寝ていたときの服装で外に放り出されているのだから、外気に晒され震えるのも無理はない。
しかし、震える掌をまじまじと見やっているうちに、単純に『寒さ』を感じているわけではないことに気づいた。
真冬の真夜中だというのに、颯太が吐く息は白くなかった。肌が感じる寒さも、この薄着であれば痛みを伴うような寒さのはずだ。にもかからず、身体はどこも痛くない。
つまり――本当は寒くないのだ。
寒さは身体が感じるものなのであって、仮に今の自分が魂だけの存在なのであれば、そういったことに煩わされるはずはない。
それなのに。
どうしたことか、目覚めた時よりも強烈に、その感覚は颯太を襲っていた。背筋を這い上る様なぞくぞくとした寒さが、戦慄にも似た感覚が、全身を駆け抜けるように走ったのだ。
(このままここにいては駄目だ)
直感を信じ、颯太はすぐさま戻ろうと眼下を見やった。どうやれば身体に戻れるのかはわからないが、ともかく病院にある自分のベッドへと向かわなくてはならない。
颯太は懸命に身体を動かした。その気持ちをあざ笑う様に、身体は揺ら揺らと浮遊する。
「くそっ!早く戻れよ!」
いくらもがいても、身体は下降する様子はない。もどかしさを糧に暴れるように動いた。
傍から見れば滑稽過ぎる動きだ。それでもやめなかった。押し寄せる嫌な予感を、気配を、肯定したくはなかったのだ。
しかし、颯太が恐れる何かはついに、すぐそこまで忍び寄ってきたのだった。
微風が吹いた。温度を感じないはずなのに、なぜかそれは生温かく感じる。
(――いる。近くに)
ドクン、と鼓動が脈打った。
それは次第に間隔を狭め、煩いほどになっていく。血が熱く逆流する。感覚などないはずなのに。
ばさり、と羽音がした。また微風が吹く。
颯太は意を決して風上に視線を向けた。が、そこは闇だ。真っ暗で、何も見えない。
ばさり、ばさり。
次々に巻き起こる微風が、颯太の周りの空気を巻き込みながら渦を作り始める。
「うわ、あぁぁ」
軽々と風にすくわれ、颯太の身体は派手にバランスを崩しながら木の葉のように舞い上がった。
自分でも予測不能な動きだ。不思議と目は回らない。が、抵抗虚しく吹き上げられたくはない。
ただ、そうも言っていられない事態だ。
キイィィ、と高い鳴き声が閑静な夜の街に響き渡った。まるで何かの宣言のように。
さしずめ、――行クヨ、とでもいうように。
ぐっとあたりの闇が濃くなった。一足飛びに何かが迫ってきたのだ。
(もう駄目だ――!)
風圧が増す旋風に成す術なくもみくちゃにされ、颯太は思い切り目を瞑った。
ぐいっと腕を何かに引っ張られたのは、その時だった。風とは違う、腕を引く力に驚いて目を開ける。視界の端に、見慣れたセーラー服が映った。襟が激しく翻っているが、それを見間違うことはない。颯太が通う高校の制服だ。
こんな強風の中で、誰が飛び込んできたのか。
救世主である少女は、颯太のほうへ顔を向けていない。そのために、確認することが出来ない。
代わりに、目を疑うものを見た。颯太の腕に絡めている左手とは逆の右手を、少女は目前に広がる闇へと掲げた。突如、その掌の中に輝かんばかりの光が生まれる。エネルギーを圧縮するように、金色の光はその色を増しながら形を変えた。
眩い発光は一瞬のことだった。発光が収まったとき、それはなんと鈍色に輝く銃になっていたのだ。
その銃を手に取り、標準をあわせるように少女が構える。颯太が瞬きする間もなく、闇のより深い中心めがけて引き金はあっけなく引かれた。稲妻と見紛うような閃光が走り抜け、貫かれた闇が大きく歪む。
それを見届け、少女は銃を手にした右手を下ろした。同時に、颯太の身体がガクンと揺れる。
どうやら少女の身体には、重力が働いているようだった。颯太をしっかりと掴み、地表近くまで落下する。と、視界が少し鮮明になってきた。あの恐ろしい何かの支配領域から離れたのだ、と理解した。
颯太と少女はそのまま真下の民家の屋根に降り立った。といっても、きちんと足元から降り立ったのは少女だけだ。少女は掴んでいた颯太の身体を屋根の上に乱雑に落とした。音がするならば、それはペシッという情けない音だろう。
「うわ、わわっ!」
フワフワとバウンドしながら、颯太は屋根を転がる。
屋根から落ちる前に動きが止まった。助かった。
「あ……ありがとう。助けてくれて」
体勢を最低限立て直し、何とか顔を少女のほうへ向ける。民家の脇にある袋小路の奥を見やっていた少女が、声に反応して振り向いた。ふわり、と少女の髪が靡く。澄徹した瞳が、面白そうに、それでいて慎重に颯太を見つめる。
颯太はやっと見ることの出来た少女の顔に、驚きのあまり声も出せずにいた。なぜか少女も無言のままだ。颯太は激しい既視感に囚われる。そうだ、そういえば昨日も、こんな風にお互いを見合ったばかりだった。
颯太の視線が釘付けになっているのにも構わず、少女はようやくその小さな唇に音を乗せた。
「――あなた……」
――生きてるの? 死んでるの?
そう問いかける少女――倉間結月の姿は、やはり息を呑むほど美しかった。