#01 転校生・倉間結月
――時は前日に遡る。
「ちょっとちょっと、見た!?隣のクラスの転校生!」
クラスのお調子者と称される西村武雄が2-1の教室に勢いよく飛び込んできた時、黒板の上に掛けられた時計の針は八時を少し回ったところだった。
「えっ、転校生?」
「そう、今職員室の前を通ったらいたんだよ。めちゃくちゃ可愛いの」
可愛い、という単語に、クラス中の男子がざわつく。
「ど、どれくらい可愛いんだよ」
「それがもう、なんつうかさ!反則級っていうか」
西村は興奮しているのか、一旦言葉を区切るとおもむろに教壇に上がった。教卓の左右をがしっと掴み、前のめりになって熱弁をふるおうとする。
そこへ登校してきたばかりの女子の一行が和気藹々と入ってきた。皆、寒さのせいで頬が上気し、鼻の頭がうっすらと赤い。先頭にいた皆川響子が白けた目で教壇の上に一瞥をくれると、「邪魔」の一言で西村を押しのけた。
「……で!?」
冷や水を浴びせられ興が削がれたものの、続きを催促する声がして西村はハッと我に返る。期待に満ちた視線を西村へ送り続け、調査報告を待つ同志たちへガッツポーズを見せた。
「あれは言葉じゃ表しきれない!実物を見ろ!」
「――っふざけんじゃねぇー!!!」
即座にブーイングの嵐が巻き起こる。が、西村はまったく意に介さず、むしろ嬉しそうに受け止めている。この流れはいつものことだ。
颯太はバッシング激しい記者会見のそばを通り、自分の席へと辿り着いた。
颯太の席の隣は響子だ。響子はこの時、男子のバカ騒ぎに気分を害していた。――後日、自らが新たな騒動を巻き起こすことになるとは露とも思わずに。
「毎度毎度アホらし……。ねえ、蓮見くんも気になる?その転校生とやらについて」
「え……、俺?」
急に話の矛先を向けられて、颯太は思わず振り返った。
突如として訪れた怪しい雲行きを感じ、肩掛けの鞄を机に下ろしながら、どう答えようかと逡巡する。
実のところ、気にはなる。だって、可愛い女子なのだ。気にならない男子などこの世にはいない。
だから、自分の席に向かいながらも、チラチラと西村のほうに視線を向けていた。颯太だって同志の一人だったのだ。
だが、颯太は一応、空気は読める。今そんなことを口に出してはいけない。それだけは理解できていた。
「まあ、びっくりはするかな。ほら、もう三学期だし」
「ああ、時期外れってこと。そういえば、確かにそうね」
響子の気が転校生の転入時期に逸れたようなので、颯太は胸を撫で下ろした。
この気の強いクラスメイトは、2-1における女子の覇権を握っている。面倒なことに巻き込まれると、あとあと厄介だ。
2-2に転入した女子は、西村の前評判がもたらした期待を遥かに上回る可憐さだったらしい。
下校時刻になるころには、既に学年中がその話題で持ちきりになっていた。なにしろ今日は丸一日、噂を聞きつけた同じ学年の生徒たちが男女問わず見物に集まっていたというのだ。転校生本人にとってはさぞかし大迷惑だったことだろう。
だが、生徒たち――特に男子のボルテージは上がりきっている。
「超絶……。それしか言えねえ」
「その気持ちわかるぜ……!ふわふわで、小さくて」
「だろー!?やっぱ言葉より実物だっただろ」
「いや、西村、お前は役に立たなさすぎなんだよ!」
盛り上がる一同を眺め、響子が心底呆れた顔をした。
「転校生ってだけでよくそこまで盛り上がれるわね、バカ男子は」
「ただの転校生じゃねーの!倉間さんは!」
「ふーん」
「おっ、女子の僻みですかー!?」
「バッカじゃない?そんなわけないでしょ」
ぎゃあぎゃあと言い合う様に、颯太の前の席に座る河合秀樹が羨ましそうに呟いた。
「くそぅ~、いいなぁ。やっぱさっさと見に行っとくべきだったよな」
「何を?」
「何を、じゃねーよ!倉間さんだよ!俺たちが行ったときはもうすごい人だらけだっただろ」
「ああ……。あれは失敗だったな」
颯太は苦笑いとともに、昼休みに隣の教室の前を通ったときのことを思い出した。
野次馬になるのは気が引けるが、トイレに行くついでに立ち寄るくらいならいいんじゃないか――なんて言い訳をしつつ教室を出ると、そこは想像以上に生徒で溢れかえっていたのだ。
人垣に阻まれ、その姿を拝むどころかトイレに行けるかどうかも怪しかった。美少女効果はなんと恐ろしいことか。
「ま、そのうち見れるだろ」
肩を叩き、秀樹を励ました。帰り支度を済まして渡り廊下で秀樹と別れ、颯太は下駄箱へ向かう。
サッカー部の秀樹に比べて、帰宅部の颯太は暢気なものだ。今日は帰りに本屋にでも寄ろうか、などと考えながら下駄箱から靴を取り出す。
取り出した靴を無造作に地面に放り、内履きの靴を脱ぐと下駄箱の空いたスペースに入れた。さて、靴を履こうと下を見やったところで、片方の靴の着地がうまくいかずに少し先に転がっているのに気づく。自業自得ながら溜息をつき、靴を拾おうと屈んだ時、颯太の目の前に人影が出来た。
(――え)
顔を上げて、思わず息を呑んだ。見たことのない女子がそこに立っていた。
その容貌に、一目で理解する。これが転校生――倉間結月、なのだと。
新雪を連想させる、一片の穢れもない白い肌。
そんな中でも、頬だけは熟し始めたばかりの桃のように、ほんのりと薄く色付いている。
透き通ったガラス玉のように大きな瞳と、それを縁取る長い睫毛は、問答無用で颯太を惹き付けた。
すっと通った鼻筋は、顔の中央にあって主張しすぎることがない。逆に、ふっくらとした柔らかみの感じられる唇は、艶やかなさくらんぼのように甘い香りを漂わせそうだった。
それらの芸術品は全て、小さな卵型の輪郭の中に品よく収まっていた。
緩やかに波打つ髪が、その可憐な面立ちとすらりとした華奢な身体に寄り添っている。まさに、一つの美の極致に至っていると言っても過言ではない。
そんな結月の双眸は、瞬きすることなく、真っ直ぐに颯太に向いていた。
出会い頭に颯太が急に屈んだから驚いたのか。颯太も突然のことに驚いていたために、二人の視線は暫し絡み合った。
(はっ)
先に我に返ったのは颯太のほうだった。靴を掴んで立ち上がる。
そうなると、身長差というもので、結月の頭は颯太の顔の下にくるかたちになった。結月の視線からも外れて、颯太は少しホッとする。
偶然にも、結月の下校に居合わせることになるとは、颯太は思いもしなかった。
唐突過ぎて上手いこと言葉が出てこない。結月は先ほどからずっと、颯太を見下ろしていたときの姿勢のままだ。
転校初日ということもあり、まだ慣れないのだろうか。
一人で下校をしようとしているところからすると、まだ友達もできておらず、心細い思いをしているのかもしれない。もしここで声をかけたら、何か話が出来るだろうか。
颯太は少しの心配と、少しの打算を持って、口を開きかけた――が。
「……のよ」
ふいに、結月の肩が小さく震えた。
一瞬のことながら、強張った声のように感じて、颯太は結月の顔を覗き込むように首を傾げた。
そして、結月の表情の変化に気づく。
唇が少しずつ、への字に曲がっていっている。眉間にも少し皺が寄りはじめている。瞳に宿る光も、なにやら穏やかではなくなっている――。
次の瞬間、結月の瞳があらん限りに見開かれた。
「何見てるのよって言ったのよっ!」
「――えええっ、ちょ、」
「信じられない、人を珍獣みたいに、皆してジロジロと!――そこのあなたもよっ!」
「はっ!?ご、ごめん」
颯太は思わず謝った。
そんなに見てはいないつもりだった。むしろ、結月にガンを飛ばされるようにこちらを見られていたような気がするのだが、今はそんなことは反論するだけ無駄だ。
とりあえず、結月の感情が爆発したらしい、ということはわかった。その理由も、今しがたの叫びで把握している。それは、怒りを感じるには尤もな理由だと思う。
だが、結月が大声を出したせいで、周囲からちらほらと人が近寄ってきていた。皆、何事かという顔をしながら、遠巻きにこちらの様子を窺っている。
「ちょっと、落ち着いて」
「落ち着いてるわ、ギリギリまで我慢してたの!でももう、今、どうしようもなく怒りが湧いてきて……」
「わかった。わかったからさ。騒ぐと人が来ちゃうから」
何とか宥めるべく、颯太は手を結月の肩にかけようとした。が、躊躇する。
触る、のはどうなんだろう。まずいか。いや、でも。
決心がつかないまま、暫く宙に浮いた手のやり場に困っていた。と、背後に誰かの気配がした。
「――結月。同級生にあまり迷惑を掛けないように」
低くはない、少しハスキーな声がして、颯太の手首にスッと手が掛けられる。
驚いて振り向くと、颯太より僅かに背の高い男子と目が合った。
男子ながら、間近で見る端正な容姿に、颯太は一歩後ずさった。
結月が匂い立つ花のような愛らしさに溢れているならば、彼は月光のように清閑で凛とした空気を纏っているのだ。
その彼の涼しげな目元が、颯太に何かを告げた。あわせて、颯太の手首に掛けていた彼の手に、下方向への力が込められる。その意図を汲み取り、力に逆らうことなく任せると、颯太の手は彼の手とともにそのままゆっくりと下げられた。
「……ハル。なんで二年校舎に?」
「学校にいる間は送り迎えすると今朝言ったよ。正門で待っていたけどなかなか来ないから、様子を見に来ただけ」
ハルと呼ばれた男子は、結月に向き直り淡々と答えた。
彼は待たされたことを怒ってもいなければ責めてもいない。むしろ当然と思っている節が感じられる。
「そういうのはしないでってあの時言ったじゃない。聞こえてなかったの?」
「聞こえた。けど、承諾はしていない」
「そんなぁ!ねえ、ハル」
「駄目。結月、あまり我が儘を言わないでほしい」
「だって!せっかくあの柵から離れられたと思ったのに。ハルまで一緒にこの学校に転入して、その上どこにでもついてきたんじゃ意味がないじゃない」
納得がいかないように愚痴る結月に対し、目の前の彼は顔の表情を変えないまま、器用に溜息をついた。
「いつ何に狙われるかわからないから、結月一人で行動しないこと。それがここに転入する時の条件の一つだったはずでは?」
「そうだけど……!」
「それが守れないなら前の学校に戻るしかない。まあ、こちらとしてはそのほうが有難いけれど」
「それはイヤ!」
「じゃあ、諦めて。早く帰るよ、そろそろ日が暮れる」
「……っ、ハルのバカっ!」
子どもじみた口撃を繰り出し、結月はバッと下駄箱を開けた。靴を履き替え、迎えに来た彼を待たずに校舎の外へ駆け出していく。
残された彼はそれにも慣れた様子だった。口出しする暇もなく二人のやり取りを聞く羽目になってしまった颯太に軽く頭を下げると、結月の後に続いて校舎を歩き出ていった。
「……何だったんだろ、今の」
「さ、さあ……」
思わず口をついて出た呟きに、誰かが反応した。先ほどからちらほらと集まっていた数人の生徒たちだ。颯太と同じように話を聞いていたらしく、呆気に取られた顔で立ち尽くしている。
よかった、どうやら蚊帳の外だったのは自分だけではなさそうだ――颯太は彼らと顔を見合わせながら、「何だったんだろ……」ともう一度言葉を繰り返した。