#15 交差の兆し
静まり返った室内に、コンコン、と音が響いた。
外から扉を叩いた音だと、颯太はすぐに気づく。浮きっぱなしの颯太は、一人やることもなくその場を漂い続けていた。身体はおそらく自室で寝ているのだから、魂だけの存在である今の自分が寝るということはないのだろう。実際、まったく眠くはない。
ソファに身を沈め、暫しの仮眠を取っていた面々が身動ぎを始めた。夢から現へ意識が舞い戻ってきたらしい直弥が、一つ欠伸をした後「入れ」と告げる。
「お休みのところ失礼いたします。直弥様、倉間家ご当主がお見えです」
執事の報告内容に、波流のスイッチが入ったらしい。勢いよく身を起こした。表情はいつも通りだ。寝惚け顔など披露することなく、その場で佇まいを直す。
「――てっきり式神でもよこすのだと思っていたが。当主自ら御出座しとは」
頭をガシガシと掻きながら、直弥が起き上がった。こちらも眠気が一気に醒めたようだ。ただ、寝起きはあまり良いほうではないと見えて、乱暴に席を立つ。
「しかもこちらに知らせることなく、ということであれば、倉間家は周防家に害意ありと見做されても仕方ない。そうだよな?」
少し不機嫌な声音は、きちんと扉の向こうに届いたらしい。執事に案内されて部屋に足を踏み入れた和装の青年が、「おや」と穏やかな声を発した。
「確かに私自らが赴くとは伝えていなかったね。ただ、朝にこちらへ迎えをよこすこと自体は、紅駒に伝えてあったと思うのだが」
「それは聞いた。もっと普通に入ってこれなかったのか、と言ってるんだ。結界が探知できないような真似をして」
「早朝の訪問だからね。もし寝ているのなら、起こすのは悪いと思ったんだよ」
颯太が知る限り、この和装の青年は若いながら倉間家の当主で、直弥は周防家の当主の息子だ。波流や紅駒の様子からしても、彼らの中には立場の違いというものが厳格に存在するように思えるが、この二人はそれをまったく意に介していない。
落ち着いた所作の分、和装の青年のほうが少し年上に見えるが、同じ年頃だからだろうか。それとも、別に理由があるのか。いずれにせよ、波流や紅駒がこの状態を諌めることはないようで、当然、颯太が何か言う道理もなかった。
「それより、礼を言うのが遅れたね。我が屋敷の者と――そちらの少年を保護してもらったこと、感謝する」
青年は、颯太を目にしてもなんら驚くことはない。むしろ、その存在を確かめるように隅々まで眺めると、ふっと微笑んだ。
「……何やら既に訳知り顔だな」
直弥がじろりと青年を見た。が、青年からの返答はない。
場を和ますように、執事が窓際にかかったカーテンに手をかけた。分厚い生地によって遮光された部屋に、さっと光が差し込む。
「あっ、ちょっと待っ……!」
颯太の制止する声は、最後まで紡がれることはなかった。
(――消える)
颯太は自分が消えていくのを感じた。目にしているシーンが移り変わるような、不思議な感覚。次にこの目に映る景色は、きっと、自室の天井だろう。スローモーションのようにあたりがゆっくりと白んでいき、やがて颯太の意識は閉じた。
残された面々は、ただ立ち尽くしていた。目の前で、朝陽に包まれた颯太の影が薄くなっていくのを見届ける。颯太が掻き消えた部屋には沈黙が下りた。波流がチラリと視線を向けた先の青年は、颯太の居たところを眺め、じっと佇んでいる。
唖然としていた直弥は、何か言葉を口にすることさえ、できずにいた。
玄関脇に止められた車に、波流が先に乗り込んだ。静流より先に乗るなど、と波流は初め固辞していたが、「これは命令だよ」と静流に言われてやむなく従う。
直弥は腕を組み、それを眺めていた。見送るためではない。振り返った静流と目が合うと、固い面持ちで口を開く。
「倉間家は――お前は、なにをするつもりだ?」
静流の表情は動かない。感情的にならないところは、妹と本当にそっくりだ――直弥は苛立ちとともに次の言葉を吐き出した。
「周防家抜きで勝手なことをしてもらっちゃ困る。あんな親父でも面子が立たないのは不味いし、何より俺がとばっちりをくらうんでね」
「周防家を邪険にしているつもりはないよ」
「その割には、さっき消えたあいつについて、俺は何も聞かされちゃいない」
「僕も知らないことだよ。あれにはびっくりしたね。初めて目にしたんだ」
「嘘つけ」
どこまで静流がしらばっくれようと、直弥はもう蓮見颯太という存在を知った。誤魔化すことはできないし、そうすることも許さない。倉間家がなにを企んでいるのかは知らないが、直弥はもう、過去の失敗を繰り返すつもりはなかった。
「これだけは覚えておけ。周防家はいつでも倉間家を蹴落とせる。昔、お前がやったように」
「……肝に銘じておくよ」
最後に微笑を残し、静流が車に乗り込んだ。
ドアが丁寧な音を立てて閉まり、直弥とそのそばに立つ紅駒から徐々に離れていく。
「――申し訳、ありませんでした」
二人の男の姿が見えなくなってから、波流がおもむろに口を開いた。その表情に無念さを滲ませる。
「私の不手際からこのようなことに。加えて、静流様のお手を煩わすなど」
「よい。今は休みなさい。怪我の具合は?」
「思いのほか傷は浅く。止血する間がなく力も使っていたため、多少血を失いましたが」
「そうか……。周防家からの一報で、波流が力を使い切っていると聞いた時は驚いたよ」
「……出血で体力が落ちたものですから」
波流は目を伏せた。心配をかけた心苦しさもあるが、何より自分の失態が悔やんでも悔やみきれない。
体力――いわゆる生命力と、能力は別の存在だが、それは密接に関わっている。
能力は生命から生まれるものだ。そのため、その量には限りがある。能力を使い続ければいつしか枯渇し、さらに引き出そうとすれば生命活動に支障をきたす。
その逆も言える。
怪我や病によって生命が危機にさらされれば、能力もまたその力を弱めるのだ。波流は腕に受けた傷のせいで、僅かながら生命力が落ちていた。にもかかわらず逃走中に能力を使い続けたのだから、能力も生命力も同時に削られていく。やがて先に能力が尽き、迅速に逃げ切ることはかなわなくなった。
あの時、颯太を連れて徒歩で移動するしかなくなっていたのには、そういう理由があったのだ。
「無理をしてはいけないよ。結月もあの調子だし、二人とも今日は学校を欠席しなさい」
「……はい。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そんなに謝ることはない。本当に無事でよかったと思っている。僕は波流のことが心配だからね」
「もったいないお言葉、感謝いたします。……ところで、縹と柑子は」
自分を逃がした式神達のその後が気遣われ、波流は静流を見上げた。
縹と柑子は静流の式神だ。式神の格と主の格は比例する。つまり、あの二人がそうたやすく妖魔にやられることはない。
とはいえ、昨日のあの幼い姿の妖魔たちには、引っかかるものがあった。人型でありながら動物の特徴も併せ持ち、武器を使った攻撃を繰り出す。そもそも、妖魔があんなにはっきりとした自我と人並みの知能を持つなどありえない。あの妖魔の元の姿は、人間なのか、生き物なのか――。
式神の目を持つ静流ならば、その後のことも、妖魔のことも、間違いなく把握しているはずだ。
「問題ない。ただ、襲撃者は逃した」
「逃した?」
「僕がそう指示したんだよ。あのまま相手をしていれば、藪をつついて蛇を出すことになりかねなかったからね」
「……どういうことでしょう」
「彼らの主に気付かれる可能性があった、ということだ」
静流の不思議な物言いに、波流は内心戸惑った。
「……妖魔に、主」
「あれは、ただの妖魔ではないよ。存在が異質すぎる」
「それは、確かに」
「おそらく、飼われているのだろう。祓師が式神を持つように、何者かがあの妖魔たちを指揮系統に置いている」
それは驚くべきことだった。
妖魔という存在は、波流が知る限り、組織化されるようなものではない。
闇として漂い、自我が発すれば生き物を喰う。それが妖魔。その行動は彼らにとって単なる欲求でしかなく、生きるためのものではない。よって、生きているということは、単なる結果でしかない。妖魔は、目的を持って行動するような存在ではないのだ。
――それなのに。
「そんな者が、この世にいるのですか。……まさか、祓師の誰かが」
「それはありえない。相反する力だからね」
「では、いったい……」
「使役している妖魔と同じく、妖魔の類と見るべきだろう。それは、他者を支配するほどの力と知能を持つ者」
「そんな異次元の力を持つ妖魔など、見たことも聞いたことも」
早口で言い募っていた波流が、突然口を噤んだ。その顔には、何かに思い当たった驚きと、思い当たったものへの衝撃がありありと浮かんでいる。波流の脳裏に浮かんだものを肯定するように、静流が小さく頷いた。
「聞いたことはあるだろう?僕達は、彼らをよく知っている」
――知っている。
幼い頃から聞かされ続けた、存在。
命に代えてでも打ち滅ぼし、祓い清めなければならない存在。
そのためだけに、結月は、祓師は――『五曜』は、連綿と血を繋いで来た。それでも、この数百年、それが現れることはなかったというのに。
「……まさか、この期に及んで『妖星』が現れたと?」
――妖星。
五曜にとって、どんなに時が流れても、忘れてはならない者たち。
それは、遠い昔の、かつての――。
「……本来であれば、ついに彼らの尻尾を掴んだのだと、喜ぶべきなのだろうね」
静流が哀しそうな微笑を浮かべる。
なぜ静流がそのような顔をするのか、波流には痛いほどわかっていた。
「まるで、巡り合わせのように思える。五曜に我々が存在する今この時、これまで一度も交差しなかった妖星までもが、その存在をちらつかせる。偶然とは言いがたい」
「……もしこれを機に、妖星側の者達の所在がすべて洗い出せるとしたら」
「役者が揃う、かもしれないね」
「では、蓮見颯太という存在は?彼もまた……何かの?」
波流は、先ほど目の前で掻き消えた颯太の姿と、それを見つめていた静流の姿を思い浮かべる。
五曜の宿命に巻き込まないようにと、守ってきた少年。
運悪く事故に遭い、運悪くおかしな体質になり、運悪く妖魔退治に巻き込まれた、哀れな少年。
しかし、それもすべて、定められた彼の運命なのだとしたら。
五曜の宿命の輪の中に、もうとっくにいるのだとしたら――。
「彼とは、近いうちに少し話をしてみたい」
静流は多くを語らず、それだけを告げた。
「――御意」
それだけで充分だった。
不意に、波流はあることに気付いた。身体がずっしりと重く、疲れている。視界がぼんやり滲み、まどろむ。周防の屋敷からずっと緊張していたのだと、今更ながらに理解した。
「眠りなさい」
静流の言葉は、とても心地よく脳に響く。もはや抵抗する気も起きず、波流はゆっくりと目を閉じた。
――無音の車内。
隣で寝入った波流のかすかに震える睫毛を眺め、静流は小さく息を漏らした。羽織の下から携帯電話を取り出すと、連絡先の中から迷うことなく一つを選ぶ。
普通ならば、早朝の電話など非常識であり、そもそも繋がることなどないだろう。しかし、その電話は繋がったのだった。短いコール音の後、しとやかな女の声が短く応答する。
「――芙蓉、少し話がある」
その人物が電話に出ることを予めわかっていたように、静流は厳かに切り出した。




