#09 可愛い襲撃者
たった一日不在にしただけだったが、そこはまさしく我が家だった。
帰宅してすぐに、颯太は気が抜けたようにリビングのソファに横たわる。こんなにもリラックスできる空間だったなんて。当たり前のものが当たり前にある喜びを感じる。
「颯太。そんなところでごろごろしてないで、寝るなら自分のベッドで寝なさい」
母がエプロンをつけながらダイニングに立った。夕食の支度をするらしく、颯太に「夕飯食べる?」と聞いてくる。
蓮見家は、父と母、颯太の三人家族だ。父は福岡に単身赴任中で三ヶ月に一度は東京に帰ってくるが、普段はいない。よって、今は母と颯太だけで都内でマンション生活をしていた。今回の入院には父もだいぶ驚いて帰って来ようとしたが、たんこぶごときでと止めておいた。元気な息子の声を受話器越しに聞いただけでも、父は安心できただろう。
颯太はもりもりと夕食を食べ、温かいお風呂に入り、テレビのお笑い番組を見て過ごした。これまでとなんら変わらない日常がここにある。
やがて時計の針が十時を回る頃、睡魔が颯太を襲い始めた。うとうとと舟を漕ぎはじめた颯太の肩を、母が軽く叩く。
「ほら、颯太。こんなところで寝たら風邪引くわよ」
「おかしいなぁ。いつもならまだ眠い時間じゃないのに」
「検査続きで疲れてるんでしょ。ゆっくり休みなさい。それより、明日、本当に学校に行く気?」
「うん、別に頭もなんともないし」
「そう、ならいいけど……とにかく今夜はもう寝なさい」
これ以上母に心配をかけられない颯太は、内心渋々ながら自室に戻った。明日の準備をしようと鞄を開けると、波流からもらった紙の切れ端がはらりと落ちる。
(そうだった。連絡先を登録しとかないと)
ベッドに入り、電気を消す。横になり、携帯電話の明かりで文字を確認しながらキーを操作して、波流の連絡先を登録した。その後、手にした画面の文字をまじまじと眺める。自分の携帯に、波流の連絡先があることが少し信じられない。
そうしているうちに携帯電話の明かりも自動的に消え、部屋が真っ暗になった。
ふと、心にさざ波が立つ。
(……大丈夫だ)
自分に言い聞かせるように、手にしたものをぎゅっと強く握り締める。
昨日と違うことが、二つあった。
一つは、ここが病室ではなく、住み慣れた我が家の自室であるということ。もう一つは、漏れ聞こえてくるのが窓外の風の音でも誰かの寝息でもなく、リビングで母が見ているテレビの音だということだ。
(……ないよな、何も……。何も起きないでくれよ……!)
颯太は祈るようにきつく目を閉じた。平和の象徴であるこの場所で、何かが起きることのないように。それが、颯太の唯一つの願いだった。
――そして。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
閉じられた意識が覚醒するのを感じ、颯太はゆっくりと瞼を持ち上げた。
広がるのは、夜の闇。見上げれば、そこにあるのは星々が煌めく澄み切った夜空。
棚引く雲の切れ間から一日分欠けた月が顔を出した。夜風が吹き、颯太の身体を揺らす。ああ、と颯太は思い切り肩を落とした。
またしても、颯太は空を漂っていた。
「なんでだよ……!」
二度目の空中浮遊、それ自体に衝撃はなかった。
ただ、あんなに神様に懇願したにもかかわらず、その願いは聞き届けられなかったのだ。とにかくがっくりと項垂れた。
「はあ。また朝になるまで待たないといけないのか……」
同じ要領でいけるかわからないとはいえ、戻る方法があるということだけが颯太の心を支えていた。問題は、それまで無事でいられるかどうか、だ。幸い、昨日のような『寒さ』は感じていなかった。これはつまり、身近に危険が迫ってはいない、ということではないだろうか。
(といっても、あんまり変なところには行けないな)
颯太は足元を見下ろした。フワフワと風に流れて少し離れてはいたが、颯太が住むマンションはまだ肉眼で確認できる。身体と離れすぎて元に戻れない、なんて事態になっては大変だ。
颯太は揺れに身を任せ、あたりを見渡した。雑然とビルがひしめく駅前の商店街には、ちらほらと明かりが見える。あの辺には深夜営業の居酒屋があったな、と颯太は思った。ただ、人影は少なく、近くを走る線路にも電車の影はない。当然ながら、終電はとっくに過ぎている。
(――ん?)
颯太の目が、線路脇の道路に吸い込まれるように動いた。
小柄な二つの人影が走る。子どもにしては大きく、大人にしては小さい。
それは初め、人が走るように駆けていた。
しかし、やがて二つの影に歪みが生じる。そして人としてはありえない速度で前進したかと思うと、いっせいに空に向かって飛び立ったのだ。
(なっ……!?)
ビルの屋上に到達したその二つの影は、まだ歪んだままだった。驚きに見張った颯太の目が、その本質を内包する『器』を見出す。その瞬間、深紫の四つの光が颯太を捉えた。
(目が、合った――)
颯太はようやく訪れた『寒さ』に震えることも忘れ、闇に浮かんだ二対の瞳を見返した。
妖魔。おぞましい化け物。人間を捕食するもの。それは理解していた。ただ、不思議なことに――向けられた視線からは、妖鳥に襲われたときのような明確な敵意は感じられない。
颯太が戸惑っている間にも、さらに闇は濃くなる。そして、深紫の瞳の持ち主たちが、闇の中から姿を現した。その姿に、颯太はまた驚いた。
「あっれー。なんか変なのがいるよ、小烏丸」
「ホントだ。なんだろ、わかる?小狐丸」
妙な掛け合いをしながら、二人はぴょんぴょんと建物の屋上を飛び移り、こちらへ近づいてきた。その尋常ではない跳躍力に唖然とする。
「変な顔……。こいつ、ニンゲン?」
頭にピンと立った耳をつけた少女が、腰を抜かしたまま浮遊している颯太の前に降り立った。少女の健康的な太ももの中ほどまでを隠すチェック柄のスカートがヒラヒラと風に舞う。
――夜空を闊歩する人型のものは、制服を着ていなければならないという決まりでもあるのだろうか?
少女はその身に、どこぞの学校の校章が縫い付けられたブレザーを纏っていた。身体の大きさからして中学のものだろうか。髪は耳と同じく黄金色のミディアムヘアで、一見派手な容姿だがその表情はどこか幼い。少しきつめの目元が、無遠慮に颯太の顔を眺める。ふと、少女のお尻のあたりで何かが揺れた。見れば、それはふさふさとした黄金色の尻尾だった。
もし終電前の駅前の居酒屋前でばったり会ったのなら、宴会芸のコスプレもここまできたか、と思ったことだろう。だが今はあいにく真夜中で宴会はやっておらず、目の前の少女は人ですらないのだ。
「ニンゲンって、ボクたちみたいには飛べないでしょ?」
少女の隣に、同じ柄の制服を着た少年が舞い降りた。少年には、耳も尻尾もない。代わりに、背中に黒い羽が生えていた。羽を見て脳裏に昨日の妖鳥が蘇り、颯太は一瞬身構える。が、少年の羽は颯太を攻撃する意思はないようで、一、二度小さく羽ばたくと閉じられた。
「でも、ニンゲンの形をしてるのよ」
「うーん。じゃあ、ボクたちと同じ?」
「うーん。そういう気配は感じないけど」
「どうしよっか?」
「どうしようね?」
二人は小首を傾げ、互いを見合った。
なんだか微笑ましい光景だ、と颯太は思わず目元を緩める。
――そんなことを一瞬でも思った自分を過去に戻って五百回は殴り飛ばしたい。
「……齧ればわかるかな?」
にたり、と二人の口元が弧を描いた。深紫の瞳が妖しく光る。
「ぎゃあああぁぁぁ」
捕食対象に急浮上した颯太の叫びが、夜の街に木霊した。




