5話 3つの意志
身体が冷たい。
視界も揺れる。
砂浜に重たい足を取られながら、遠くに霞む町を目指す。
空は黒い雲が覆いかぶさり、雨でも降り出しそうだ。
「っあ」
足元がよろけ、地面に倒れ込んでしまう。
泥まみれの膝が剥けて、赤い血が滲み出ていた。歯を食いしばり立ち上がろうと力を込める。だけど、いくら振り絞っても力は湧き上がってこない。あと一押し!と自分を励ます。それでも、重たい足はすぐ挫いてしまった。
「たす、けて」
ずいぶんと砂浜を歩いたつもりであったが、まだまだ歩いていなかったらしい。
足に冷たい波が打ち付ける。……もう、動くことは出来なかった。
それから過ぎた時間は、分からない。
指一本ですら動かす力もない。声も涙もとうに枯れていた。
私はただ、海水に身体を浸している。
春の海は冷たくて、身体の感覚を全て奪い去っていった。
手足を奪われ、感覚を奪われ、声も奪われる。果たして、ここに転がる私は「人間」と言えるのだろうか?
自我がある限り人間なのか? そうであるなら、こうして思考すら億劫になっている私は、すでに人間以下の存在に成り果てているのかもしれない。
「――、」
ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
糸のような雨は休むことなく降り注ぎ、ゆっくりと私の残存体温を奪い去っていく。
ここは波打ち際なのだから、雨宿りする場所など存在しない。もし、雨宿りする場所があったとしても、動けない私には意味がないが。
本格的に「死」が歩み寄ってきた。思考に靄がかかる。残った自我すら、雨が流していくようだ。
「(違う、人間だ)」
残った数少ない「意志」だけが、私を「人間」だと叫んでいる。
私は―――裏切った親友に「復讐」する。
私は―――こんな異世界から「現代」へと帰る。
だから私は、「生きたい」。――いや、「生きる」!
「(ここで、死ぬものか)」
芽生えた『3つの意志』に突き動かされるように、無理やり指を動かした。
なんとか、前へ進もうとする。でも、やはり「指」の感覚がまるでない。
きっと今ここで、指を切り落とされたとしても、何も感じ取れないだろう。
波に顔を半分浸しながら、「死」抵抗することも出来そうにない。抵抗しないといけないのに―――
絶望を通り越した虚無が、身体を支配していく。僅かに残った「自我」も虚無が塗りつぶそうとしてきた。
この虚無に呑みこまれたが最後、「斉藤澪」は死ぬ。いや、もう死んでいるのかもしれない。
そう思い至った時だ。
ぴしゃ、ぴしゃ
誰かが波打ち際を歩く音が、遠くから響いてくる。
霞む目を細めて、その音の正体を見極めようとした。音の正体は、人だった。すらりと背が高い人物が、波の飛沫などには目もくれず私に近づいてくる。
やがて――その人物は、全てを失おうとしている私を見下ろした。
薄れていく視界は、ただ覗き込む人の眼だけをハッキリ映し出す。侮蔑の色を隠さず、清々しいほど冷淡な眼差し。だけど、その奥に宿る光は真摯なものだ。まるで、私を推し量っているかのような―――
「黒髪か、珍しい素養の持ち主だな」
そいつは何かつぶやくと、瞳の中から侮蔑の色を消した。相も変わらず、これ以上ないくらい冷淡で人を見下す視線を注がれているが。
表情はピントを合わせることが出来ないので、分からない。でも、何故だろう。
この瞬間、この人が微笑んでいる気がした。
「誓え。貴様の能力を俺に捧げろ。さすれば、命を拾い上げてやる」
特殊な能力なんて、私にはないのに。
「黒魔術」がどうたら言っていた人もいたけど、アレは単なる聞き間違え。
魔術の素養があるならば、絶体絶命の時に発動してなかったらおかしいのだ。
つまり、ただの無力な小娘に過ぎない。
でも、ここで死にたくない。私は、死にたくない。
絶対に、どんな手段を使ってでも構わない。生きていないと、目的も何も果たせないから。
「―――」
返事に応えたくても、でも声は出ない。いや、声が出るどころか口が動かないのだ。
だからといっても、手も動かすことも出来ない。
私は助かるのか、それとも再び見捨てられるのか。
心に広がるのは安堵か、はたまた絶望か。
それすらも分からないまま、冷たい昏睡状態へと沈んでいく……
次に目を開けると、見知らぬ天井が広がっていた。
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9月2日:一部訂正