第17話
待ち合わせ場所は、二人で歩いたあの桜川の並木道。
川で子供たちが魚を取っているその上の道を息せき切って走り抜けると、浩一がベンチに座っていた。
「やあ」両唇を上げて浩一は微笑んだ。
やさしい顔の浩一の前に御堂が立ち、「ごめん」と頭を下げた。
「何が?」
「楓さんのこと…。それと昔のことも全部」
もう、嘘はつきたくないんだ、たとえ嫌われてもと御堂は、はっきりとした口調で言った。
その様子を見て、浩一は、ベンチを軽く叩くと
「全部、聞く準備はできてる。ここに座れよ」と優しく言った。
日差しが木々の中から 落ちてくるのを感じながら、御堂は静かに語り出した。
「父は 大学の教授で堅固なひとでね。母は、そういう父に従う人だった。僕が小さい頃には母への暴力は日常になっていて、どの家でもそういうのが普通あるんだと思ってた」
いわゆるドメスティックバイオレンスってやつだね、と御堂は、浩一と目があうと薄く笑った。
寂しげなその表情に陰りができ、御堂は静かに目線を落とした。
「でもさ。父は、僕には暴力は振るわなかった。僕は小さい時父がすきだったよ。父は、いつも僕をいろんな所へ連れて行ってくれたし、家族旅行にも行った。だから僕の家のアルバムには、家族サービスをしている父の姿と儚く微笑む母とそして無邪気な僕がいっぱいだ。でも、それも小学校までの話だ」
小さくなっていく声の御堂の手が細かく震えていることに浩一は気づき、そっと手の甲に自分の手を重ねた。
御堂は、浩一を見ず、すっと息をついて過去の自分と対峙するかのようにゆっくりと落ち着いて話を続ける。
「中学生になって、僕はなぜか父の視線を感じ始めた。それは小学校のときにもあったんだけれど やたらと僕に触れようとして……。中学にあがって間もないころから、夜、僕の部屋にやってくるようになって・・・」
御堂はそこまで話すと言葉を止めた。
さわさわと流れる風が御堂ヨウの髪をやさしく撫でる。
隣の 浩一は、自分をどうみているのだろう?
御堂は、眉をひそめながら、それでも過去と対峙しつつ、再び話し始めた。
「誰にも話せなかった・・・。だってそんなの 普通じゃないだろう?母にも誰にも話せずに1年、そんな状態が続いた。僕は、自分がとても汚いものに思えて、何度もナイフを手首にあてた。でも、母を残して死ねなくて、でも自分が許せなくて何度もリストカットした。学校に行って、友達を探すことなんか考えられなかった。だってこの秘密がばれたら 僕は きっと生きてはいけないと思ったから」
1年・・・の言葉が 浩一の心に突き刺さった。
「中2になった頃、母がそれに気がついて僕を連れて弁護士のところにいった。それから 市で紹介されたDV被害者家族の収容所センターに匿ってもらってそこから離婚訴訟をすることになったんだ」
名前が変わったというのは そのころのことだよ。と御堂は 浩一を見た。
「浩一と初めて話した時、僕は うれしかったよ。普通に話ができるって。いくら父でも法っていうものが僕と母を守っていたから、無体なことはできなかったしね。浩一と吉田という友達ができて、本当に幸せだった。あんなに楽しいなんて思わなかった」
御堂の幸せは、あの電車の中で馬鹿話をするちょっとした時間だった。
それは浩一にとっては普通のごく日常だったのに、にとっては輝くほどの美しい思い出だったのだ。
「でもさ。そういうときって油断するものなんだよね。学校からの帰り道、父の雇った男たちに誘拐されそうになって・・・。そのとき助けてくれたのが楓さんだったんだ」
あの艶やかな容姿の男が御堂を助けた・・・
人間不信にも陥りそうな状態で彼を守った男の登場は御堂の人生を変えるものだったことが容易に想像できた。
「楓さんは、父と母の離婚が決定した後もずっと僕の傍にいてくれたんだ。あの父のことだから何をするかわからないって。母は、もう疲れきっていて実家に戻っていたけれど僕はこちらに残ることにした。楓さんがボディガードとして一緒に暮らしてくれるっていってくれたから、母は喜んだよ。たぶん 僕に対しての罪の意識があったんだろうね。あの人、楓さんね。あのお店以外にもいろいろとやっていて、僕もよくわからないものを研究していて、向こうの大学で論文とか出したりしててその世界では天才と言われている人だった。そんな天才が何をどうしたか知らないけれど、父はそれっきり僕の前に現れなくなった。いつも傍にいて僕を守ってくれて、僕を理解してくれる彼に、僕はいつしか恋をしていた」
御堂の言葉の花片がひとひら、ひとひら浩一の中へ舞い落ちていく。
それは、とても美しい色の想いだった。
「楓さんは、僕を変えてくれた。僕は意思がある人間で、生きるに値するものだって言ってくれたのも楓さんだった。この髪も、服装も、レーシックもすべて楓さんのアドバイスだった。でも、ある日、楓さんに子供がいるって聞たんだ。相手は大人の女性で彼女が子供を引き取っているって。彼は、僕だけを愛しているわけではないっってわかった。それで別れた・・・って言うか楓さん。外国に行くからってそのまま出ていった。そして、桜が咲いた日に結婚するってメールが来て。ああ、捨てられたんだって思って」
言葉を止めて、うつむく御堂の手に浩一は自分の手を重ねた。
涙でぬれた顔がゆっくりとあげられる。
その目を浩一はじっと見つめた。
「僕はその日、電車に乗った。中学の時を思い出しながら。あのころ、よく読んでいた小説を持って、あの桜のトンネルを通る電車に乗った。そして・・・」
微笑みを浮かべ見つめる浩一に向かって、御堂は決心したように、言った。
「僕は 浩一と 会ったんだ」と。