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幕末奇剣伝~暗夜剣を継ぐもの~

作者: ホワリエン
掲載日:2026/10/18

安政2年の江戸の郊外は、水を一杯に張った盃のように、表面上は穏やかながらもいつでも決壊しそうな危うさを感じさせる異様な雰囲気に包まれていた。どことなく不穏な空気を振り払うように、継ぎ接ぎだらけの小袖を着た2人の若者が威勢よく声を張り上げて客寄せをしている。「さあさあ一目この暗夜剣をご覧ください。」「なんでも例の黒船でやってきたペルリは天狗の末裔で、奇怪な妖術を使うとか。」「おお、なんと恐ろしい。皆様もさぞ恐れておられるでしょう。」「ご安心ください。柴田先生が来たからにはもう安心。先生の摩訶不思議な暗夜剣の前には、妖術使いなんぞ目じゃありません。」「まずはこの技をご覧ください。」

そう言って二人の弟子が指した先には、漆黒の小袖に身を包んだ初老の男が立っている。右手を刀の柄にかけたその威風堂々たる立ち姿は、見た人に問答無用で彼が達人であることを納得させた。如何にも重々しい動作で数丈先の的へと歩き出していく。あと2丈ほどになった時だっただろうか。突然、左手で胸のあたりから矢のようなものをいくつか取り出して的へと投げつけた。それは、まるで吸い込まれるように的へと向かっていく。それは風にあおられて形を変え、大きな黒い紙になった。数枚の黒い紙が的に覆いかぶさったときには、柴田は的の中心を正確に刺し貫いていた。観衆から、賞賛の声と不満の声が半々に上がる。どうやら地味な技が気に入らない客がいたらしい。2人の弟子が見物料を集めようとするも、投げつけられるのは金よりもむしろ石ころの方が多かった。しかし柴田は落ち着いていた。「皆様のご不満はまことにごもっとも。されど暗夜剣の神髄は対人戦にこそござる。誰ぞ腕に覚えのある方はおらぬか。」弟子たちはほくそ笑んだ。ここで町民たちに賭けさせれば一転、ただ見世物をするよりも多くの金を得ることができるだろう。

 「俺がやらせてもらおうか。」そう言って現れたのは、金の華やかな着物を着た男だった。年は30半ばほどだろうか。柴田よりも一回り若い。腰の両側に刀をぶら下げている。左腰の刀の鞘がやけに太い。周りには銀の着物で揃えた一団が控えている。よその流派か。こちらより余程金回りはいいらしい。金の着物を着た男は不遜な態度で言い放った。「暗夜剣だかなんだか知らねえが、そんな似非剣術、この福島様の飛弾剣の前には敵じゃねえ。命が惜しけりゃ今のうちに逃げ出しな。」柴田も口では負けていない。「ほう、お若いのに敢えてこの暗夜剣の前に命を捨てることもあるまい。どうしても挑むというなら、止めはせぬが。」

 一陣の風が2人の間を過ぎ去ったのと同時に、福島の弟子が決闘の開始を告げた。柴田は懐から折り紙を取り出した。後世にいう紙飛行機のような形をしたそれは、風にもよるがちょうど2丈ほど飛んだあたりで開ききり、敵の周囲を闇に包む。この紙飛行機を素早く、しかもほどよい距離で投げることこそが暗夜剣の神髄であり、熟練の技が必要とされた。紙飛行機がちょうど開く距離まで、少しずつ、相手との距離を詰めていく。だが、福島の技はそれよりも早かった。3丈ほどの距離で、太い鞘の方から刀を抜いた。刀の先には豆粒のような小さな玉が幾つも乗っている。そこに左手の刀を勢いよく近付けた。玉が触れる前からまるで刀に弾かれたかのように飛んでいく。柴田は不意を突かれ、慌てて体を横に動かして避けようとするが、これは柴田らしくない失策だった。相手の弾は横一列に飛んできている。躱しきれずに枢要部にもろに弾が当たった。福島は不敵に笑ってゆっくりと接近していく。柴田はなんとか刀を抜くも、起き上がることさえできない。もう勝負はついてしまったのか。「待たれよ。」弟子の一人が突然2人の間に割って入った。「暗夜剣の後継者たるこの丹羽が、師に代わってお主を打ち倒す。」その体は震えていた。「ほう、何人来ても同じことだ。」福島は笑うと、左腰の鞘に刀をしまい、そのままそれを投げ捨てた。弟子の方に戻ると、弟子がすかさず新しい刀を腰に取り付ける。その隙に柴田は言葉を絞り出した。「やめろ、暗夜剣では勝てぬ。ましてやお主には。」丹羽は師匠の方をみて、精一杯笑みを作った。足の震えは止まっていない。とはいえ、これ以上待ってくれる相手ではない。もうやるしかないのだ。福島が再び左腰の刀を抜いた。刀の上についた弾は、おそらくは磁石の弾だろう。それを、同じ極の磁石でできた左の刀で飛ばしているのだ。ならばやることは一つ。真っ直ぐに敵を見据える。福島が弾を飛ばした。刀を抜き、大地と平行に構える。激しい音がして、思わず目をつぶる。だがどこにも熱や痛みは感じない。成功だ。目を開けると、福島は驚愕に目を見開いている。その視線の先では、福島が放った弾が一発残らず丹羽の刀に付着していた。「磁石は鉄を吸い寄せる。飛弾剣、破ったり。」

 「さあ、今度は暗夜剣を食らえ。」丹羽は紙飛行機を投げつける。だが、今度は丹羽が驚く番だった。紙飛行機たちは開ききる前に福島によって叩き落されていく。福島は笑った。「どうした、暗夜剣ってのはこんなおもちゃ遊びか。飛弾剣を使わずとも、俺の敵ではないわ。」丹羽は歯ぎしりした。正直に言えば、その通りなのである。かつて柴田が語ってくれた話によると、この剣術は柴田の師匠にあたる人物が武士の位を売って尚生活に困り、苦し紛れに息子との遊びをきっかけに考案した似非剣術であった。街角で剣術を披露するも、なかなかうまくいかない。たまたま成功した折に感銘を受けた柴田が弟子入りして、それからなんとか武芸らしくなったのは全て柴田のおかげだという。それを聞かされた時には本当に驚いた。なぜ真実を知って弟子を辞めなかったのかと柴田を問い詰めたほどである。柴田はこう言った。「まあお主にも分かるときが来るかもしれぬし、知らないままかもしれぬ。」ますます丹羽は困惑した。

 そんな話からも分かるように、こんな剣術は全く実戦には役立たないのである。今までなんとか誤魔化してこれたのも、ひとえに柴田個人の実力によるものだった。それでも、丹羽は負けるわけにはいかなかった。ここで敗れれば、暗夜剣の名声は地に落ち、柴田の半生の努力が無駄になってしまう。尊敬する師匠の名を、その人生を、否定されるわけにはいかなかった。「なんの、まだまだ暗夜剣の神髄はこれからよ。底の浅いお主らの剣術とは重みが違う。」そう言って再び懐から紙飛行機を取り出した。軽く手で出っ張りを押しつぶしてから投げつけた。「何度やろうと同じことよ。」福島は再び刀を振るう。だが、今度は紙飛行機は出っ張りを押しつぶした分少し早く開いた。開いた紙というのは、案外切りにくい。まして、福島の刀は磁石の刀から無理やり引きはがした影響で酷く刃毀れしている。福島の刀に紙がまとわりついて剣速が鈍る。その隙に丹羽は猛然と突進した。今なら柴田が暗夜剣を継いだ理由がなんとなく分かる。柴田は柴田で、自分の師匠の名を守りたかったのだろう。そのために、似非剣術を本物の剣術のように仕立てあげてしまった。こんなところまで受け継いだのか。丹羽は苦笑した。丹羽の鋭い突きに対して福島は慌てて左の刀で防ごうとする。だが突きはフリであった。福島の右の刀が左の刀にくっついてしまった。こうなればまともに剣を振ることはできない。丹羽は福島の首に刀を突きつけた。「これで終わりだ。お主の弟子にはお前を助ける気骨のあるものもいないらしいな。」福島は後ろを振り向いたが、弟子たちは後ずさりするばかりだ。ひどいものだとその場から走って逃げ出していく。福島はその場に崩れ落ちた。丹羽はそのまま去っていく。「俺の首を取らないのか。」福島は丹羽の背中に問いかけた。「この勝負はすでに勝った。それに、お主にも守りたいものがあろう。また精進して出直されよ。」

 柴田はもう一人の弟子に町医者に担ぎ込まれ、一命を取り留めていた。勝利の方を聞き、飛び上がらんばかりに驚き、驚きのあまり激しくむせた。こうして暗夜剣とその一門はまた明日への生き残りを許された。幕末の世を生き抜く戦いは、まだ始まったばかりである。 


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