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第一章 今はなき思い出屋さん

 家の中で、私は空気みたいな存在だ。

 存在感を放つのは、いつだって姉の方。


「あ、お母さん。あの……」

「……あぁ」


 なかなか言葉を発さない私が持っていた紙を見て、お母さんは冷めた視線を寄越す。


「進路希望調査票ね。どこでもいいわよ、書いて出しておきなさい」

「え、前は『お姉ちゃんと一緒の所に』って言ってたのに……」


 志が高い姉は現在、有名大学の医学生だ。その姉を鼻高々に思う母は、姉が大学に合格した瞬間から「同じ大学に行くように」と私に言っていた。何度も、何度も。


 それなのに「どこでもいい」?

 それが本当なら、肩の荷が下りて楽になる。

 だけど私の期待は、母の冷たい視線により裏切られる。


「お姉ちゃんと同じ所に行きなさい――あなたにその実力があるなら、そう言ってるわよ」

「え?」

「それができないなら、どこでもいいわ。だけど誰もが知ってる大学にしてよ? そこに入学できるなら、どんな学部でも学科でもいいから」


「話は終わり」と言わんばかりに、お母さんは私から視線を外す。そうして自分の部屋に入ってしまった。中からパソコンの音が響き始める。


 母はいわゆるバリキャリで、お父さんに負けず劣らず仕事に打ち込んでいる。我が家の貯金は増えて、無事に姉を六年制の医学部に通わせることができている。


 だけど、良いことばかりではない。


 母は姉が一人暮らしを始めた年と同時に役職をもらって以来、すごく人の目を気にするようになった。誰から見られても恥のないよう自分の仕事は徹底して行ったし、スタイル維持も熱心だ。飲み会があれば部下と話す機会も増えるらしく、そこで決まって「お子さんはどこの学校に?」と聞かれるらしい。


『私にどこにも非がないからって、私の家族をダシに、私の評判を落とそうとしているのよ』


 いつか家で飲んでいた時、母はそう言った。本当かは分からない。

 だけど母は、その日を境に、私にも完璧を求め始めた。


 前は一度の失敗では怒らなかった母が、私がコップを倒して水をテーブルにこぼした時、人が変わったように「何してるのよ‼」と怒鳴った。いくつの夜を越え朝を迎えようが、まだ私は鮮明に覚えている。母が、母ではなくなったと。強いショックを受けたのだ。


 その日から私は、いつの間にか母の言動に警戒するようになった。母を前にすると、胸がザワザワするのだ。怒らせてはいけないと身構えてしまう。


「あ、遅くにごめんね。今日もらった資料なんだけど」


 私と話すより、スマホで誰かと話している時間の方が多い気がする。


「……行く気、起きないな」


 進路調査票の下にあった、もう一枚の紙を見る。

 夏期講習申し込み票。二週間後から始まる夏休みに備えて、学校が用意したものだ。母との話次第では、行かないといけないと思っていた。実際に、私は学力が低いので「有名大学に受かるため」には、申し込まないといけないのだけど。

 だけど、行く気が起きない。これっぽっちもだ。


「だって今頑張って合格できたって、また興味のない勉強が始まるだけ」


 どうして自ら楽しくない道に進まないといけないのか。自分で自分が分からなくなった。

 母が変わってしまったあの日から、私の判断基準は、全て母だったように思う。

 これでは私の人生ではなく、母の人生だ。

 私は今、母があつらえたレールの上を、薄氷を踏むような心地で歩いている。


「……疲れたな」


 勉強にも、将来にも。だけど一番に疲れるのは、母に使う「気」だ。

 いつから私たち家族は、こんなはりぼてになってしまったのだろう。


 

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