泥沼に掴まれて
ずっしりと、鉄の塊のような重みが両腕にのしかかる。
成人男性の頭部、重さにして、およそ5キロから8キロといったところだろうか。
西条すみれ(20)は、泥にまみれたスコップを再び地面に突き立てた。
ここは山の中、めったに人が立ち寄ることのない深い樹海だ。
鬱蒼と茂る木々が陽の光を遮り、じっとりとした湿気と、腐葉土の匂いが辺りに立ち込めている。すみれは呼吸を荒げながら、せっせこ、せっせこと執念深く土を掘り進めていた。
すでに手や足の処理は終わっている。
それらには、あらかじめ用意しておいたハチミツをたっぷりと塗りたくって、少し離れた茂みに放り投げておいた。
そうしておけば、すぐに虫や野生動物が集まってきて、綺麗に、跡形もなく貪り尽くしてくれるはずだ。自然のサイクルに還す。そう思えば、少しは罪悪感も薄れる気がした。
いま目の前にある頭部の主、長谷川純次(26)。
少し前まで、すみれの「彼氏」だった男だ。
いや、本当に彼氏だったのだろうか。
純次はきらびやかな夜の世界で生きるホストだった。今となっては、自分も数多くいる「都合のいい客」の一人に過ぎなかったのだと痛いほどよく分かる。
「……バカみたい」
乾いた声が口からこぼれた。
涙はもう、とうの昔に枯れ果てている。けれど、さっきまでボロボロと流していた涙の跡が、乾いて皮膚を突っ張り、猛烈に痒かった。すみれは泥と汗で泥濘のようになったブラウスの袖で、乱暴に顔を拭った。
純次と出会ったとき、すみれの人生はまるでスポットライトを浴びたかのように華やかに輝きだした。彼が囁く甘い言葉、二人だけの秘密の時間。地味だった毎日は一変した。
しかし、その眩すぎる光の先には、底なしの闇が待っていたのだ。
純次に貢ぐために膨れ上がった、首の回らないほどの負債。
金を無心し、激しい喧嘩の末に「二度と敷居を跨ぐな」と絶縁された両親。
そして、自分を裏切り、裏で別の女とあざ笑っていた純次の嘘。
気づいたときには、手遅れだった。
すべてを失った衝動のままに、すみれは刃物を握り、彼を「ばらばら」にしていた。
「もう、どこにも戻れないんだ」
ぽつりと呟き、すみれは純次の頭部を深く掘った穴へと落とした。
土が、かつて愛した男の冷たい顔を覆い隠していく。
この樹海は、昔から「人が消える場所」として有名だった。
ここで消えた人間を、わざわざ深く探そうとする者などいない。
すみれはスコップを強く握り直し、最後の土を叩きつけた。取り返しのつかない罪の重さを、その身に刻みつけるように。
最後の土を均し終えると、すみれは這う失意のまま愛車へと戻った。
自宅からここまで、およそ20キロの道のり。人を一人解体し、ここまで運んで埋めるには十分すぎる、そして遠すぎる距離だった。
トランクを開け、泥と返り血と汗に塗れたブラウスとスカートを乱暴に脱ぎ捨てる。あらかじめ用意しておいた、何の変哲もない綺麗な服に袖を通すと、肌に触れる清潔な布地が、かえって自分の異物さを際立たせるようだった。
汚れた衣服とスコップを大きめのバッグに強引に突っ込み、ジッパーを閉める。
一刻も早く、この場所から離れたい。
運転席に滑り込み、すべてのドアがロックされていることを確認する。深く息を吐き出し、震える手でキーを回してエンジンをかけた。低く唸る駆動音が、樹海の静寂をわずかに掻き消す。
すぐさまここを離れようと、シフトレバーに手をかけた、 その瞬間だった。
「あーーーーーー!!!!」
鼓膜が震えた。
それは、人間のものとも獣のものともつかない、狂気に満ちた大きな叫び声だった。まるで遥か山の上から、濁流のように降ってきたかのような。
「な、に……っ!?」
あまりのけたたましさに、すみれは思わず耳を塞いだ。
だが、心臓が凍りついたのはその直後だ。
(おかしい……何かがおかしい)
すみれは車の中にいる。窓は一枚残らず閉め切られている。いくら大声だとしても、外からの声が、防音性の高い車内へこれほど鮮明に、それも「真上」から響くわけがない。
声は、ルーフのすぐ向こう側、まるで車の天井にへばりついた何かが、車内に向かって直接叫んでいるかのように、頭上からコンクリートのように重く降ってきていた。
心臓がバクバクと早鐘を打つ。
バックミラーを見ても、当然そこには自分の怯えた顔があるだけだ。上を見る勇気など、到底なかった。
樹海は人が消える場所。消えた者たちの怨念か、それとも…。
「いやあああああ!」
恐怖に耐えかねたすみれは悲鳴を上げ、狂ったようにアクセルを踏み込んだ。
タイヤが激しく砂利を跳ね上げ、車は猛スピードで夜の山道を下り始める。バックミラーの向こう、純次を埋めた暗黒の樹海が、生き物のようにうねりながら遠ざかっていった。
ガタガタガタッ、と激しい振動が車体を揺らす。
アスファルトの途切れた、申し訳程度にしか舗装されていない荒れた山道。すみれはバックミラーを何度も、何度も確認しながら、狂ったようにアクセルを吹かし続けた。
ミラーに映るのは、ただただ深い闇。追ってくるものは見えない。しかし、あの鼓膜を震わせた叫び声の残響が、まだ耳の奥にこびりついて離れなかった。
「早く、早く……っ!」
祈るようにハンドルを握りしめる。だが、山の自然は彼女の逃亡を許さなかった。
最初は薄い靄のようだった。それが、ものの数分で、まるで雲の中にそのまま突っ込んでしまったかのような、凄まじい濃霧へと変わっていく。
ヘッドライトの光が白い壁に跳ね返り、一メートル先すら見えない。このままのスピードでは崖から転落する。すみれは血の気が引くのを感じながら、いや応なしにブレーキを踏み、スピードを落とすしかなかった。
時速十キロにも満たないスピードで、ノロノロと車を動かす。
前を見ても真っ白。バックミラーを見ても真っ白。
世界から自分一人だけが切り離されてしまったかのような錯覚に陥る。視界が奪われたことで、五感が研ぎ澄まされ、先ほどの「上から降ってきた声」が脳内で何度も再生された。
怖い、怖い。想像したくない恐怖のイメージが、頭の中で膨れ上がっていく。
その時だった。
―――どちゃ 。
鈍い音と共に、開いているはずのない窓の隙間から何かが飛び散った。
その一部が、運悪くすみれの左目を直撃する。
「う、あ……っ!?」
異物感。激しい痛みと、強烈な痒みが左目を襲った。すみれは悲鳴を上げてブレーキを床まで踏み込み、車を急停車させる。
たまらず左目を強く瞑り、手の甲でゴシゴシと乱暴にこすった。指先に触れたのは、じっとりとした湿った感触。
原因は、土だった。なぜ車内に土が?
そんな疑問は、どうでもよかった。
本当に異常なのは、それと一緒に「何か重いもの」が、助手席のシートへ容赦なく転がり落ちたことだ。
生きた心地がしなかった。
すみれは、まだ無事な右目だけで、恐る恐る隣の助手席へと視線を動かした。
霧の白い光が、車内をぼんやりと照らしている。
上品なベージュのシートの上に、それは鎮座していた。
泥にまみれ、ハチミツの甘い匂いと腐葉土の匂いを撒き散らす、球体。
さっき、確かに自分が深い穴の底へ埋め、土を叩きつけたはずの――長谷川純次の頭部だった。
ゴロリ、と車の振動で頭部がわずかに傾く。
泥の隙間から覗く、生気のない、けれど確かに見開かれたその瞳が。
じっと、すみれを凝視していた。
「ひっ、あ、う、あ……」
喉の奥から、言葉にならない掠れた悲鳴が漏れ出た。
自分で人を殺し、その身体をバラバラに解体したというのに、お化けや幽霊といった怪異に対する耐性など、すみれには微塵もなかった。現実の殺人よりも、目の前にある非現実の方が、はるかに彼女の精神を侵食していく。
「ありえない、ありえない、ありえない……!」
すみれはうわ言のように、狂ったように同じ言葉を呟き続けた。そうしていなければ、脳の回路が恐怖で焼き切れてしまいそうだったからだ。
だが、そんなすみれの必死の自己暗示を嘲笑うかのように、さらなる絶望が降ってくる。
――ドスン! ボトボトッ!
激しい衝撃と共に、フロントガラスに何かが叩きつけられた。
それは、ハチミツを塗って樹海に捨ててきたはずの、純次の手や足だった。野生動物に食いちぎられた生々しい肉片が、ガラスにべっとりと血と泥の尾を引いて張り付いている。
「いやぁぁぁあ!!」
心臓が跳びはね、口から心臓が飛び出るかと思うほどの衝撃が全身を走る。
だが、恐怖が限界を超えた時、すみれの脳内に異常なまでの冷徹さが走った。ここで狂ったら死ぬ。
すみれは無理やり冷静さを装うように固い動作で、身をよじって助手席のドアを開け放った。
足元に転がっていた泥まみれのスコップをひったくる。純次の頭部には、絶対に直接触れたくなかった。スコップの先端を頭部の下に差し込み、外へと力任せに押し出す。
ゴロリ、ゴトゴトと、純次の首は白い霧の向こうへと転がり落ちていった。
すぐさま助手席の扉を勢いよく叩きつけるように閉める。
息つく間もなくワイパーのスイッチを最速で入れた。ガシャガシャと激しく動くブレードが、フロントガラスにしがみついていた手足を容赦なく弾き飛ばし、霧の彼方へと叩き落とす。
「何も見てない、何も見てない、私は何も見てない……!」
狂ったように念仏を唱えながら、すみれは再びアクセルを強く踏み込んだ。一刻も早く、この地獄から抜け出すために。
ぎゅるルルルルルッ!
空しく響く金属音。車体は前に進まない。
焦ってさらに踏み込む。
ぎゅるルルルルルルルル!!
「嘘、でしょ……っ!?」
タイヤが泥濘に完全にハマってしまっていた。濃霧の水分で緩んだ山道の土が、車の自由を奪い、タイヤはただ虚しくスリップを繰り返すだけだった。
車内を包む、絶望的な静寂。
そこへ、また「それ」がやってきた。今度は、車の後ろからだ。
「あーーーーー!!!!!」
鼓膜を破らんばかりの絶叫が、再び樹海に響き渡った。
しかも今度は、ただ上から降ってきたのではない。
ドタドタドタドタと、四足歩行の獣か、あるいは異形の何かが、凄まじいスピードでこちらへ向かって走ってきている。
遠くから、近くへ。
霧を引き裂きながら、その恐ろしい叫び声が、確実に車の真後ろまで迫っていた。
後ろを振り返り、それを見る勇気など、すみれにあるはずがなかった。
車から飛び出すべきか、それともこのまま車内に籠もるべきか。否、外へ出るほうがよほど恐ろしい。
すみれはぎゅっと目を瞑った。
そして、幼い頃に父親がよく連れて行ってくれた寺で耳にした、お経の断片を必死に唱え始めた。この逃げ場のない絶望が、少しでも、ほんの少しでもマシになるようにと祈りを込めて。
「あーーーーー!!!!!」
叫び声はついに真後ろにまで達した。
いや、違う。それは車の外ではない。まるで後部座席にそいつが座り、すみれのすぐ耳元で叫んでいるかのように近くから聞こえてくる。
すみれは狂いそうになりながら、両耳をこれでもかと強く塞ぎ込んだ。
耳の奥で、自分の手から伝わる心臓の脈動だけがドク、ドクと速く脈打つ。頭蓋骨の裏で響く自分自身のお経の声が、脳を激しく揺さぶっていた。
すると――すん、と、唐突にすべての音が消え失せた。
あの耳を聾するほどの絶叫も、車の不快な駆動音も、何もかもが消えた。
同時に、奇妙なほどの安堵感がすみれを包み込む。自分でもわけがわからないが、もう何も悪いことは起きない。大丈夫だ。そんな根拠のない確信が、冷え切った身体に染み渡っていく。
何故かはわからない。けれど、すみれはそっと目を開いた。
フロントガラスの向こう、濃霧が薄れた視界に映っていたのは、見慣れた山道ではなかった。
鬱蒼と茂る木々。生々しく掘り返された土。
そこは、つい先ほど自分が純次の頭部を埋めた、あの樹海の中心だった。確実に車を走らせて山を降っていたはずなのに、どうして。
「あ……、あ……」
唇が小刻みに震える。
ふと気づけば、耳を塞いでいたと思っていた両手は、力なくぶらんと膝の上に垂れ下がっていた。
すみれは耳を塞いでなどいない。
なのに、耳が聞こえない。いや、世界から音が消えているのだ。
その異常さに気づいた瞬間、すみれの精神の糸が完全に弾け飛んだ。
すみれは喉を掻きむしりながら発狂した。
それと共鳴するように、車の後ろにいる「何か」も、再び狂ったような絶叫を上げた。
「いやあああああああああ!!」
すみれは運転席の扉を乱暴に開け放ち、這うようにして車外へ飛び出すと、暗い樹海の中へと走り出した。
もはや、何から逃げているのかすら分からなかった。ただ、全力で、がむしゃらに、泥を跳ね上げて走る。
また、左目が猛烈に痒くなってきた。
土だ。また土が目に入ったのだ。
痒くて、痒くてたまらない。狂いそうなほどの痒熱に駆られ、すみれは走りながら自分の顔をかきむしる。
違う、表面じゃない。目玉の奥が、裏側が、虫が這い回るように痒くてたまらないのだ。
泥だらけになった指先は、衝動のままに左目を抉り出すかのように深く、深く突っ込まれていく。激痛のはずだった。しかし、その痛みが、脳の麻薬となって突き抜ける。
「あは、はは、あはははははは!!」
何故か、急に可笑しくなった。
すべてを失って、恋人をバラバラにして、自分もここで壊れていく。その事実が滑稽で仕方がなかった。すみれは血と泥にまみれた顔で、ケタケタと高く笑い声を上げた。
彼女の狂った笑い声と、彼女を追う何かの禍々しい叫び声は、夜の山の中を騒がしく、どこまでも不気味に満たしていった。
その後、警察の捜査によって、長谷川純次の遺体は樹海ではなく、すみれの自宅マンションの浴室からバラバラの状態で発見された。
しかし、犯人であるはずの西条すみれの所在は、事件から年月が経った今もなお、全くつかめていない。
ただ。
深夜、配達のためにこの山付近のルートを通る長距離トラックの運転手たちの間では、奇妙な噂が囁かれている。
深い霧の夜、どこからともなく、耳を塞ぎたくなるような凄まじい叫び声が聞こえてくることがあるのだという。
そしてその声のすぐ後ろから、まるで狂った女のような、甲高い笑い声が追いかけてくるのだ、と。




