10. 簡単調理にこだわる
『会ってしまったこと、と言われなくて嬉しいです』
妹とその兄の後輩、二人が再会を喜ぶ和やかな一瞬は、きゅうと腹の鳴く音で中断された。
「失礼しまし…」
「いえっ、わたしです! ありがとうかばってくれて。いいんです南部人はおおらかなので気にしないんです。実は夕飯を食べ損ねたままで」
「…今晩は何の魚ですか」
お決まりになっていた訪問時の挨拶。わざとフィッシュパイの日だけに連れ帰る先輩への小さな嫌味と、料理が楽しみだと妹に伝える社交辞令を穏やかな笑顔で両立させた、善き後輩だからできる軽妙な挨拶だった。
『匂いで分かるだろ、足と四つヒゲの生えたあいつがいる』
『兄さん、鼻いい! わたしなら当てられないな』
『君の鼻は良い魔晶石を嗅ぎ分けるから。それで生きていける。魚の嗅ぎ分けなんて腹が減るばかりだ』
あの、と後輩が小さく挙手する。
『足と四つヒゲのって、それは本当に魚でしょうか』
『はい、スープの出しガラ見ますか? まだ足の形と爪が…』
『現物を見なくても大丈夫です、あなたの話を信じます』
『俺の話だぞ?』
後輩がローブを開くと、文字と図形と計算で埋め尽くされた紙類があちこちのポケットを膨らませている。
『先輩の奇想天外な発想を研究させられては九割を空振りさせられる僕に、信用しろと?』
『その割には、次のテーマをもらいに来るじゃないか。血走った目で』
『信用と信頼は違うんです。血走っているとしたら寝不足だから、空振りの九割で』
『俺を信頼してくれる善き後輩よ、一番うまいヒゲの部分をやろう』
『いらねっす』
『後輩さん、ヒゲはコリコリして実は本当においしいんです』
『ではいただきます』
そんな会話がありましたね、と話しながら空いた距離でそれぞれに保存食を開封する。
門番の精霊は人の通行を監視するが物資は通すため、補給員が食料や資材を月に一度まとめて届けていくそうだ。
「温めればいいんですね? 器は…燃えなさそう。なら鍋用蓄魔晶石で直火に…」
「鐘でチン! 対応の器ですよ。補給員がそろえてくれて。助かるんです、闇堕ちの半闇性魔力では火の精霊を使えないので」
「あ、最近話題の便利魔術具でしたっけ?」
「…あなたが知らないんですか? 補給員のメモによれば、一家に一台の勢いで知らない王都民はいないと」
さすがいい育ち、銀の盆と蓋で食事を運ぶのか、なんて感心してたなんて言えない。彼女は彼の前に並ぶ盆、蓋、器を見回し、どれがその魔術具なのかと焦り、彼の腰あたりを漠然と指さす。
「何チンでしたっけ…」
「その質問をされるのが僕であって良かったと思っています。鐘でチン! です」
妹の体面を気遣う善き後輩は料理を盆にのせて蓋で覆い、チンと叩いて実演してみせた。蓋を開ければ、氷漬けだった料理がほかほかと湯気を立てている。
「速い! 小さなオーブンってことかな。中まで温まってるし、良い焦げ目まで! これは…遅くに帰ってきた兄さんがフィッシュパイを温めなおすのに欲しがっただろうな…!」
はっとした後輩が眉を上げる。
「もしかして、先輩はまさにそのために…だとしたら、なぜあなたには…いえ、まずは食事にしましょう。下への連絡はその後で、あなたの話を聞いてから対策します」
前線基地の頃には食堂だったという空間は広くはないものの、食卓と椅子一脚だけを置くには広かった。後輩はどこからかもう一つ椅子を運んできた。孤食前提の家具構成が彼女を心配にさせる。
食器の音を立てない育ち良き後輩に対し、彼女は細心の注意で無音を心がける。岩窟ではかすかな食器の音も反響するとはいえ、これほど気になるのはなぜなのかと彼女はそわそわと考えてみる。
「僕が」
「はいっ」
「僕が下山できたら、あれでフィッシュパイを温めませんか」
そうか、兄がいたから。と彼女は思い当る。にぎやかな兄がいたから、食器の音なんて耳に入らなかった。しかも彼と二人きりの食事は初めてだと気付く。
「温めなおすと魚の香りが強くなるので、魚が苦手な後輩さんには余計つらいかも」
「苦手と言ったことはありません。けどそうですね…保存食を解凍して一人で食べる日々の中、僕は猛省しました」
善き後輩の答えは少し意外だった。以前の彼ならもう少し礼儀正しく、別の言い方をすれば他人行儀に、もちろんいただきますなどと答えたと思えた。
兄に対してそうだったように打ち解けた会話に感じて、彼女のそわそわが加速する。
「本場に連れて行きたいです。獲れたての魚だと全然違うので。風味が強くても臭みはなくて」
彼女は食事の味がしない原因が解凍の保存食だからなのか、分からなくなってきた。
「後輩さんは、いつ下山! …下山…、出来るんですか…」
帰路の転移紋のない、野ざらしの雪原を思い出して彼女の声が細くなる。
彼女は『闇堕ち』の詳細を知らない。尋ねたいけれど正しい反応を返せるか分からない、間違って傷つけるかもしれないと思う。
「僕は闇性魔力に触れすぎました。除染が間に合わないほどの量でした。でも事故じゃない。自分の意思で選んだ結果です」
これほど厳重に隔離される事態に陥っているはずなのに、彼は淡々とした口調で、それこそ食事の場でする何気ない話題かのように話しだす。
「それでも心身への有害性を低減するため、継続的に除染しています。皮肉な話ですが除染に不可欠な霊木は北嶺山頂付近に局地的に植生しているんです。ここは僕が闇性魔力の研究をするには最適なんです。学会で発表しに下山できる日も来るでしょう」
彼の様子が穏やかだと逆にその実現は遠そうで、希望的観測未満の単なる社交辞令のように思えた。
彼女はじっと、食堂用の長い食卓の端と端の距離を見つめる。
「あの…この距離なら、後輩さんの闇性魔力は、わたしに届かないんですか? 怖いわけじゃなく! 確認したいことがあって」
「不安や疑問がなくなるまで聞いてください」
傷ついた顔をするどころか彼は落ち着いていた。落ち着いていられるほど慣れるまでに、どんな質問や扱いを受けたのか。自分が王都で兄の悲報にただ戸惑っている間に、と彼女は内心で唇をかむ。
「僕は闇堕ち後に多くの検査を受けました。僕が安静に、例えば大量に魔導を行ったりしなければこの距離では届きません。届いたとしても官給ローブの反射処理能力の範囲内だという結果が出ています。検査結果の総括として闇堕ち取扱指針書がその棚に」
取り扱い、の文字を後で削り取ってやろうと決心しながら、彼女は質問を続ける。
「わたしが転移着地点から登ってくる途中、ローブの裾が静電気で絡んで歩きにくいな、って思ったんです。さっき、それが静電気じゃなくてローブの闇性魔力への防御反応だって教わった」
彼女はもう一度ローブに触れて、今も続くぴりぴりとした反応を確かめた。
「後輩さんから離れた場所でも、ずっと反応してたってことなんです。魔獣が討伐されて三か月以上も経ったのに、巣の周りにはまだ闇性魔力が残ってるんですか」
「闇性魔力を放散していたのは魔獣じゃないんです。現状では僕でもない」
彼女の思考がしばらく空転するようなことを、彼はあっさりと言った。
「僕は闇堕ち後にその特性として、闇性魔力への耐性が上がりました。だから僕以外は接近さえ難しい、強度の闇性魔力が残留している魔獣の死体の封印処置が、闇堕ち後の初仕事だったんです」
ところが魔獣の死体を封印しても大気中の闇性魔力が減少しない。魔力の流れを計測しながら巣の奥へと進み、初めて事実に気付いたそうだ。
「闇性魔力の発生源は北嶺そのものです。闇性魔力を漏出する山頂一帯へのアクセスを魔獣の巣が遮断していたので、知る由がなかっただけでした」
「という…ことは」
「闇性魔力は今も消えていません。それどころか魔力を吸収していた魔獣がいなくなったせいで、大気中への放散量が増えました。僕はそれを観測していたんです」




