【短編】「もう散歩に行けないことを、あの子は先に知っていた」
昔から、頭の中で物語を作ることが何よりの楽しみでした。今回、その中でもずっと思い描いていたひとつの情景を、初めて形にしてみました。
「もう散歩に行けないことを、あの子は先に知ってい
た」
経験したことのないはずの景色なのに、書いている最中は、あの子の体温や風の匂いがすぐそばにあるように感じました。
悲しみの先にある、静かな救いの物語です。
ほんの数分、私の空想に付き合っていただければ幸いです。
「もう散歩に行けないことを、あの子は先に知っていた」
琥珀色の合図
玄関に置かれたリード。いつの間にか風景の一部になっていた。かつてそれは、家の中で最も輝き、日常というなの「何にも代えがたい幸せ」の象徴だった。
私がバッグを置くより早く、彼はその場所へ駆け寄り、「カチッ」と金具の音が鳴るのを待っていた。散歩の準備をする私の足元で、彼は落ち着かない様子で、短い尾を風に揺られる猫じゃらしのように振りまわしていた。
あの頃の彼にとって、いや、わたしにとっても。世界は玄関扉の向こう側に無限に広がっていた。
それが最近、彼はその場所へ行かなくなった。
窓際で日向ぼっこをしながら体を丸め、深く、そして荒く息をついている。私がわざとらしく「さん
ぽ」というワードを口にしても、彼はゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳でじっと私を見つめるだけだ。
その目は悲しんでいるのではなく、どこか悟ったような、まるで何かを感じ取ったような静けさだった。
私はそれを、単なる老いによる「億劫さ」だと思い込もうとしていた。無理に歩かせても負担になるからと、自分に言い聞かせていた。けれど、本当は違った。彼は私よりもずっと先に、自分の残りの時間が少なくなっていることを知っていたののかもしれない。
そして、その貴重な幸せを、外の世界を歩く ためではなく、私との「思い出」として残すために使おうと決めていたのだと。今ならそんな気がする。
私が無 理にリードを手に取ろうとすると、優しく私の手に自分の鼻先を押し当て、それを押し戻した。まる で「今はここがいいんだ」と諭されてる感覚に思えたのを覚えている。
ある日の夕暮れ、私は彼を抱き上げ、ベンチに座った。彼は私の膝の上で、ふかふかと柔らかい耳を風に預けていた。遠くで近所の犬が吠える声が聞こえる。
以前なら敏感に反応して耳を立てたはずの彼は、ただ私の胸の鼓動を確かめるように、深く身体をわたしに預けてきた。
その時、私は気づいた。彼が散歩を拒んでいたのは、歩けないからではない。私が彼の「最後の一 歩」を外で迎えてしまうことを、何よりも恐れていたのではないか。この温かな部屋で、いつも の匂い、景色に囲まれて、私の手の届く場所で、すべてを全うしようとしていたのではないか。と
彼の体温が、やさしく私の太ももに伝わってくる。その熱は驚くほど力強く、けれど儚い。私は彼を抱きしめる腕に力を入れた。喉の奥が熱くなり、視界が滲む。伝えたい感謝も、謝りたい後悔も、数えきれないほどあった。
雨の日の散歩をめんどくさくて避けたこと。忙しくて「もう!あっちいっててよ!」と突き放したこと。けれど、私の膝の上で規則正しく上下する彼の背中は、それらすべての私の過ちを「最初から許されていたこと」として包み込んでくれている気がした。
数ヶ月が経ち、部屋は以前よりもずっと広くなったように感じる。
ある日、私は重い足取りで、かつての散歩コースだった公園へ向かった。独りで歩く道はひどく心細く、自分の足音だけがアスファルトにむなしく響く。
仕事での失敗や、埋まらない喪失感。そんな泥のような言いようのない感情が胸に溜まり、私はたまらず、いつもの広場のベンチに座り込んだ。
膝の上に置いた手を見つめ、また暗い、ネガティブな考えに沈みそうになった、その時だ。
不意に、強い風が吹き抜けた。ざわざわと木々はざわめき、公園の砂ぼこりが渦のように舞い、
襲い掛かる。すると私の視線は自然と、ベンチの隣に立つ一本のクヌギの木へと誘導された。
「あ……」
思わず声が漏れた。その木の根元に、白っぽく薄汚れた「傷」が残っていた。
かつて、私がこのベンチで今日のように落ち込み、顔を伏せていたとき。彼は決まって、「お前、くだらないことで悩むなよ!」と言わんばかりに、この幹をガジガジと激しく噛んでいたのだ。
そして「ほら、そんなことよりボールを投げろ!」 そう促すように、彼は傷だらけの木と私の顔を交互に
見て、短い尾を振りまわしていた。私が苦笑しながら立ち上がるまで、彼は何度も何度も、その木に噛み付いて見せたのだ。
まるで気を自分の方へ向けようとしてくれてるのだと感じたのを覚えている。その時 の「ガリッ、ガリッ」という小気味いい音と、土の匂い。鼻にしわを寄せて必死に木に食らいつく、 滑稽なのに、どこか愛らしい姿。
今、目の前にあるその傷跡は、あの子が遺した「不器用なエール」だった。形を変えて、今もそこにある。
彼がいなくなっても、彼が私を励まそうとした事実は、この公園の景色の一部になって生き続けている。
「……わかったよ。もう、座り込んでられないね」
私はゆっくりと立ち上がり、ごつごつした幹の傷にそっと触れ、静かに目を閉じる。不思議とあの子の被毛の感触を思い出す。きっとあの子は先に知っていたんだ。もう自分は散歩に行けなくなること。けれど、その後も私がこの場所で立ち止まってしまうことを。
だからこそ、私が何度でも前を向けるように、この木に印を刻んでおいてくれたのかもしれない。
空を見上げると、雲の隙間からかすかな光が差し込んでいた。涙はまだ、頬を伝う。けれどそれは痛みではなく、彼が私の中に残していった元気を取り戻す種が芽を咲かすための、優しい雨のようなもの。
私は深く、何度も深呼吸をして、あの子と一緒に歩いた時よりも少しだけ力強い足取りで、光の中へと踏み出した。すぐ後ろで、軽やかな爪の音がアスファルトを叩いたような気がして、私は一度だけ振り返り、そして微笑んだ。
「ありがとう。私がそっちに行ったらまたボールで遊ぼうね…」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もし少しでも心に残るものがあれば、感想や評価をいただけると、次の物語を書く励みになります。




