誘い
気がつくと、身体は冷たい湿気に包まれていた。辺り一面、視界の全てを奪うような深い真っ白な霧に覆われている。自分の手すら、ぼんやりとした輪郭しか捉えられない。自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、一切の記憶がごっそり抜け落ちていた。
不安が胸をかきむしり始めたその時、足元に微かに白い道が続いているのが見えた。まるで月光を吸い込んだかのように仄明るい、幅の狭い砂利道だ。
そして、どこからともなく、男の声が聞こえた。
それは、まるで空気が震えているような、生気のない、しかし拒絶しがたい響きを持っていた。
「……その道を、真っ直ぐ進め」
逆らうという選択肢は、初めから存在しないようだった。声に操られるかのように、男は無意識に足を踏み出した。砂利の擦れる音が、この静寂の中でやけに大きく響く。
霧の道は、歩けども歩けども変わらない。時間がどれほど経ったのかもわからない。ただひたすらに、白い道だけが続いていた。
やがて、道が二つに分岐しているのが見えた。
左側を見ると、霧が薄れ、先は煌々と明るい。まるで夜祭りのような光が溢れ、大勢の人の楽しそうな笑い声や歓声が、波のように寄せてくる。その音は、生きる喜びと熱狂に満ちており、男の凍えた心を温めようと誘っているようだった。
右側を見ると、光は一切なく、暗く、重い闇が支配している。しかし、ただの静寂ではない。その闇の奥からは、大勢の人の怨嗟の声、絶望的な嘆きが、まるで底なし沼から湧き上がる呪詛のように、休みなく繰り返し聞こえてくる。
その時、再びあの声が響いた。今度は、微かに楽しんでいるような、冷酷な響きが加わっている。
「どちらか、好きな方へ進め。お前が望む場所へ……」
男は少しだけ立ち止まると、深く考えることなく、迷わず右側へと歩を進めた。
左側の道が放つ明るさは、あまりにも偽物めいて感じたのだ。あの底抜けの歓声は、空虚な作り物の仮面の下に、おぞましい真実を覆い隠しているような感じに思えた。それに対し、右側の道から聞こえる生の絶望は、どこか正直で、自分自身の内にある暗闇と響き合うようだった。
男は、今まで進んできた道とは対照的な黒い道へと足を踏み入れた。
右の道に入った瞬間、周りの空気が一変した。歓声はたちまち遠ざかり、代わりに耳を聾するほどの、無数の人の呻きと怨嗟の声が全身を打つ。道の両脇には、白い霧ではなく、黒い影のようなものが蠢いている。それらは、顔のない、しかし確かに人の形をした闇の塊で、男の足に絡みつき、引きずり込もうとする。
「こっちへ来い……」「なぜお前だけ……」「苦しい、助けてくれ……」
無数の声が男の頭の中で鳴り響き、自我を粉砕しようとする。男は、顔を覆い、逃げるようにその闇の中を走り続けた。どれほど走っただろうか。精神が限界を迎え、意識が遠のきかけた、その刹那――。
男は、激しい痛みと共に意識を取り戻した。
消毒液の匂い、機械の規則正しい電子音、そして天井の蛍光灯の眩しさ。
「目が覚めたのね、よかった!」
看護師の安堵した声が、薄れゆく幻聴をかき消す。男は、病院のベッドの上にいた。
体は激しく軋み、頭には包帯が巻かれている。訊くと、どうやら交通事故にあって、生死の境目を彷徨っていたらしい。
「一時はどうなるかと……三日間、ずっと意識不明だったんですよ」
看護師の言葉を聞きながら、男は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
あれは一体、何だったのか。あの深い霧、あの白い道、あの男の声、そしてあの恐ろしい選択……。自分は正しい選択をしたから助かったのか。それすらも分からない。
男は静かに、自分の体の右腕を見た。
事故の影響か、そこには痛々しい擦り傷と、何かに強く引っ掻かれたような深い三本線の痕が残っていた。
そして、右の道の闇の中で聞いた、あの怨嗟の声の一つが、今、男の耳元で小さく囁いているような気がしたのだ。
「……お前も、こちら側に来たのだ」
男は、自分がただ生きて帰ってこれたのではなく、あの闇の一部を連れて帰ってきてしまったことに気づいた。彼の選んだ道は、救いでも、正しかったわけでもなく、ただ永遠の呪いに続く道だったのだ。
病院の窓の外は、晴れ渡った青空。だが、男の心の中には、もう二度と晴れることのない深い、深い闇が立ち込めていた。そして、男のこれからの人生は様々に、ときには小さな、そしてときには大きな不幸が、まるで連鎖するように起こり続けることを、男はまだ知らなかった……。