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前世の罪

作者: 雉白書屋

「催眠療法……か」


 背を丸め、古びた看板の掲げられた建物を見上げる、とある男。

 ここしばらく、彼は原因不明の倦怠感に苛まれていた。これといってストレスを抱えているわけではないのに、どうも体が重い。最近では足取りにまで影響が出ていた。

 家の近くの病院に行ったが、原因は掴めなかった。現代人はみんなそんなもんですよ、といった感じ。確かにそうなのかもしれないが、腑に落ちない。処方された睡眠薬で眠れるようにはなったものの、かえって悪化している気さえした。

 というのも、悪夢をよく見るのだ。


「なるほど……それで、催眠療法を受けてみたいと」


 男の話を静かに聞いていた精神科医は、深く頷いた。柔らかな笑みを浮かべ、言葉を続ける。


「やってみましょう。あなたの直感はおそらく正しい。原因の糸口が、きっと見つかるはずです」


 その一言に、男は安堵の息を吐いた。肩の緊張が和らぎ、心がわずかに軽くなった気がした。

 ソファに横たわり、全身から力を抜く。室内の照明がやや落とされ、精神科医が暗示をかけ始めた。まぶたは次第に重くなり、意識は静かに深い闇へと沈んでいった。


 ――ですか?


 夜道だ……。今、おれは夜道を歩いている。場所は……わからない。普通の住宅街だ……。


 ――いますか? ――るでしょう?


 ああ、女がいる。前を歩いている。


 精神科医の鈍く低い声が遠くから響いてくる。男はその問いかけに、声を出さずに答えた。夢の中の情景が徐々に鮮明になっていく。

 若い女が一人、ヒールの音を乱しながら歩いている。酔っているのか、足取りがふらついていた。


 ――でしょう?


 そうだ、酔っているのではない。女は怪我をしているのだ。

 女が振り返った。その顔は血の気を失い、恐怖に歪んでいる。

 次の瞬間、女が駆け出した。いや、逃げたのだ――そして、なぜかおれも走り出した。

 外灯の光が視界の端で何かを反射させた。


 ――ですね。


 そう、ナイフだ。おれはナイフを握っている。刃先にはすでに血がついている。あの女を刺したのだ。

 追いつくのは簡単だった。髪を掴み、地面に引き倒す。電柱の陰に押し込み、そしてナイフで胸を、首を何度も、何度も――


「うあっ!」


 男は叫び声とともに飛び起きた。額にはびっしょりと汗が浮かび、心臓が激しく胸を打っている。精神科医はそっと背中に手を添え、頷いた。


「お、おれは、でも……いや、あれは……」


「大丈夫ですよ。落ち着いてください。あなたが見たのは夢です。現実ではありません。……でも、そうは思えない。そう言いたいんですね?」


「は、はい!」


 男は精神科医の顔を見たあと、自分の手元に視線を落とした。指先が小刻みに震えている。そこには、確かに刺したときの感触が残っていた。


「それは、前世の記憶かもしれません」


「前世の記憶……?」


「そう。人は誰しも、前世の記憶を無意識に背負って生まれてくる――私はそう考えています。先ほどの催眠療法で、あなたの記憶の奥深く、幼少期よりもさらに原初の領域……前世の記憶にアクセスしたのです」


 精神科医は立ち上がり、微笑んだ。


「お疲れさまでした。今日はこのくらいにしましょう。また来てください。前世の記憶――そこには、必ずあなたの不調の根源があります」


「は、はあ……」


 男はその説明を、完全に信じたわけではなかった。だが、その後も催眠療法を受けるうち、どうも精神科医の言っていることは真実らしいと思い始めた。

 夢の中の光景は、回を重ねるたびに精密になっていったのだ。


「先生……おれの前世が人殺しだったということはわかりました……。ほんとに、本当にひどいことを……。でもそれで、おれはこれからどうすればいいんでしょう? 体の不調は? 治るんですか……?」


 ある日の診療後、男は体を小刻みに震わせながら、訊ねた。


「ええ、もちろんですよ」


 精神科医は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を継いだ。


「あなたが今、苦しんでいるのは前世の罪の残響です。無意識のうちに罪悪感が体を蝕んでいる……。つまり、罪を償うことで癒せるのですよ」


「償う……」


「はい。ボランティアグループを紹介しましょう。人のために尽くすことで、問題は自然と解決へと向かうはずです」


 男は精神科医の勧めに従い、紹介された団体に参加した。今までボランティアなどしたことがなかったが、やってみると心の奥が少しずつ澄んでいくような感覚があった。人と触れ合い、感謝されるたび、手の中にこびりついていた、あのナイフの感触が薄らいでいく気がした。

 ようやく平穏が戻りつつあった――そう思った、その矢先。


「こんにちは。今日から入りました、新人の――」


 ある日、新たにグループに入ってきた女が自己紹介を始めた。その瞬間、男は息を呑んだ。

 その顔は、あの悪夢の中で自分が刺し殺した女と瓜二つだったのだ。


「よろしくお願いしますね」


「あ、ああ……よろしく……」


 男は思わず一歩後ずさった。近づいてはいけない――そんな警鐘が頭の奥で鳴り響く。だが、彼女はずいと一歩、彼との距離を詰め、まっすぐに見つめた。


「不思議……」


「え?」


「私、あなたに会ったことがある気がします……」


「そ、そうか。でも初対面――」


「よく、同じ夢を見るんです。男に殺される夢を……怖くて、苦しくて、それに……」


「それに……?」


「憎い……今は、とても……」


「……奇遇だな。おれもよく同じ夢を見るんだ。怖くて、恐ろしくて……最近は、夢のとおりに動きたくなる」


 二人は視線を絡ませ、ゆっくりと微笑み合った。


 一方その頃、精神科医はまた新たな患者を迎え、催眠療法を施していた。


「それは前世の記憶です」


「ぜん……せ……」


「あなたは前世で人を殺しました……さあ、思い出してください。手の中にナイフがあるでしょう?」


「は……い……」


「それで殺すんです。目の前の男性を。あなたは彼に、深い憎しみを抱いていた。ほら、この写真の男性です」


「は……い……はい……はい、はい……あああぁ……」


「いいですよ……さあ、もうすぐ目が覚めます」


 精神科医は患者からそっと離れ、ぽつりと呟いた。


「実はね……私にもあるんですよ。人を唆し、事件を引き起こさせる――教唆犯だった前世の記憶がね……」

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