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タコ唐草模様のコーヒーカップ

作者: 渡辺昌夫

土曜の朝、いつもの綱引きが始まった。体は、一週間の疲れを取り戻すべく、布団の中で微動だにしない。一方、頭は、貴重な休みを無駄にするなと、びくともしない体にむちうつ。僕の想いなど、両者全く眼中にない。

綱は右に左にと、行ったり来たりする。その時、目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響いた。前の晩、切らずに眠ってしまった。予想外の展開に体が驚き、綱を手離なす。結局、頭が勝利した。

 狭い部屋の中は、キッチンまで数歩でたどり着く。

コーヒーメーカーが、機関車の「シュッ」という音をたてはじめる。トースターはすでにオレンジ色の光が点っている。僕は、テーブルに皿とカップを用意し、椅子に座った。

 空のカップを、ぼんやり眺めた。このカップ、先日駅前で行われた陶器市で買ったものだ。

棚の上に二列で並ぶカップ。僕は、奥にあるカップの柄に目を引かれ、手を伸ばす。一瞬、手前にあったカップに、手が触れた。

「あっ」

カップがダルマのように、カタコトと揺れる。僕は慌てて手を添える。どうにか間にあった。

ほっと胸をなでおろす。再び目当てのカップに手を伸ばす。すると、まだ棚に届かないうちから、手前のカップが左右に揺れ始めた。

「えっ… なんで…」

 思わず声が漏れる。カップは大きく揺れ、今にも棚から飛び出しそうだ。僕は、とっさに手を伸ばす。

 間一髪、棚から落ちてきたカップを、手ので受け止める。どうなってるの。そう思いながら、手のひらのカップに目を落とす。

 太い筆で書かれた唐草模様は、北斎の大波のように、先が渦を巻いている。よく見ると、その模様には等間隔でイボが付いている。

 変わった柄だな。そう思い、カップの中をのぞき込む。カップの内側にも渦巻き模様がびっしり描かれている。その渦を眺めていると、カップの中に吸い込まれそうだ。僕は慌てて目をそらす。

 このカップ、手の納まりも良く、家に連れて帰ってと言っているようだ。まるで、ペットショップで飼い主を探すチワワのようだ。

 僕は、仕方ないなと口ごもり、店主のいるレジに向かう。

「お客さん、お目が高いですね」

 店主は目じりを下げ、カップを紙で包む。

「このカップ、良い物なんですか?」

「この絵柄はタコ唐草と言って、多幸を運ぶと言われているのですよ。これ、有田焼の手書きですよ」

「へぇー、そうなんですか」

 タコと多幸。ダジャレはさておき、手書きと言われ、一点物のお得感が増す。

部屋に帰るとさっそく、カップを取り出しコーヒーを淹れる。これまでのコーヒーが、スタバで飲むコーヒーのように感じられる。その後、このカップで飲む飲み物が、至福の時を運んでくれる。


 コーヒーメーカーから、最後の蒸気があがる。テーブルには焼き上がったパンが並び、隣には空のカップ待機している。

サーバーから淹れたてのコーヒーを注ぐと、狭い部屋の中はナッツを炒たような、甘い香りが広がる。

「頂きます」

 誰もいない部屋に、僕の声が響く。冷めないうちに、トーストしたパンを手に取る。食べ進めると、パンが口の中の水分を全て持ち逃げする。おのずとコーヒーに手が伸び、休日の朝を満喫する。

カップが軽くなり、中を覗く。だいぶんタコ唐草の模様が見えてきた。漆黒のコーヒーとタコの足。不思議な取り合わせだが、なぜかシックリ来る。まるでタコの足が茹で上がっているようだ。

僕の頬が緩む。その時、コーヒーの中に何か写る。

「ん…」

 辺りを見渡すが、なにも変わった様子は無い。もう一度、カップをのぞき込む。すると、カップいっぱいに丸い目玉が一つ写り、まばたきをした。僕は声にならない声を上げると、椅子から飛び降り、ニ三歩後ずさりする。

「なんだ今の。きもち悪い」

 しばらくの間、茫然と立ち尽くす。少し落ち着いてきたが、いまだ心がざわつく。七割の怯えと三割の好奇心。しかし好奇心が夏の雲のようにモクモクと湧いてくる。

僕は恐る恐るカップに近づく。中を覗き込もうとした瞬間、カップの中から赤黒いものが飛び出してきた。

「ひゃあ」

 針でも踏みつけたようにギョッとする。

 呆然とする僕をよそに、カップから出ると太ももほどの大きさにまで膨れ上がる。よく見ると、裏には白い吸盤が、二列に並んでいる。

「えっ・・・ タコの足」

 タコ足は、天井まで伸びると動きを止めた。吸盤が、匂いをかぎ分けるように、ヒクヒクする。僕は、とっさにテーブルの下に逃げ込む。

ほんの数秒の時間が、数時間隠れているのように感じる。目を固く閉じ膝を抱える。不安で押しつぶされそうだ。

どれくらいたったのだろう。誰かが背中を突く。嫌な予感・・・ ゆっくり振り返ると、足先をくるりと丸めたタコ足が、こちらを見ている。

 僕は悲鳴を上げると、四つん這いで逃げ出す。すると後を追う様にタコ足が伸び、僕の腰に巻き付く。

「うっ」

次の瞬間、僕の身体は宙を舞う。左右に振り回され、タコ足はコーヒーカップに戻る。

 このままでは、テーブルに叩きつけられる。手足をバタつかせ、必死にもがく。下を見ると、カップの口がどんどん広がっている。すでに、学校のプールほどの大きさになっている。頭の中は混乱し、心臓を鷲づかみされたように身体が動かない。

 タコ足は速度を増し、水の中に吸い寄せられる。水面が目の前まで迫ったその時、僕は気を失う。

 目を覚ますと、ごつごつした岩の上に横たわっていた。身体はどこも痛くない。僕はどこに居るのだろう。

辺りを見渡すと、褐色の大きな木が建っている。大木の先を確かめようと、目で追う。途中、木が動いた。

「ん」

動いた幹の反対側に、見覚えのある吸盤が見える。それも頭ほどの大きさの物が、綺麗に縦に並んでいる。

額から冷たい物が流れる。僕はからくり人形のように、ぎこちない動きで幹をたどる。一本と思っていた木は、視界が広がるにつれ、二本、三本と増える。最終的には、想像通り八本となる。その先には、二つの眼玉と、重たそうにたわわにしなる頭。やはりタコだ。そのタコは、空を埋め尽くすほどでかい。僕は再び気を失う。

次に目を覚ますと、先ほどより小さいタコが、見下ろしていた。小さくなったとは言え、二階建ての家ほどの大きさだ。

大ダコと目が合う。やばい、食われる。そう思ったが、後ろの岩はせり立ち、とても登れない。何もできないまま、おののく。

「やっと目を覚ましたか。死んだかと思ったぞ」

 勝手に殺すな、と思いながら辺りを見渡す。しかし誰もいない。目の前にタコがいるだけだ。

「えっ・・・ タコが喋った」

思わず口走る。

「テレパシーじゃ。人間はそんな事も忘れたのか」

「テレパシー・・・」

 僕は口ごもる。少し落ち着いてきた。

「ところで、タコが僕に何の用なんですか」

「無礼者、ワシャ神様じゃ」

 タコの怒鳴り声に心臓が縮む。

「神様・・・ 人間じゃないのに?」

 蚊の鳴くような声が漏れる。

「バカ者。人間なんぞ、つい最近地球に住み始めた新参者が何を言う。ワシらはお前らより、大昔から地球に住む先輩じゃ」

 確かに地球の歴史からすると、人間の誕生など、ほんの瞬きほどだ。

「お前たちは新入りの癖、地球を好き勝手に変えおって。昔は砂漠など無かったぞ。最近は海も熱くなり、茹で上がりそうじゃ」

「タコだけに」と僕は心の中でつぶやく。すかさず大ダコの鋭い視線を浴び、僕はうつむく。テレパシーは、心に思ったことが相手に伝わるようだ。

「お前たちには、言いたいことが山ほどある。海に色んな毒を流したり、仲間たちを食べきらんほど、大量に取ったりと。ワシらは、人間を悪魔と呼んでいる。まあ、お前に言ったところで、詮無きことだが」

 耳が痛い。そう言えば冷蔵庫の中に、手つかずの魚が残っていた。もう食べられないだろう。

「話は変わるが、ワシを覚えとらんのか」

 口調が急に穏やかになり、逆に怖い。勿論タコに知り合いなどいない。もしかして、先週食べた蛸が神様の子どもだったのか。脇の下からみょうな汗が流れる。

「なんじゃ、覚えとらんのか。呆れた奴じゃ。その調子なら、生まれる前の誓いも忘れたのだろう」

 ご名答。心の中でつぶやく。タコ神様は大きな溜息をつく。

「お主は、この世の疲れた人々に、癒しを与えるため絵を書き、心を和ますと言っておったぞ。子どもの頃は誓い通り、絵を書いていたが、大人なると辞めてしまった」

 そう言えば中学までは、絵を書いていた。いくつか賞ももらう、腕前だった。いつから絵筆を、握らなくなったのだろう。

 しかしなぜタコ神様は、絵の事を知っているのだろう。不思議に思い訊いてみた。すると天国でタコ神様の絵を書き、その絵が好きだったと話す。

「もう絵は描かんのか」

 寂しげな声が響く。自分の絵を好きな人がいたなんて。僕は気の毒に思い、タコ神様に近づく。手を伸ばし、足に触れようとした瞬間、全身に痛みが走った。

「あいたたた」

 いったい何が起きたのか。辺りを見渡すと、リビングの床に転がっていた。どうやら居眠りして、椅子から落ちたようだ。近くには丸椅子も倒れている。僕は手を突き立ち上がると、テーブルの上に目を向ける。

すると、カップの周りで影が動く。その影はカップの中に、目にもとまらぬ速さで逃げ込む。

 僕はカップに近づき、恐る恐る中を覗く。白い湯気が立ち昇るカップの中は、漆黒のコーヒーだけ。気のせいか。僕は椅子に座り直すと、コーヒーを口に含む。

 朝食を終え、押し入れの奥から、古びた段ボールを取り出した。開けるとサラダ油のような匂いが鼻を突く。

「懐かしい匂いだな。何年ぶりだろう」

 独り言ちる。段ボールの中から、水彩絵の具とスケッチブックを取り出し、バッグに詰めると、家を出た。行き先は水族館だ。

電車に乗ると、ドア付近の手すりを握る。ふと見上げると、窓ガラスに自分の顔が写っていた。目尻が下がり、口元は少し上がっている。こんな笑顔を見たのは、いつぶりだろう。

込み合う車内で、ガラスに写った自分の姿を、しばし楽しむ。


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