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第五章:人界 - 日常という名の迷路

人界に足を踏み入れた彼は、その変化に戸惑った。ここは現代の都市そのものだった。高層ビルが立ち並び、人々が忙しそうに行き交っている。車が走り、電車が通り、すべてが「普通」に見えた。空気は排気ガスと食べ物の匂いが混じり、都市特有の騒音が絶え間なく響いている。


しかし、よく観察すると奇妙なことに気づく。人々の表情は一様に無表情で、まるでプログラムされたロボットのように同じ動作を繰り返していた。皆、スマートフォンを見つめ、誰とも目を合わせようとしない。会話すら機械的で、感情がこもっていない。


彼自身も平凡なサラリーマンの姿に変わっていた。グレーのスーツを着て、ブリーフケースを持っている。不思議なことに、これまでの記憶は曖昧になり、代わりに「普通の人生」の記憶が流れ込んできた。


毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じオフィスで同じ仕事をする。夜は疲れて帰宅し、テレビを見てコンビニ弁当を食べて眠る。週末は家でゴロゴロするか、ショッピングモールに行く。そんな平凡な日々の記憶が、まるで本当の人生のように感じられる。


「これが人界...」


呟いてみても、何か物足りない感覚が残る。満足でもなく、不満でもない。ただ、淡々と過ぎていく時間。意味を問うことすら面倒に感じられる。


駅のプラットフォームで電車を待っていると、隣に立った女性が話しかけてきた。それがユリアナだった。しかし、ここでの彼女は普通のOLの格好をしていた。


「お疲れさまです。毎日同じ電車ですね」


「ああ、そうですね」


他の乗客と同じように、無難な会話を交わす。しかし、ユリアナの目には深い意味が込められていた。


電車の中で、ユリアナは小声で言った。


「この世界の罠は快適さよ。苦痛もないが、喜びもない。ただ、安全で予測可能な日常が続くだけ」


「それの何が悪いんです?」彼は答えた。「平和で安定している。これ以上何を望むというのですか?」


「本当にそう思う?あなたの魂は満足している?」


その問いかけに、彼は答えることができなかった。確かに不満はない。しかし、満足でもない。ただ、流されているだけのような感覚。


オフィスに着くと、同じデスクで同じ仕事を始めた。書類を処理し、会議に出席し、報告書を作成する。すべてが機械的で、創造性も情熱もない。同僚たちも同じような表情で、黙々と作業をしている。


昼休みになると、ユリアナが同僚として現れた。


「一緒にランチしませんか?」


カフェテリアで向かい合って座ると、彼女は真剣な表情になった。


「あなたは気づいているはず。この生活に何か足りないものがあることを」


「でも、これが現実でしょう?大多数の人間がこうやって生きている」


「現実と妥協は違うわ。あなたの魂は、もっと大きなことを求めている」


その時、隣のテーブルから声が聞こえてきた。中年の男性が一人で座り、虚ろな目でスマートフォンを見つめている。


「また同じ日が始まる...何のために生きているんだろう」


その男性の姿に、彼は自分の未来を見た。このままでは、自分もあの男性のようになってしまう。


「彼も元は夢を持っていたのよ」ユリアナが言った。「芸術家になりたかった。でも、安定を選んだ。夢を諦めて、『現実的』になった」


夕方、仕事を終えて帰路につく。電車の中で、彼は考えた。この生活は本当に自分が望んだものなのか?安全で安定しているが、それだけで十分なのか?


家に帰ると、小さなアパートで一人の夕食。テレビをつけると、バラエティ番組が流れている。笑い声が響くが、どこか空虚に感じる。


その夜、彼は夢を見た。子供の頃の夢。宇宙飛行士になりたいと思っていた自分。星空を見上げて、無限の可能性を感じていた頃の記憶。


翌朝目覚めると、何かが変わっていた。いつものルーティンを始めようとしたが、足が止まった。


「これでいいのか?」


鏡の中の自分に問いかけた。灰色のスーツを着た平凡な男。しかし、その目の奥に、微かな光が宿っている。


「私は...もっと大きなことがしたい」


その瞬間、アパートの壁が溶けるように消えた。現れたのは、星空が広がる美しい空間。そこにユリアナが立っていた。今度は本来の姿で。


「ようやく気づいたのね」彼女は微笑んだ。「人界の試練は、安逸に流されないこと。夢と希望を失わないこと」


「でも、夢だけでは生きていけない。現実というものがある」


「夢と現実は対立するものではないわ。夢は現実を変える力になる。大切なのは、バランスよ」


空間の中央に、新しい光の欠片が現れた。それは星の形をしていた。


「希望の光」ユリアナが説明した。「どんな状況でも、より良い未来を信じる力。これがあるかぎり、人は成長し続けられる」


星の欠片は彼の胸に吸収された。すると、灰色だった世界に色が戻り始めた。日常は同じでも、それを見る目が変わった。単調な仕事も、誰かの役に立っているという意味を持つ。平凡な毎日も、小さな幸せや成長の機会に満ちている。


「人界の教訓は、日常の中にも神聖さを見出すこと。夢を持ち続けながら、現実と向き合うこと」


次の階段が現れた。人界から天界への道。


「これまでの界とは違って、ここからは上昇の道のりがより困難になる」ユリアナが警告した。「しかし、あなたはもう準備ができている」


人界を振り返ると、人々の表情が少し明るくなっているのが見えた。一人の変化が、周囲にも影響を与えていたのだ。

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