三章:畜生界 - 野性の叫び第
畜生界に足を踏み入れた瞬間、彼の意識は激しく揺さぶられた。理性的思考が霧散し、代わりに原始的な本能が全身を支配した。
周囲は巨大なジャングルだった。しかし、そこに生息する動物たちは、生身の肉体とメカニカルな部品が融合した奇怪な姿をしていた。虎の目は赤く光るレンズで、象の牙は鋼鉄製、猿の手は精密な機械の関節で動いている。
彼自身も変貌していた。筋肉は膨れ上がり、爪は鋭く伸び、歯は牙と化していた。思考は単純化され、「食う」「逃げる」「戦う」「繁殖する」という基本的な欲求だけが残っていた。
「ガルルルル...」
喉の奥から獣の唸り声が漏れる。言葉を発しようとしても、音にならない。ユリアナの姿を探したが、彼女は見当たらなかった。
その時、茂みから巨大な狼が現れた。その目には知性の光があった。狼は彼に向かって吠えたが、不思議なことに、その意味が理解できた。
「新参者め、この縄張りは俺のものだ!」
本能が戦闘態勢を取らせる。しかし、心の奥深くで微かな理性が囁いた。「戦う必要はない。話し合えるはずだ」
彼は努力して人間の言葉を発しようとした。
「ま...待て...戦いたく...ない...」
狼は驚いたように耳を立てた。
「貴様、まだ人間の言葉を覚えているのか?」
「少し...だけ...」
狼の攻撃的な姿勢が和らいだ。
「俺はフェンリル。元は人間だったが、もう何千年もここにいる。最初は人間の記憶があったが、今では断片しか残っていない」
「どうして...ここに?」
「生前、本能のままに生きていたからだ。理性を捨て、欲望の赴くままに暴力と破壊を繰り返した。気がついたら、ここにいた」
フェンリルは遠くを見つめた。
「この世界では、強いものが弱いものを食う。それだけのルールだ。しかし、時々思うんだ。これで本当にいいのかと」
その時、空から大きな影が差した。見上げると、機械の翼を持つ巨大な鷹が舞い降りてきた。その背中には、見覚えのある人影があった。
「ユリアナ!」
鷹から飛び降りたユリアナは、この世界でも人間の姿を保っていた。しかし、その目には野生の光が宿っていた。
「ここでは理性と本能のバランスを学ぶ必要がある」彼女は厳しい声で言った。「本能を完全に否定すれば生きていけない。しかし、それに支配されれば獣に堕ちる」
彼女は鋭い爪で木を削り、文字を刻んだ。
「この世界のルール:強者が弱者を支配する。しかし、真の強者とは何か?腕力か?スピードか?それとも...」
突然、地面が揺れた。森の奥から巨大な恐竜が現れた。その体は完全に機械化されており、口からは火を吐いていた。
「メカザウルス...この界の支配者だ」フェンリルが恐怖に震えた。
恐竜は彼らを見つけると、猛烈な勢いで突進してきた。フェンリルは逃げ出したが、彼とユリアナは立ち向かった。
しかし、物理的な力では到底敵わない。恐竜の巨大な足が振り下ろされる瞬間、彼は叫んだ。
「待ってくれ!君も元は人間だったんだろう?」
恐竜の動きが止まった。血走った目が彼を見つめる。
「人間...俺は人間だった...」
声は機械的だったが、その奥に深い悲しみが籠もっていた。
「何千年も前、俺は戦士だった。力こそすべてだと信じ、戦いに明け暮れた。しかし、最後に気づいたんだ。力だけでは何も守れないということに」
恐竜の目から涙が流れた。
「妻と子を守るために戦ったのに、その戦いによって彼らを失った。皮肉なことに、俺の力が彼らを殺したんだ」
彼は恐竜に近づいた。本能は危険を警告したが、理性がそれを押し切った。
「君の痛みがわかる。私も大切なものを失った。しかし、その痛みを力に変えることができる」
恐竜の巨体が光り始めた。
「本当の強さとは、他者を守る力。自分の痛みを他者の癒しに変える力だ」
恐竜は人間の姿に戻った。中年の戦士で、顔には深い皺が刻まれていた。
「ありがとう...君のおかげで思い出した。俺が本当に求めていたものを」
戦士は光となって消えた。残されたのは、小さな盾の形をした光の欠片。
「これも君の魂の一部」ユリアナが言った。「真の強さを理解する力」
光の欠片は彼の胸に吸収された。すると、獣の姿が人間に戻り始めた。
「本能は生きるために必要だ。しかし、それを理性でコントロールすることで、真の力となる」
フェンリルが戻ってきた。
「お前たちは上に行くのか?」
「そうだ。一緒に来るか?」
狼は首を振った。
「俺はまだだめだ。もう少しここで学ぶ必要がある。しかし、いつかは必ず」
彼らは別れを告げ、次の階段へ向かった。畜生界を去る前、彼は振り返った。森の動物たちが、以前よりも穏やかな表情をしているのが見えた。
一つの魂が救われることで、世界全体が少し良くなる。これも学んだ教訓の一つだった。