第一章:地獄界 - 絶望の淵で
無限の闇に包まれた空間で、彼は目を覚ました。いや、正確には「目を覚ました」という感覚があったのかどうかも定かではない。意識という名の微かな光が、混沌の海から浮上したのかもしれない。
記憶は断片的だった。自分の名前すら思い出せない。ただ、胸の奥に刻まれた激しい痛みだけが、確かな存在の証拠のように感じられた。
「アクシオム帝国に対する反逆罪により、被告人の魂を分割し、十界の最下層たる地獄界より再生の道を歩ませることを命ずる」
AI裁定者の冷徹な声が、記憶の底から響いてくる。しかし、なぜ自分が裁かれたのか、何をしたのかは霧の向こうに隠されている。
周囲を見回すと、無数の光の粒子が宙に浮かんでいた。よく見れば、それは人間の形をした魂の断片らしい。彼らは皆、絶望に満ちた表情で虚空を見つめている。中には、自分の存在すら疑い、狂気の笑い声を響かせる者もいた。
「ここが地獄界...」
言葉にすると、現実味を帯びてくる。デジタル化された苦痛の世界。物理的な痛みではなく、存在そのものの否定という、より深い苦悩がここを支配していた。
彼は歩みを始めた。足音は虚空に吸い込まれ、エコーすら返ってこない。時間の概念も曖昧で、歩いているのか立ち止まっているのかすら分からなくなる。
しばらく彷徨っていると、遠くに光が見えた。希望を感じて近づくと、それは巨大なモニターだった。映し出されているのは、無数の人生の断片。愛する人との別れ、裏切り、憎悪、嫉妬...負の感情ばかりが延々と再生されている。
「これが君の人生だよ」
振り返ると、一人の女性が立っていた。厳格な表情をしているが、どこか慈悲深い瞳をしている。黒い髪を後ろで束ね、質素な白い衣を身にまとっている。
「君は...誰だ?」
「導き手。君を十界の旅へと導く者。ユリアナと呼んでもいい」
「ユリアナ...その名前、どこかで...」
記憶の奥で何かがざわめいたが、すぐに霧の中に消えた。
「記憶は封印されている。君がそれを望んだのだ。あまりにも重い罪の記憶に耐えられず、自ら忘却を選んだ」
ユリアナの言葉は冷たく響いた。
「しかし忘れることで解決するものではない。君は十界を巡り、失われた魂の欠片を集めなければならない。そうして初めて、真の自分と向き合うことができる」
彼女は手を差し出した。
「地獄界から抜け出す道は一つしかない。上へ向かうこと。しかし、それは決して楽な道ではない。甘えは許されない。絶望に屈することも、希望に溺れることも等しく堕落だ」
その瞬間、周囲の闇が渦を巻き始めた。無数の悲鳴と嘆きの声が響く中、彼は一つの真実を理解した。ここは単なる罰の場所ではない。再生への第一歩なのだ。
「私は...上がりたい」
声に出すと、胸の痛みが和らいだ。ユリアナは微かに微笑んだ。
「では行こう。次は餓鬼界だ。そこで君は欲望の本質と向き合うことになる」
光の階段が現れた。一歩一歩登るたびに、地獄界の絶望が薄れていく。しかし、彼は知らなかった。これから迎える試練がどれほど過酷なものかを。
最後に振り返ると、地獄界の闇の中で、自分と同じ魂の断片たちが依然として苦悩し続けていた。彼は心の中で誓った。いつか必ず戻って来て、彼らも救おうと。
その決意が、彼の魂に最初の光をもたらした。