幻のエースが世代最強のスラッガーに挑むまでの話
副題『想いを沈めるエースナンバー』
百合要素×高校野球。冗長オブ冗長。4万字近くあります。
お茶とお菓子を用意してお読みください。
7回裏。2点差。2ストライクに3ボールのフルカウント。
バッターボックスには恵風館高校3年、キャプテンの白雪みぞれ。
県内最強――否、全国区でも世代最強との呼び声が高い打者のフルスイングは、いっそ心地よいほどの打球音を奏でた。
打てば看板、上がれば長打、確信歩きで本塁打。
数々の名バッテリーに拭えないトラウマを植え付けてきた彼女の猛烈なヒット性だが。
しかし今日は、捕球体勢に入った遊撃手のグローブにすっぽりと収まる。
彼女の――私たちの夏が小気味よく消えていく音がした。
マウンド上では1年生エースの甘利夕映ちゃんが茫然と立ち尽くしている。
勝利が信じられないような、喜ぶべきかわからないような、不思議な表情だ。
実感が湧いてこないのが周囲にまで伝わってくる。
そんな彼女の元へとナインが次々に集まってきた。
バッテリーを組む捕手の海原美咲ちゃんが最初に駆け寄り、ユエちゃんを全力で抱きしめて。県大優勝常連の投手陣から本塁打を放った4番の島村愛ちゃんも加わって。うん。今年の1年は本当に頼もしい。逆に2年生キャプテンの池中塁ちゃんは魂が抜けていて。
ちらりと三塁側へ視線をやれば。
恵風館のメンバーが泣きじゃくりながら崩れ落ちている。
そりゃそうよね。
まだまだ序盤の3回戦。相手は弱体化が著しい衰微傾向の古豪だもの。
負ける予定どころか、障害とすら認識していなかったに違いない。
そんな中、ラストバッターの白雪みぞれは。
私の憧れ。私のライバル。私のきっかけだった無敵の天才打者は。
先に出塁していた、二塁で這いつくばっているチームメイトを抱き起こすと、肩を支えながら整列させに向かわせる。自分だって泣きたいだろうに。
私はベンチから白けた視線を投げつける。
それに気づいたか、気づいてないかはわからないけれど――。
みぞれは一瞬こちらを振り向き、困ったようにはにかんだ。
この3年間色んな人間にさせてきたであろう、決壊寸前の泣きそうな表情で。
「……ばーか。なに私以外の投手に討ち取られてんのよ」
なんとも言えない想いを無理やりに沈めると、私も整列のためにユエちゃんたちのほうへと向かった。
◇
南腰越高校3年、梅景時雨。
神奈川女子野球界に燦然ときらめく星。ポジションは投手。
小学、中学ガールズ時代を合わせて全国大会への出場経験は5回。
そのうち一度は準優勝。最後の夏には準決勝まで進んだものの……。
6回裏に逆転満塁ホームランを打たれて惜しくも決勝進出を逃す。
まーねー。あれは相手の監督がスゴすぎた。
中継ぎがメンタル折られて大崩れ。急遽継投した1打席目を狙われた。
決勝を投げる予定で、ちゃんと肩を作ってなかったのが致命的だった。
ま、繰り言を垂れる気はないけど。何を言っても負けは負け。
どんな状況、どんな形であれ、勝利も敗北も己が双肩で背負うのが1番ってもんよ!
心機一転。高校からは女子甲子園に出るため、正式な部活に所属しようと決断。倍率の高い名門を避け、スポーツ推薦のラッシュも断り、昔は強豪だったけれど今は部員数があまり多くない南腰越に進学した。
そこで自他ともに認める不動のエースになるはずだった私は。
部内の暴力事件に巻き込まれ、利き手をバットで破壊されたのだった――。
◇
「先輩。しぐちゃんせんぱーい?」
ユエちゃんに肩を叩かれて我に返る。
礼をしてベンチに戻ってきた後もずっと立ち尽くしていたみたい。
顔を覆って涙を流す恵風館メンバーの背中を眺める。
さすがに甲子園常連の強豪校。
その選手層は厚く、県内外に名の通った子も多く。
私にとって見知った顔ぶれが大勢いる。
ガールズ時代には何度も県内4強を争った強敵たちだ。
誰ひとりとっても見劣りしない。全員が抜群の才能を備えているのに。
応援席に入れられ。球拾いをこなし。辛く厳しい練習を何年も積み重ね。
他校なら即レギュラーになれる人たちが、ようやく掴んだチャンスなのに。
「みんな、ここで終わりなんだね」
「せんぱい?」
「ううん。なんでも。それよりもユエちゃん、よーやってくれましたなぁ!」
偉いぞー、と抱き寄せてから、エロいぞー、とわちゃわちゃする。
「時雨さん。1年生へのセクハラはダメですよ」
手刀を振って割り込んできたのは2年生の暁森然子ちゃん。
池中塁ちゃんの幼馴染で、何かと立ちはだかってくるマジメで愛しい後輩だ。
「じゃー2年にしちゃおー」
「ちょっ! やめっ!」
「遠回しに誘い受けなんて愛いやつめ!」
「ちがっ! そんなわけ!」
とか言いつつもあまり抵抗はしてこないモエちゃん。
視界の端ではルイちゃんが羨ましそうにもじもじしている。
このふたりとも奇妙な縁だなー、と、私は過去に思いをはせる。
ルイちゃんとモエちゃんを初めて見たのは小学生時代。
なんてことないガールズの試合。6年生だった私にとっては眼中にないモブも同然で。
5年にしてはちょっと上手いのがいるな~、ぐらいの感覚でいつも通りにねじ伏せた。
はっきり言って、あの頃の私には白雪みぞれ以外の選手など道端の石ころだった。
この世でただひとり、三振の取れない天才をやっつけたい。
その気持ちひとつ抱えて決勝を目指していく過程でのひとコマ。
もう二度と会うこともない。人生でふとすれ違っただけのこと。
翌日にはポンと忘れているどうでもいい日常……だったんだけど……。
『い、池中塁です! 大船ガールズでは遊撃手をやってました!』
『同じく大船ガールズ出身の暁森然子です。ご指導、ご鞭撻、よろしくお願いします!』
中学ガールズでエースナンバーを背負った2年の春、ふたりは私の前に現れた。
大船地区なら超名門の地元ガールズがあるだろうに、わざわざこっちまで通いにきた。
なんでも、彼女たちにとって私の存在は相当な衝撃だったらしい。
地区内では稀代の才能ともてはやされていたコンビが手も足も出なかった。
3打席。たった9球。
討ち取られた瞬間の、歯牙にもかけない態度が鮮烈だったのだとか。
そりゃーそうよね。全国区ではあれぐらいの才能などゴロゴロいるのだから。
掃いて捨てるほど見慣れていて、白雪みぞれには足元にも及ばない。
印象に残るわけがない……私の瞳はただただ心のライバルにのみ縫い留められていた。
そんな感情はもちろん態度にも反映される。私はひよこみたいに後をついてくるふたりを雑に扱い、目をかけることもなく、丁稚や小間使いかのように接していた。
それが間違いだったと気がついたのは、中学ガールズ最後の夏。
本塁打を打たれて大ピンチ。7回表、どうにかして逆転したい状況。
全国春大で白雪みぞれに三塁打を打たれた私は、リベンジがしたい一心で、めずらしく打者ひとりひとりに声をかけて回った。必死だった。皆びっくりしていた。
お前、そんなに熱いやつだったのか、と。
ルイちゃんとモエちゃんも例外ではない。
手を握られたふたりは顔を紅潮させて気合いを入れて、ものの見事に凡退してきた。
『す、すびばせ、せんぱい……私、せんぱいの最後の夏……』
『あんなに、色々教えてくださったのに……活かせなくて……!』
泣きじゃくるルイちゃんと、その肩をさすりながらも胸を詰まらせているモエちゃん。
1年間も付き合いがあれば、顔見知り程度に会話ぐらいはする。
質問されれば気まぐれに教えることもある。
何の気もない返答のひとつひとつが、彼女たちにとっての宝物になっていた――。
そう気づいたとき、私はチームプレーというものを初めて知ったんだと思う。
後悔するには、少し遅すぎたけれど。
だから、南腰越に入ってからの私は変わった。ベンチの子も、球拾いの子も、ひとりひとりの名前を覚えて、一緒に勝ち上がるチームメイトなのだと意識した。その甲斐あって信頼は得られたけれど、慣れないことはするもんじゃないね。
私はちっとも気づかなかった。
自分の存在、自分の才能、自分の言動ひとつひとつがもたらす影響に。
つまり、先輩たちの心を激しく脅かしていることに。
南腰越高校、女子野球部。
古豪の名前は残っていても、近年の成績はあまり振るっていなかった。
昔は相当に強かったらしい。その威光に惹かれたり、スタメンのチャンスを求めたいけれどチーム力の保証も欲しい、という私みたいな使えるやつが集まってくることで、どうにか最低限の〝勝てそうな札〟を維持している状態。
思えば、先輩たちは焦っていたんだろう。
脅迫上等の監督。OBからのプレッシャー。最後の年のポジション争い。
そんなドロドロ渦巻く中で、私は少し、いや、かなり。
上方向のベクトルで、南腰越のレベルに合っていなかった。
今ならわかる。
甘利夕映ちゃんという、怪物じみた才能を目の当たりにした今なら。
もしも私が現役の選手だったら、絶望的な格の違いを前に正気でいられただろうか?
……色んな苦悩が重なって、1年生の冬辺りから部活はどんどんブラックになった。
ついていけない仲間たちは古びた櫛の歯のようにボロボロと抜けていく。
正直、私も限界は感じていた。けど、どんな状況でも嬉しいことはあるもので。
『せっ、先輩! 私、来ちゃいました!』
『また一緒にプレーできるなんて夢みたいです!』
2年生の春。またしてもルイちゃんとモエちゃんが現れたのだ。
並みいる強豪からのオファーを断ったふたりは、わざわざ私がいるチームを選んだ。
それが何よりも嬉しくて。
ガールズでの日々をもう二度と取り返せない過ちだと思っていた分、埋め合わせるかのようにふたりを可愛がりまくった。それはもう、キャラ崩壊ぶりを驚かれるほどに。
それも悪かったのだろう。
ふたりは3年生の先輩たちから目をつけられて、しごきや指導と称した暴力を受ける筆頭になってしまった。ボロボロで元気がないのを、ハードな部活に慣れてないだけだと勘違いしていたけれど。
ある日、3年生たちからリンチされている現場に出くわした。
血の気が引いて、頭が真っ白になる一方で。
腸がギュッと震え、煮えくり返るのを内側から感じて。
もちろん、すぐに止めに入った。
いけ好かない下級生エース候補の私が突っかかってきたもんだから、先輩たちもヒートアップした。それで、押さえつけられ、拳にバットを振り下ろされて。
私は右投げができなくなり、治療のためにしばらく休校した。
ふっ、と微笑み、右の手のひらを見つめる。
後悔はない、と言えばウソになるけれど。
他人が思っているほど深刻には捉えていない。
守りたいものを守れたのだから、自分の中には確かな満足感もある。
結局、主犯格と取り巻きは退学処分。
それ以上の大ごとにはしなかった。
半狂乱の両親は私が自ら説得して止めた。
気に食わない先輩もいるけれど、大好きな仲間だっている。
皆の夏を奪いたくはない――そう決意して、あえて情報を入れないように努めてから学校に復帰した2学期。おっかなびっくり部室に顔を出すと、そこにいるのはルイちゃんとモエちゃんだけだった。
聞けばこういう話らしい。
春以来、チームの雰囲気は最悪。隠しても噂は広まるもので。何かヤバいことが起きたチームとして練習試合は断られまくり。主力の一部は抜けているし、残った3年生も内部対立と仲間割れを起こして機能不全に。夏大は初戦敗退。顧問も学校側に詰められて自主退職。夏休み中の練習もなく、保護者たちも敏感に反応したため退部や転校が続出。
チームは完全崩壊した。
私はふたりにどうして残っているのか、と尋ねた。
ルイちゃんとモエちゃんは、先輩を待っていたから、と答えた。
そのとき湧いてきた感情は、どんな言葉を以てしても表すことができない。
『なるほどねー。じゃ、やろっか。私たちのチームを作り直すよ』
なるべく飄々と、弱いところは見せないように、ふたりが憧れたかつての私を意識して告げる。こうして私は南腰越女子野球部のマネージャーに就任したのだった。
針のむしろでやることもないけれど、しばらくはヒマで楽しい日常だった。
ルイちゃんはシャイでクールな美人さん。「へい、池メン」とじゃれつくと喜ぶけど、後ろからおぞけの走る視線が飛んでくる。怖いのでルイちゃんにベタベタするのは控え気味にした。しかし、そこでへこたれる私ではない。代わりにルイちゃんのことが大好きなモエちゃんをなでくり倒してやるのだ!
ククク、先輩をナメるなよ?
そうして気づく。モエちゃんの艶めかしい体からはめっちゃいい匂いがする。それに色々とおっきくて、やわらかくて、はんなりもちもちすべすべしてて……くそう、年下のくせに。後輩のくせにぃ。なんだこのサッカーボールは! 入る部活を間違えてるだろ!?
なんてことをやっていたら。
いつの間にかモエちゃんのほうが、よりでっかく私に懐いていたり。
「おっと」
鈍い鈍痛で我に返る。今はまだ球場だ。
私は、荒い鼻息でキッと睨んでくるモエちゃんと、いつの間にか逆サイドに収まっているルイちゃんを抱き、両手に花の状態だった。いまだにうずく右手の甲に、夏の大気とは異なる熱を感じながら思う。
白雪みぞれは気になるけれど。
今は違う。私の後輩と、私たちのチームの時間なんだから。
私は両手を肩に回しながら、ふたりの耳元でささやく。
「ありがとう。私の夏を守ってくれて」
「――!」
「今度は絶対にてっぺんまで行こうね」
『……はいっ!』
キャプテンと副キャプテンは最高の笑顔でうなずいた。
◇
「クールダウンはこれで終わりねー。今日はゆっくり休んでOKよ!」
『ありがとうございましたー!』
母校・南腰越のグラウンド。
顧問の染谷先生の号令で選手たちが解散する。
すでに西日がまぶしく差し込む時間帯だ。
私は和気あいあいな更衣室を侵略する。
着替え中の人影を呼び止め、お目当てのふたりを連れ出した。
1年生バッテリーの、甘利夕映ちゃんと海原美咲ちゃんだ。
「しぐちゃん先輩、どーしたんですか?」
「……あの、私たちだけ、ですか?」
ユエちゃんが能天気に、サキちゃんが警戒心も露わに尋ねてくる。
「うん。この後ヒマだよね?」
「え? 私たち、これからカラオケで祝勝会を――」
「ヒマだよね?」
『アッ、ハイ……』
私は先輩特権を濫用すると、ふたりを半強制的に連行して電車へと乗せた。
選手の試合は終わっても、マネージメントはまだ終わっていないからだ。
対面ホームの影から見守る首脳陣にサムズアップ。
それから自分に集中する。
……私たちの最後の夏は、まだ終わりではない。終わらせはしない。
「どーしたんだろ? あっ、もしかしてセクハラの続きとか~?」
雰囲気たっぷりにすり寄ってくるユエちゃんを、サキちゃんが強めに引きはがす。
「シャレにならないこと言わないの。先輩、目的地はどこですか?」
「ふっふっふー。それは着いてのお楽しみ。大丈夫、料金は私が持つから」
サキちゃんが私を見る目は不信感に染まっていた。
ユエちゃんが目当てなのでは、と疑心暗鬼なのがまるわかりだ。かわいすぎか。
「ハッ、まさか! 大活躍したバッテリーにスペシャルな食べ放題をおごりとか……!?」
「そ、それはお小遣いが持たないかも」
油断もスキもない食いしん坊め!
でも、いっぱい食べるだけあって素晴らしい発育だ。
ユエちゃんとサキちゃん。
お気楽でやんわり不思議な天才投手と、しっかり者で愛が重めの秀才捕手。
このふたりが入部してくれたおかげで、私たちの野球ライフには熱気が蘇った。
――2年生の2学期と3学期、チーム作りは難航していた。
あんなことがあったから、在校生の勧誘は当然ながら上手くいかない。
なし崩し的に、日常系アニメみたいな生活にならざるを得なかった。
駄弁って、グラウンドを均して、ルイちゃんとモエちゃんのキャッチボールを眺めて。夕暮れになるとバッセンに行ったり、街ぶらついでにウィンドウショッピングしてみたり。時には戦術研究と称して誰かの家でプロ野球を観戦しながら遊んだり。
穏やかな毎日も、それはそれで楽しかった。
次の年度に9人はそろうっしょ、今は浪人だーって体づくりに励みまくって。
シニアの練習に混ぜてもらったり、助っ人要請があれば馳せ参じたり。
まあ、私はほとんど見学なんだけど。
でもやっぱり、自分のチームで本気の野球がしたいよね、って気持ちもあって。
そんな私たちの求めに答えるかのように。
異次元レベルで才能の塊なユエちゃんと、それについていけるサキちゃんが現れた。
『勝てるっ』
投球練習を見せてもらった私は思わずつぶやいた。
あの瞬間、至福な雌伏が終わりを告げて。
私の、私たちの、我らがチームの野球が始まった。
ユエちゃんは天才だ。バケモノじみた絶世の天才。
いつか絶対、間違いなく、女子野球日本代表のエースになるはず。
放っておいても勝手に伸びる。だからみーんな忘れている。
彼女だって、投球テクニック以外の部分では等身大の16歳なんだってことを。
チームの心はひとつながらも、個々人間にうっすらとランク意識みたいなものはある。人間だからしょうがない。誰もユエちゃんに口出しはできないし、ましてや教えることなんてムリ。どの立場から、誰に対して言ってんのよ……そんなツッコミが自分にブレーキをかけてしまう。
ルイちゃん、モエちゃんとて例外ではない。
後輩としてかわいがりつつ、どこか〝格上〟の扱いには悩んでいる様子。
「3年生の役目、ね」
私もまあ、正直に言えばビビるところはあるよ。
この子、明らかに全盛期の私よりも上手だもの。
だけど、ユエちゃんにだって足りないものはある。
まぶたを閉じると浮かぶのは、勝利投手とは思えないほど居心地悪そうな態度。
申し訳なさそうに、遠慮がちに、気まずそうにしていた。それはエースの姿じゃない。
この子はまだ、致命的な挫折と、絶望の先にあるギリギリの勝敗を知らない。
だから勝利を素直に喜ばない。
遠慮しすぎて傲慢な彼女。ただただ尊大だったかつての私。
皮肉にも、同じ問題に陥っている……チームメイトも、相手チームも見ていない。
視線を傾けると、ユエちゃんと目が合った。
不思議そうに、楽しそうに微笑み返してきた。
「…………」
投手のことは投手が一番よくわかる。
エースのことは、エースが一番よくわかる。
私たちは、他人から言われて「はい、そうですか」と納得できるタチじゃない。
必要なことは、いつだって自分の中で咀嚼して学んできた。
この子は本物の天才だから、学べるところからは勝手に学んでくれる。
……でもって、背中を見せるぐらいならオンボロの私にもできるのだ。
――待ってろよ。首を洗って待っていろ。
私の、私たちの夏がようやく幕を開ける。
◇
横浜市・青葉区。
高級エリアの多いお金持ち区、らしい。
これ見よがしに規模が大きくて設備も完璧なスポーツの強豪校がずらりと並ぶ。
ま、まあ、港北区には慶應があるし、バランスは取れてるんじゃないかな、たぶん。
などと他人のふんどしでマウントを取りつつ。
私たちは、駅から乗ってきたバスを降りて、豪華な校舎を見上げる。
さすがは有名私立校。金もってんな~……。
「せんぱーい。ここ、どこですかぁ?」
途中で寝ていたユエちゃんはサキちゃんに寄りかかっている。
「恵風館」
「へ?」
「ここがかの、私立恵風館高校の本館なるぞ」
「え……。えっ。えええええーーー!?」
彼女は自らの絶叫でバッチリ目を覚ました。
説明もそこそこに事務室へと向かう。
試合後の挨拶にきたと伝えたら、ふつーに入館証を発行してくれた。
「エグいですってぇ。ダメですってぇ。こここ、殺されちゃいますよぉー!」
「へーきへーき。恵風館の監督は心が広いから」
駄犬のように抗っているユエちゃんを強引に連れていく。
「4連覇の夢を潰したんですよ? 生徒のほうはサーチ&デストロイなんじゃ?」
「へーきへーき。かかってきたら私が全員襲って食べちゃうから」
「どこまで本気なんですかね……」
サキちゃんの問いにウィンクで返す。そりゃもう頭のてっぺんから爪先までよ。
恵風館ってキッチリしていて清楚な美少女がいっぱいいるし。
体はストイックに引き締まっていて、そのくせ発育のほうもなかなかの……。
『うぎゃあああー! あいつは南腰越の!』
『このヤロウ、何しにきやがった!』
『さては嘲笑いにきたんだな?』
『つまみだせ! 用務員さんを呼んでこい!』
清楚な、美少女ちゃんたちが――。
「あ、あれー?」
第一グラウンドとやらに直行すると、抗争中の組織から鉄砲玉がカチコミにきました、みたいなノリで出迎えられてしまう。いやー、怖い、怖いって。私たちは笑顔がまぶしい野球少女。チームは違えど流した汗の尊さは一緒。同じひとつの空の下で――。
「だから言ったじゃないですかああああ!」
バットを手にした集団に囲まれ、すごまれ、1年生バッテリーはビビリ倒している。
でも大丈夫。私には確度の高い勝算があるのです。
「騒がしいぞ。何をしている…………おや」
噂をすればなんとやら。
「へーい監督ー! お久しぶりでーす!」
「監督はよさないか。私直々の誘いを蹴っといて」
人波をかきわけて現れたのは、恵風館高校女子野球部のボス。
就任1年目からチームを怒涛の3連覇に導いた豪腕指導者。
片桐恭子監督その人だった。
私にとっては、ガールズ時代の恩師に当たる人だ。
……あのとき。全国の準決勝で負けた中学最後の夏。
もしもこの人が監督を続けていたならば、と、たらればが頭をよぎる。
それぐらい信頼していて、そう思わせる実力のある監督だった。
「時雨。当日のうちに来るなんて、負けた相手への礼儀はどうした?」
「勝ったからこそ来たんですよ。一応、マネージャーですから」
「ウチとの関係をマネージメントしにきたと?」
「お題目はー。そんな感じかな~」
後ろ手に、両手を組んでぶらぶらと。
含みを持たせた思わせぶりな言い方をする。
「で。本当の目的は?」
「恵風館と勝負しに」
あちらの部員たちが色めき立つ。
『ふざけんな、帰れー!』
「やだよ。南腰越は勝ったけど、私はまだ戦ってすらいないし」
非難轟轟。険悪な空気。心配性の1年たちが私のシャツやスカートを引っ張る。
それでも視線はそらさない。
やがて、片桐監督はため息をつき、腰ポケットに吊るしていたメガネをかけた。
「……投げられるのか?」
「南腰越のエースは私です」
断言する。シャツをつまむ指にぐっと力が入るのを感じる。
「今日がそのときなんです。ダメなら正式に引退します」
主語はない。これだけで十分に伝わる。
だって、片桐さんはずっと私を指導してきたから。
私のことはほとんど全部、知ってる。
「――第二更衣室を使いなさい。Bチームの1、2年生は打撃練習の準備」
『監督ッ!』
うんうん、まさに計画通り。
やっぱり片桐さんは私に対して甘いのだ。
Bチームかあ……ま、二軍を当ててくるのは仕方ない。
片桐さんが私を侮っているわけじゃない。
単に、長いこと試合から遠ざかっていた故障投手への客観的な評価だ。
チャンスを与えてくれるだけでも異例中の異例。ありがたい。
「あの、しぐちゃんせんぱい」
「サキちゃんは球を受けて」
「せんぱい、無茶ですよ! マネージャーが選手と真剣勝負なんて!」
「お静かに。――ねえ、ユエちゃん。私のやることをよく見ていてね」
「でも……」
「わかりました」
緊張気味の声が、混乱をさえぎる。
「梅景選手のピッチング、一球も逃しません」
あー……これは知ってるアレだな。
不安げなユエちゃん、捕手らしく洞察力に優れたサキちゃんと着替えを済ませ。
私はマウンドに戻ってきた。
ああ、マウンドだ。
他よりも少し高くて、他のポジションとは見える景色がまったく違う、マウンド。
かつてはそこに立つことが当たり前だった、投手たちの故郷。
失ってから初めてわかる特別な空間。
すべての視線、スポットライト、責任が押し寄せてくる、魔物の棲まう場所。
まるで、土に密着した靴の裏から闘志と瘴気が立ち上ってくるかのよう。
バッターボックスで打者が構えるのを待ち。
私は帽子を取ってから一礼した。
「お願いしますッ!」
『よーしこーい!』
相手からも裂帛の気合が返ってくる。
さしずめレギュラー陣の仇討ちといった気分だろうか。
私は右手で球を持ち、疼痛に歯を食いしばると、足を高く上げて大きく振りかぶる。
動作に反してへろへろの球がどこかへ飛んでいった。
「……………………」
時が止まったかのように世界が静まり返る。
「いやー、失敬失敬。次いきまーす」
今度はミットへ届くように、大げさな動作で送り出す。
ピッチングマシンの最低設定並みにへろへろの球が、ゆわんゆわんと飛んでいく。
気持ちいいほどの打球音が響き、白球は世界の彼方へ消えていった。
「……………………」
その後もへろへろの球を投げ続ける。
バカスカと打たれ、そのたびに怒りと軽蔑がグラウンド全体を満たしていく。
勝負を認めた片桐監督も困ったように冷や汗をかいていた。
――これでいい。今はこれで正解。
エースたるもの、失投しようが、炎上しようが、心を砕かれてはならない。試合は流れとリズムであり、勝負は心の持ちようだ。最後の砦が勝手に折れてはならないのだ。
打たれるたび、ブーイングに向けて涼しい顔で会釈する。
困惑しながら見守っているユエちゃんにも、伝わっているといいけれど。
『お前ッ、ふざけんなよッ!』
打者のリストが三巡すると、とうとう相手の選手がキレた。
『下したチームへ乗り込んできて! そんなピッチで大口叩いて! どれだけアタシたちをバカにすれば気が済むんだ! アタシたちが、先輩たちが、これまでずっとどんな思いで――!』
「わかってるよ」
周辺で増幅していく敵意と憎しみに怜悧な肯定で応じる。
「あなたたちよりも、ずーっとわかってる」
『んだとテメェ!?』
「思い出づくりは十分かな。じゃー片桐監督」
こちらを向いた片桐さんに裏返したVサインを送る。
ガールズ時代のいつものやつ。
「そろそろ本気、出しちゃいますね?」
私は地面に置いた袋へグローブをしまうと……。
左投げ用の愛用グローブを装着した。
『!?』
「左投げ!?」
練習試合。公式戦。ガールズ時代のいかなる記録にも私の左投げは存在しない。
そりゃそうよ。ローテーションが狂った場合を想定した秘密兵器だもの。
密かに練習は続けていて、右手がダメになってからは死に物狂いで特訓に打ち込んだ。
ルイちゃんモエちゃんにすら内緒の、今日まで誰にも見せたことがないスタイル。
サキちゃんの困惑が伝わってくる。
どんなサインを出せばいいのか悩ましいのだろう。
私は手ぶりで彼女を制すると、左手に白球を握り、まっすぐ正面に突きつけた。
こんな二軍ふぜい、ストレートだけで結構よ。
『ナメやがって……!』
おお、怖い怖い。
本気の殺意がこもった睥睨を受け流し、合図と共に投球姿勢へ移行する。
瞬間。私の指から離れた球が、サキちゃんのミットへ着弾した。
その高くてソリッドな捕球音は、妙に生々しく響き。
グラウンドは、みたび音声を失った。
『…………………………………………』
ふふん。どうよ、スゴかろう。私の投げる豪速球は。
審判役の子に首を傾げると、彼女は一拍遅れて宣言する。
「ストライーーーッ」
沈みかけの夕日とは対照的に、私の心に熱が戻ってきた。
ミットの捕球音が響く。響く。響く。鳴り響き続ける。
へろへろに慣らされた打者たちは私の速球を攻めあぐねている。
まー、残酷なことを言っちゃうと。
こんなのも打ち崩せないから二軍なんだなって。
「ストライッ、バッターアウッ!」
流れのリズムと緩急は、自身の工夫で作り出せる。
サキちゃん相手には釈迦に説法かもしれないけどね。
自分でやるのと横から見るのじゃ、得られる理解が違ってくる。
私は返球を受ける痛みに内心で顔をしかめつつ、ユエちゃんに大きく手を振った。
あまさずちゃんと見ておいてよね。
たぶん、一度しかできないから。
……って、唖然としていて心ここにあらずじゃん!
「はあ。しょーがない。根性見せますか」
もっともっと長く投げ込もう。あの子が気づいてくれるまで、何球でも。
きっと、お医者さんにしこたま怒られるんだろうなー。
それでも構わない。
私は、今日という日を迎えるために高校時代のすべてを賭けてきた。
怪我をしようが、するまいが。
どのみち、すべてを出して燃やし尽くすつもりだった。
今日、ここで、悔いを残せば、永遠の傷と呪いに苦しめられ続ける。
たらればの物語に。ありえたかもしれない可能性に。白雪みぞれの幻影に。
だから戦う。立ち向かう。結果がどうあれ。代償に何を失ったとしても。
それが後輩ちゃんの糧になるなら、なおさら一石二鳥ってもんでしょうが!
「どうです片桐監督。そろそろ一軍を連れてきません?」
痛みを隠して余裕の笑みさえ浮かべてみせる。
片桐さんは呆れたようにメガネの位置を直した。
「勝者には勝者の振る舞いがある。終わった話を蒸し返すんじゃない」
「終わった話じゃないですよ」
私は精度の高い返球に目を細めつつ言った。
「まだ終わりじゃない。私の夏は。私と白雪みぞれの夏は――」
振りかぶって、投げる。
ストライクスリー、バッターアウト。
「何も。何ひとつ終わってなんかいません」
当たり前だ。始まってすらないのだから。
1年のときは私がスタメンじゃなかった。
2年のときは怪我してチームも崩壊した。
みぞれと戦うために南腰越に入ったのに。
高校時代を通して、まだ1打席もやってない。
これで終わりだなんて、納得できるか!
諦められるような目標だったら、12歳の終わりで諦めてる。
叫ぶ必要はない。わめく必要もない。
今さら大げさな芝居なんていらない。
小学校の4年生から延べ9年。9年分の想いを込めて、粛々と、堂々と口にする。
「最後の大会は終わっても、私たちの決着はまだついてない。私は南腰越のエースとして、神奈川最強の投手として、恵風館の主将に勝負を挑みます」
言葉は静かに世界へと染み込んでいった。
誰も、何も言わない。西日の残光だけがスポットライトみたいに私を照らしている。
片桐監督は、気まずそうな、申し訳なさそうな顔になった。
「それはできない」
「逃げるんですか?」
「白雪はもう帰った」
「えっ」
は? え? なに? か、帰った……?
「外せない用事があるとかで、もうずいぶん前にダッシュで帰った。部内にも、積もる話は明日でお願いしますーってな。どうもスマホの電源も切ってるみたいで、そっとしといてやろうって話になったんだが……」
はああああああああ!?
なにやってんのアイツ!?
「え、うそ、どゆこと? 私との勝負は? そんなのどうでもいいって?」
「待て待て、早とちりするな」
「もしかして私、忘れ去られてる……?」
へなへなと膝から力が抜けていく。
そんな、まさか……。
白雪みぞれの世界において、私はただのモブキャラなの?
あ、ダメだ。1年生バッテリーが見てるのに。
しっかりしないと。でも、うう……。
「そんなことないさ」
「ひゃうっ」
急にほっぺたが冷たくなる。
振り返れば、見覚えのある顔が私にペットボトルを押し付けていた。
王子様風味のこの女。ガールズの試合で何度か戦った覚えがある。
名前はたしか、えーっと。
「末松……」
「植松ね」
そうそう、植松リコだ。下の漢字は忘れた。
県内勢で、小学生時代の県大から何度も勝負してきた相手。
恵風館のAチーム……一軍として、2年の頃からスタメンの常連だ。
もちろん今日の試合にも出場していた。
「驚いたよ。まさか君が投手として復活してるなんて」
「あー、うん、そうね。それぐらい余裕よ、私だし」
「相変わらずだねえ。それで梅景、みぞれのことなんだけど」
「そう! 白雪みぞれ!」
思わず植松の肩をがしっと掴む。
「あいつマジなんなの!? 死ぬの!? 私の9年間はなんだったの!?」
「そ、その辺も相変わらずだねえ」
植松はグラウンドに視線を走らせ、ユエちゃんの姿を見つけるとダメージを受けたようにつんのめった。ああそっか、コイツ、ワンナウト満塁、一打同点のチャンスで討ち取られたうえにゲッツーやらかしたんだった。
「ね、君はみぞれのことを信じられる?」
「今まさに信用が暴落中よ」
「まあまあ、そう言わず」
落としたボールの砂を払って渡してくる。
「もしも梅景が彼女のことを信じられるなら――私と勝負しないかい?」
「ハア? なんでそーなんの」
「せっかくここまで来たのになーんもなしじゃつまらないだろ? それに……」
植松は私の背後へとあごをしゃくる。
「みぞれだけが目的じゃないんだろう?」
おのれ、隙あらばワンチャン代走女め。
相も変わらず、投手の嫌がるポイントを見抜くのが得意らしい。
◇
休憩を挟んでから勝負の準備をする。
もはや私を侮る空気は消え失せている……敵からも、味方からも。
「しぐちゃんせんぱい、意外とスゴい人だったんですね」
「こらこらー。今までなんだと思ってたのよ」
「みんなの淡いアコガレを奪いまくるえっちなお姉さんかと……」
私はグローブを受け取ると、あえて挑発的に言った。
「それは世を忍ぶ仮の姿。真の私は南腰越のエース投手よ」
お、微妙にムッとしたな?
「エースってのは実力だけの話じゃない。お姉さんの背中をよーく見たまえよ」
靴で足元の地面をならすと、ちょうど植松がバッターボックスに入った。
制限なしの10本勝負。片桐監督の合図でいざスタート。
白球をど真ん中へと放り込む。
「ストライッ」
「ふむ」
植松は特に反応するでもなく構えなおした。
2球目。内角高めにストレート。これも体をそらして見送ってくる。
何のつもりか知らないけれど、植松なんてお呼びじゃない。
とっとと片づけてあげようじゃない!
振りかぶった腕を全力で振り下ろす。
その瞬間、植松の目がクワッと開き、総身にぞくりと震えが走った。
「はいッ!」
気合一発。打球がはるか彼方のフェンスへと直撃する。
「ホ、ホームラン!」
恵風館の後輩部員たちが一斉に拍手する。
やあやあ、どうも、と声援に答えつつ、植松はこちらへ向けて肩をすくめてきた。
「逆の意味で驚いたな。そんなものなのかい?」
苛立ちの感情が心の奥底で封を破ろうとする。
その一方で、別の蓋から湧いて出てきた古い記憶と感覚もあって。
私の投手としての経験が、ひたすら腹の底をなだめすかして冷静になれと訴える。
「神奈川最強が聞いて呆れる」
私は挑発されている。
その意図がなんであれ、相手がペースに引き込もうとしている。
作戦に乗ってはならない。乗ってはならないと意識しすぎてもならない。
『ピッチャービビってるー!』
『打てるよー! リコさーん!』
『勝ってる勝ってるー!』
余計な情報に惑わされるな。外の音より内側の鼓動。
自分の流れ、自分のやり方、自分のピッチングを続けるのみ。
マウンドの上は私の舞台なんだから。
私は投球を続ける。
今度も2回見逃され、3球目をパカンと長打で持っていかれた。
「やっぱりこんなものか。悪いけど、そんな球では私たちには通用しないよ」
植松が何かを語っている。どうでもいい。けれど一理ある。
この3年。流れた時間は同じでも、積み重ねたものはまったく違う。
中学全国のピッチングでは、高校野球の強豪レギュラーには通用しない。
今の植松に三振を恐れる見栄っ張りの面影はどこにもない。
自信がついた。自信がつくだけの裏打ちを積み重ねてきた。
こう言いたいのだろう。その程度で白雪みぞれに挑むなど失礼だ、と。
またもや本塁打が決まった。
「努力したのね」
うっすらと笑みを浮かべる。
でも残念。私はあなたに敗れない。勝ちのメンタルを持っている。
差を埋めただけじゃ追いつけないほど、本能レベルで体が覚えてる。
それに何より。
今現在のみぞれに勝った後輩へ、エースの何たるかを教えないといけない。
「プレイ!」
私は初めてサキちゃんのサインへ首を振ると――。
植松が最も苦手としていたコースにカットボールを叩き込んだ。
「ッ!?」
「ス、ストラック・スリー! バッターアウッ!」
余裕ぶっこいて2球も見逃してたせいで3ストライクになる。
私は植松へ、拾った帽子をひらひらと振った。
「別に、ノーカンでもいいけど?」
「…………」
彼女はサキちゃんのミットを見つめたままフリーズしている。
と、思ったら、ぶつぶつ何かをつぶやいて。
「弱点、覚えていたんだね。君にとっての私なんて、ただのモブなのかと」
クスクス笑うとバットを構えなおした。
「問題ない。ちょうどいいハンデさ」
「ふん。後悔するわよ不審者王子」
10本勝負は一進一退が続いた。
投げて、打たれて、討ち取って。
正直なところ楽しい。認めるのはシャクだけど、通用するのも、しないのも楽しい。
正直なところ痛い。左投げでも負担はあって、右手はジンジン疼いている。
その痛みを忘れるくらい、1球ごとの勝負に集中している。
6対3。すでに結果は出てしまっている。
お互いにもうおしまいとは言いださない。
数字なんて、たまたまの付属物にすぎないと分かっているから。
衰えた私と、鍛えた植松。実力はムカつくほどに伯仲していた。
投球は萎えるどころか、どんどん研ぎ澄まされていく。
こんなんじゃ全然ダメだから。
超えてかないと、進化しないと、白雪みぞれの前にすら立てない。
いいや違う。
悔しいけれど、今、私の視界に映っているのはみぞれではなく植松だ。
コイツに勝ちたい――だから私は1球ごとに成長し続ける。
どれだけ打たれても気にしない。
いつの間にか、第一グラウンドの周りには人だかりができていた。
ギャラリーの中には恵風館Aチームのレギュラーたちも混じっている。
その一部分は顔見知り。いや、何度も勝負してきた相手。
なんだか今日はよく見える。彼女たちの顔も、仕草も、雰囲気も。
……勝負したい。できることなら全員と。でもまずはコイツを倒す!
私は汗をぬぐってから、植松に声をかけた。
「ねー植松」
「なにかな?」
「スペシャルチャンス方式にしない?」
「……なんだいそれは」
「この打席で勝負に勝ったほうが100万点をゲットするの」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔。
「おやおや、急にセコいのがきたね。どういう風の吹き回し?」
「んー、なんつーのかなー……」
私はゆっくり帽子を被り、植松の目をじっと見つめた。
「医者には止められてんのよね。絶対に投げちゃダメだって。左手まで壊れたら取り返しがつかないからって。粘りに粘って、一度だけ、本気の勝負はたった一度だけにしろって言われた。だから今んとこセーブしてて……ぶっちゃけ、まだ全力じゃないわけよ。余力は白雪みぞれに取っておきたくて」
「だろうね。君はこんなもんじゃない」
妙に感情のこもった肯定が返ってくる。
私は白球を宙へ放り上げると、素手でキャッチして握りこんだ。
「私、今のアンタと本気で勝負してみたい」
だって、エースは相手を選ばない。
強い敵には全力をぶつける生き物なんだから。
植松は虚を突かれたように息をのんだ。
それから一筋の汗を垂らし、獰猛に笑ってバットを突きつけてくる。
「いいよ。お互い、手抜きはなしで」
交渉成立。オーディエンスからどよめきが上がる。
深呼吸して紫に染まった空を見上げ、私は自問自答した。
どうだろうなー。勝てるかなー?
……勝てるだろうなー。
やっぱり勝つんだろうな。
そんな気がする。私にはわかる。なんとなく結果は見えている。
白雪みぞれが初めて本塁打を放ってきた相手なら。
植松リコは、継投登板で初めて三振を奪った相手なんだから。
この勝負には絶対に勝つ。なのに、こんなにもワクワクしている。
投げてみないとわからない……そんな未知なる可能性がある気がして。
矛盾した感情が織りなす、野球そのものの原始的な楽しさへ感謝するように。
過去の自分を踏み台にして天高く飛翔するように。
私は今できる最強のピッチングをした。
豪速球がヘッドの下を掠めてミットへと届く。
「ストライクスリー、バッターアウトォッ!」
「よっしゃあー!」
わかっていたのに嬉しくて。
弾けるようなガッツポーズをしてしまう。
ああ、しまった、と植松を見れば、彼女は泣きながら笑っていた。
「あ~あ。負けた負けた。やっぱり梅景時雨は強いなあ」
「なに泣いてんの。実質的にはアンタの勝ちじゃない」
「最強の君に勝ちたかったんだよ。それ以外はどうでもいい。でも、どこか安心してる気もする。……もう一度会えてよかった。私の3年はこの再会に捧げるよ」
「キザなやつ」
「それが私の取り柄だから」
女の子座りする王子を立たせ、左手で堅い握手を交わす。
グラウンド中に万雷の拍手が生まれた。
「若いっていいですねえ」
なーんて、片桐さんとコーチの人もしみじみ言い合っていて。
そんなエモーショナルなシーンをぶち壊すかのように。
「う、う、浮気ものーーー!」
鈴の鳴るような澄んだ美声が轟いた。
◇
夕闇の涼しい風にそよ吹かれ、青紫の世界に浮かび上がるのは白亜の少女。
白いブラウス、紺のスカート。長い白髪がたなびく姿は季節外れの新雪かのようで。
きっと全速力で走ってきたのだろう。前髪の一部をおでこに張りつけ、これでもか、と全身全霊で女子高生をやっている絶世の美少女は、肩で息をしながら姿勢を正した。
――白雪みぞれが立っている。
その事実を認識しただけで、私は心臓が爆発するように強く脈打つのを感じた。
恐るべきOPS。飛びぬけたプロポーション。
北陸生まれの最強打者。ついたあだ名は『加賀の戦艦』。
小中時代、ガールズ石川代表に夏の全国大会6連覇の栄冠をもたらした不動の4番。
白雪みぞれがいる。
私にシニアではなくガールズを選ばせた女。
私から初の被本塁打をかっさらっていった女。
私ほどのミラクルエースを相手にただの一度も三振で終わったことのない女。
中学ガールズ以降、敬遠への抗議以外でただの一度も三振を晒したことのない女。
白雪みぞれが、そこにいる。
明らかにこの世界の主人公をやっている彼女の姿。その名画のような、圧倒的に存在感のある立ち振る舞い、所作のひとつひとつを眺めるにつけ、私の心に浮かぶ感情は。
感動の再会だとか。積年のカタキだとか。そういうのじゃなくて。
どうしてお前みたいなやつが神奈川県に?という疑問である。
普通に地元石川か東京大阪でよかったじゃん?
甲子園に出るのだったら他県の強豪でもいいじゃん?
無駄に競争が激しくて、そもそも出場チーム数自体が多くて、歴戦の強豪や昨年の優勝校ですら一敗して屍を晒すこの地獄に、なんでわざわざやってくるのか。あ、でも前の2年はコイツが恵風館を甲子園に連れてったんだった。
さすがは世代の主人公にして絶対的なヒロイン。
さすみぞ~~~。
なーんてあれこれ考えていると。
白雪みぞれは、私をじーっと見つめたままに、片目の端から雫をこぼした。
「白雪、みぞれ?」
「なんで」
「え?」
「なんで私を待っててくれなかったの~~~!?」
世代最強のスラッガー。恵風館高校の偉大なる主将は。
両手で顔を覆い隠すと、おいおいとガチ号泣を始めた。衆人環視の前で。
「対戦相手のメンバー表を見たとき、心臓が止まるかと思ったよ。あの梅景時雨ちゃんが、背番号を背負ってベンチ入りしてる!って。投げられるんだ、ようやく選手として復帰したんだ。野球を続けててよかったーって……!」
「あ、あのー?」
「なのに登板しないし、こっちを見ないし、手ぇ振っても全然気づいてくれないし」
「もしもーし?」
「ようやく目が合ったときには嬉しくて泣いちゃったよぉ」
「あの泣き顔ってそういう意味だったんだ!?」
「挙句の果てには違う投手が試合を畳んじゃうし。南腰越まで行ってもいないし!」
「はっ、えっ!? 南腰越まで来てたの!?」
つまりは入れ違いだった、ってコト!?
白雪みぞれは階段わきの芝生を駆け下り……ようとして、ずべしと転げ落ちる。
よろよろと立ち上がると、顔も制服も草まみれのまま叫んだ。
「ずっとずっと会いたかった! 一番最初に戦りたかった! なのに、なのに……」
「…………」
「どうして私より先に別の人と戦っちゃってるのーーー!?」
ぼろぼろと涙を流し、びええと大口を開けて泣く白雪みぞれ。
下級生らしき部員たちが寄ってきてヨダレと鼻水を拭いている。
だ、誰だコイツは……? 影武者? クローン?
私に易々と長打を浴びせ。プライドを粉々にへし折ってきて。
そのくせニコニコふんふんと気にも留めない、あの天衣無縫な戦艦娘はいずこへ?
おい、植松。どういうことなんだ。説明をしろ、説明を。
「フッ、どうやら私の役目はここまでらしい。それじゃ梅景、またあとで」
「オイィィ! 逃げるなァァァ! カッコつけながらそそくさと逃げるなァァァ!」
「せんぱい、キャラ崩壊がエグいです……」
あんにゃろう。この空気のど真ん中に私を置き去りか!?
追っかけて文句を言ってやろうとすると。
「やだあああ! 行っちゃやだあああ! 待って、待ってよーーー」
白亜の戦艦が追っかけてきて、私の腰をホールドしてきた。
なんだこれは!?
ラグビー? ラグビーなのか?
やってるスポーツ間違ってない!?
先ほどまでのしめやかな感傷はどこへやら。
白雪みぞれが登場すると、何から何まで彼女を中心に世界が回り出すのだった。
白雪みぞれは日本女子野球界の主砲にして至宝。
世間では、すでにそのような認識が定着している。
恵風館高校は東京から近く、セキュリティに融通が利き、各種の施設条件が完璧。それもあって、よくプロチームや日本女子代表の強化合宿、集中トレーニングに使われている。当然、野球部が練習を手伝ったり、紅白戦の相手になることも多い。
そして、紅白戦のたびに逸話を生んで新聞やネットを騒がせるのがこの女だ。
遠慮会釈なく打ちまくり、とうとうプロの投手が全敬遠したとか。
敬遠禁止にしたら全打席で本塁打を飛ばしてコールドゲームにしたとか。
オリンピック前に日本代表の監督がチーム入りを打診した話はあまりにも有名だ。
そんなビッグでフェーマスな話題の女だが。
さっきから、私にくっついて離れる気配がない。
「白雪みぞれ、暑苦しいから離れて」
「やだ」
「じゃあ打席に入って勝負してよ」
「やだ」
「もー。だったら何がしたいのよ」
心なしか密着具合が上がる。
「あのねえ、私はアンタを倒しにきたの」
「なのに別の人と勝負したんだねー」
「はあ。ったく、友達でもなんでもないんだからベタベタしないで」
「やだやだやだ! 梅景ちゃん分を補給するのー!」
うへえ。
周囲から先ほどまでとは質の違う圧力が増している。
ここにきて初めて身の危険を覚え始めてる私です。
そんな気苦労を知ってか知らずか、上機嫌に覗き込んでくる白雪みぞれ。
「えへへーっ、梅景ちゃんだあ……!」
あーーーああああああああーーーなんだこいつキスしてえ。
つーか右手が冗談抜きで痛いんだけどー。
ガシガシ頭をかいていると、1年生バッテリーがひそひそ話していた。
「あの白雪さんと対等に話してる。しぐちゃん先輩、マジメにゴイスーな人なんだ」
「ユエちゃん、ほんとに知らなかったの?」
「なにをかね?」
「梅景先輩は中学ガールズ全国夏大の準優勝投手だよ?」
ユエちゃんは笑顔のまま固まる。木魚の音が聞こえそう。
「えっ。準優勝……って、決勝進出……。ガチ?」
「ガチ。2年のときに準優勝。3年は4強」
「えっ、えっ、えっ」
『えええええ~~~ッ!?』
ユエちゃんのみならず、最初に睨みを利かせてきた恵風館の若いのたちも驚いている。まー、高校時代は公式戦登板ゼロだからねー……と思いつつも、ビミョーにジェネレーションギャップで打ちのめされる私。
「ん? 待てよ? 準優勝ってことは、決勝は」
ふたりの視線が私へ甘える白雪みぞれへ注がれる。
「うん。決勝戦は白雪さんが本塁打を決めて勝利した」
ごふっ。心の中で吐血する私。
「ん-でも。なんで敬遠しなかったんだろ」
「……サインを無視して勝手に勝負したやつがいてな」
片桐監督の補足によって、私の心に幻影の矢がぐさぐさ生える。
『よりにもよって? 全国決勝で?』
『この人、マジかあ……』
『でも、そのおかげで実質クビになった監督がうちに来たんだよね?』
どうか幻聴であってほしい言葉が耳から脳みそへと送られてくる。
「そこが梅景ちゃんのいいところなんだよっ!」
白雪みぞれが立ち上がり、拳をぐっと握りながら叫んだ。
「梅景ちゃんは私から逃げない。いつだって、等身大の私と戦ってくれるの!」
くそう。まさかコイツに援護される日がこようとは。屈辱!
「私、梅景ちゃんの投げる球、好きだよ? 誰よりも好き」
「そりゃあ、あんだけボコボコに打ち込んでたらねえ」
「そ、そういうんじゃなくって!」
白雪みぞれは立ったまま見下ろしてきた。
「私ね。あなたと一緒のチームになりたかった。一緒に野球がしたかった。一緒に練習して。一緒に勝って。たまに練習でガチ勝負して。一緒のチームでやってれば、もっとずっと、私たちの時間が増えると思ったから! ……だから恵風館にきた。神奈川にきた。片桐監督のところに来るだろうなって思ったから」
死ぬほどつまらない話を、必死になって訴えてくる。
ああ、なんてつまらない話。
聞き流すのすら苦痛な話。
「舞い上がって、ひとりぼっちでクラス発表を眺めてた私の気持ち、わかる?」
「さあね」
「ねえ、教えてよ。梅景時雨ちゃん。どうして恵風館にこなかったの?」
私は鼻でため息をつく。
「アンタの打撃がムカつくからよ」
「――ッ!」
彼女はひどく傷ついたような表情をした。
「ムカつくから、絶対にねじ伏せてやろうと思った。ねじ伏せるにはまず出場機会が必要でしょ? どーせ全国で上がってくるんだから、まずはスタメンになることが最重要……そう考えてたわ。だったら恵風館は除外でしょ。選手の層が厚すぎる。特に、投手陣は全国トップレベルだし」
が、傷ついていたのは一瞬だけのこと。
私は、なぜだか徐々に笑顔を浮かべる白雪みぞれへ畳みかける。
「それに、私たちの関係ってそーいうのじゃないでしょうが」
「私はそーいうのがよかったの。私が打って、梅景ちゃんが抑える。ふたりが組めば最強無敵。県大だけじゃなくて全国だって三連覇できたはず。もしかしたなら世界だって!」
「それの何が面白いのよ?」
白亜の美少女はいよいよ満面の笑みになる。
「あんた以外の誰かに勝って何の意味があるの? 白雪みぞれ以外の打者なんてどうでもいい。そして私とあんたの勝負は、絶対に、すべてを賭けた、敵同士でなきゃいけないの。はじめっからそう決まってんのよ……小学生の時、あの本塁打を打たれた瞬間からね」
小学生時代を思い出す。
ガールズでの試合が世界のすべてだった日々を。
我こそ最強無敵なり。唯我独尊、完璧なり。
そんな万能感をピンポイントで打ち砕かれた、あの衝撃と喪失感。
それはきっと、最悪の絶望であり――。
同時に、最高にアガる幸福でもあった。
まさか自分を倒せる相手がいるなんて。この私と戦える相手がいるなんて!
うぬぼれた己を軽々と超えていく力量に、痺れ、憧れ、特別な存在になった。
人生の何よりも優先するべき目標ができたのだ。
だから私は、戦いたい。白雪みぞれと勝負がしたい。
勝っても、負けても、どうなっても。この天才打者を殺したい。
「私の球は白雪みぞれを倒すためのもの。あの頃はそう思ってただけ」
すべてを言葉にはしない。けれど伝わった実感はある。
瞳を閉じたまま何かに浸っていた白雪みぞれは、ふーっと長大息してうなずいた。
「よし。戦ろう」
「いいの?」
「いいよ。私の抱えていたモヤモヤは晴れたから。さっきも言ったけどさ」
彼女は宝石のような瞳をまっすぐにつぶけてくる。
「私、梅景ちゃんが好き。梅景ちゃんの投球が大好き。だから、あなたを殺すね!」
◇
ナイター照明がグラウンドをまぶしく照らす。
その強すぎる光すら従えて、伝説が、白雪みぞれが悠々と素振りをしている。
初対戦のときと何も変わらない。
見る人すべてが恋するような伸び伸びとした素振り。
私もマウンドに戻り、投球練習を始めた。
ふと腕を止め、横目で愛しの怪物ちゃんを見る。
今さらになって複雑な疑問が湧いてくるものだ。
――右手がダメになったとき、なぜ簡単に選手を諦められたのか?
蓋をし続けてきた憂愁への答えは、実のところすでに知っている。
心のどこかではわかっていたのだ。
――私なんかじゃ、逆立ちしても白雪みぞれに敵わない。
理性は常に理解していた。
みぞれは世代にひとりの特別な天才だ。
打者としてなら時代にひとりかもしれない。
才覚、センス、力量……本能的に備わっている感覚の何もかもが他と隔絶している。
全国で優勝しました、とかそういうレベルではない。
スポーツの歴史に名を刻むような大物。
全国で上位と張り合うのが関の山の私では、よくいる『量産型の天才』では、天才と一般人の境目でゲートキーパーをしている程度の私では、敵に恵まれてようやっと運よく決勝や準決に進める私では。
残念ながら異次元には通用しない。
事実、通用した試しがない。
外から見れば充分にスゴかろうと無意味。
逸材というレートの中にも上下の違いは確実に存在する。
私なんかじゃ白雪みぞれの敵ではない……それを認めるのが怖くて、悔しくて、ひたすら目をそらしながら立ち向かおうとしてきた。
そんなくだらない意地の迷走も。
ユエちゃんという、それ以前と以後を分けるであろう怪物の出現によって終わった。
私を縛っていた呪いがとうとう終わりを告げたのだ。
白雪みぞれは無敗の絶対者ではない。私以外の誰かに負けた。
私から奪われた〝完璧〟は、他の誰かが奪い返してくれた。
であれば、奪われる側に回ったみぞれが勝負したい投手とは。
――白雪みぞれが望むライバルは梅景時雨ではないのでは?
「あのさ。一応、聞いとく……」
「ん-? なになにー?」
「アンタを倒した投手とリベンジマッチできるけど、する?」
「どーでもいいよ、そんなの」
白雪みぞれは即答する。
己を討ち取り、最後の夏を終わらせた女に一瞥もくれなかった。
「悔しくないの? 最後の夏を持っていかれて」
「――梅景ちゃんと戦れない時間ほど歯がゆくない。それが初めて負けてみての感想」
鋭い素振りから暴風が発される錯覚。
風の刃に貫かれた私の心がにわかに熱を帯び始める。
「改めてわかったこともあるんだ」
「なによ」
「打ちたいエースはひとりだけ」
ばごんッ!と心臓が強く跳ねた。
「日本全国、色んな人を見てきたけど……私をその気にさせたのはあなただけ」
「……………………へえ」
私が白雪みぞれにこだわっているのは本人にも言い続けてきた。
逆の言葉を耳にするのは、この9年で初めてだ。
思わず口角が上がってくる。
ならば私の答えはひとつ。
――選手を諦めることはできたとしても。
――〝みぞれの敵〟を諦めることだけはできない!
たとえ手のひらが砕けても。この先ずっと後悔しても。
今日、ここで、私たちの夏、私たちの物語にひとつの決着をつける……!
「始めよ? 私たちの高校野球!」
白雪みぞれはバッターボックスに入ると、予告ホームランの構えをした。
振りかぶって1球目。打たれる。白球は闇の彼方へ溶けて消える。
2球目。打たれる。3球目。打たれる。本塁打。本塁打。本塁打……。
バッセンの機械みたいに打たれまくる。
後ろを向いて立ち尽くす。
うん。やっぱスゲーわ、白雪みぞれ。
もともとイカれた強さだけど、中学時代とは対応力が段違い。
何をやっても勝てる気がしない。そんなの。そんなの……。
――そんなの最高じゃない!
振り向くと、何の感情も宿さない無機質な目が待っていた。
私は歯をむき出しにしてイキがる。
「ふーん? アップは上々みたいね」
白雪みぞれは口をぽかんとさせて固まり、
「……………………ふへっ♡」
それから私と同じ表情になる。
「そうこなくっちゃ!」
続けざまに投げる。打たれても、打たれても、打たれても投げる。
三振どころか、ストライクひとつ奪える気がしない。
だからなんだ! 万感の思いを込めて、今できる全力をぶつけていく。
左手をいじめる熱がどんどん存在感を増してきた。
やっぱり疲労の蓄積を制御できるほどじゃないか。
しょせんはオプションのサウスポー。本職ほどの力はない。
完成するにはまだまだ早く、選手としてはもう遅い。
そんな中途半端なものを引っ張り出した理由は単純で。
未来のためでも、損得を考えたわけでもなく。
ただこの瞬間を夢見て。
みぞれともっかい勝負する……!
そのためだけに高校時代のプライベートを注いできた。
バカだよね、ほんと。
……女子野球界の未来は暗い。
この道で食べていける人なんて一握り。
興業として生活費をしっかりペイできる業界ではない。
しょせんは一過性のお遊びだと口さがない人は言う。
いやはやまったくその通り。偉大な選手も、尊敬できる先輩も。プロ入りした稀有な才能のとても多くが志半ばで引退や転職を選んでいった。
極めたところでたかが知れてる。
のめりこんだところで広がりはない。
本気の野球は高校で終わり。大学野球は趣味の領域。
どうしようもないバカだけが、プロ入りにチャレンジする。
全国の野球女子数十万人のうち、生き残るのは100人にも満たない。
そのうえ私はチャレンジすらできない体。
バットを振れない。野手もできない。そんなポンコツに需要なし。
どうせ何の役にも立たないんだから。
普通のJKみたいに、めいっぱい青春したりキラキラしてればよかったのに。
でも、それでも、どうしても、諦めきれない夢があった……!
打席の白雪みぞれを眺める。
屈託のない笑顔を通して、私の心は9年前の幻影を浴びる。
あまりにも強かった石川代表チーム。悲しいほどにボコられて6年生たちは戦意を喪失。このままならコールド負けは確実、という状況で片桐監督は私を登板させた。5年生が勝負できるメンタルでなかったのもあるし、私以外が手を挙げなかったのもある。上級生じゃ手も足もでない状況でも、私はなぜか「自分なら勝てる」と無根拠に信じていた。
打席に入るのは真っ白な女の子。
うだる夏にあって季節外れの新雪を思わせる、明らかにオーラのある子。
……今にして思えば、一目惚れだったかもしれない。
こいつを倒せば一躍ヒーローだ!なーんて思いながら投げた直球は、快音を残し、こちらの頭上をはるか高く飛び越えて。死ぬほどダサい被本塁打を経験した私は、泣くでも心折れるでもなく、ただ地団太を踏みながらゆっくり走る敵の4番を睨んでいた。
次、次こそ。次こそは。
意地になって挑み、すべての打席で見事に打たれた。
『覚えてろ! いつか絶対にお前を倒してやる!』
『え~? ムリじゃないかなー』
最後まで余裕しゃくしゃくの雪ん子に復讐を誓い、投げて、勝って、勝ちまくって……肝心のところで負けて。結局は白雪みぞれという壁にぶつかり砕け散った。割れた心の破片を拾い集め、鍛え、考え、これならいける!と思っては潰される。
そのたびに心が引き裂かれるような、熱くて狂おしい奇妙な感覚を生んで。
こいつのすべてを私のものにしてやりたい衝動に駆られてどうにもならない。
攻略して、征服して、何もかも奪って。プライドごと全部……。
いつしか、白雪みぞれは私へ笑いかけてくるようになった。
それは常に浮かべているヘラヘラ顔とは違う。
やれるもんならやってみろ、という挑発の顔。
『ナメやがって……! いつか絶対、絶ッ対に勝つ――!』
認めたくないけれど、私は白雪みぞれという才能に憧れていたのだろう。届かないならせめて真横に。ライバルになりたかった。この感情につけるべき名前を知らなかった。
ガキン、と変な音がする。
「ッ!」
『……!?』
ありえないことが起こっている。
球が、真上に、いや、やや後ろ気味に高く舞い上がったのだ。
え、なにこれ。打ち損じた?
……んなわけない。白雪みぞれが凡打など。
だとすれば、これは。
腸の底が一瞬で煮えくり返る。
あのヤロウ、手加減しやがったなッッッ!?
「オーライっ!」
マスクを投げ捨てて捕球態勢へ入ったサキちゃんへ、私は声の限りに怒鳴った。
「――捕るな……捕るなァァァァアアアアッ!」
驚いたサキちゃんは、びくんと硬直したまま落下する球を見送った。
私は打席を全力で睨む。
みぞれは気の抜けたような、呆然とした様子でこっちを見る。
「なにそれ。ふざけてんの?」
「そんなこと」
「じゃあ、今のは何ッ!? 私を侮辱したいわけッ!?」
「…………?」
なに、首を傾げている……。
「わざと花を持たせようだなんて、そんなの違うじゃないッッッ!」
泣きそうな気持ちに心を支配されそうになる。
私がケガ人だからって。一度も勝ったことがないからって。
この最後の瞬間に、あえて手抜きをするなんて……!
白雪みぞれはまたもや首を傾げた。
「もしかして、気づいてない?」
「なにをよッ!?」
「……………………ん-ん。なんでも」
「笑ってごまかさないで! 私との勝負をはぐらかさないで!」
両目から生暖かい感触がボロボロと流れてくる。
白雪みぞれはなぜかはにかみ、それから困ったように夜空を見上げた。
「やっぱり好きだなー、梅景ちゃん」
「ハア……?」
「あなたとの勝負はいつも怖い」
怖い……?
「いつでもハラハラする。いつだって油断できない。下手したら、もしかしたら、負けるんじゃないかって思わせる恐怖がある」
な、なにを言って……。
「あなたは私を諦めない。私との勝負を諦めない。だから私はあなたが好き」
意味不明なことを言い始めた私の憧れは、ヘルメットを脱いで汗を散らした。
「今日、私は公式戦で初めて負けた。そこの1年ちゃんに討ち取られた。でもさ、あんまり悔しくないよ。ちっとも……といえば嘘になるけど、負け惜しみ抜きで悔しくない。だって100回のうち99回は私が勝つんだもの。たまたまの1回が今日やってきただけ」
白雪みぞれは頭を左右に振る。
白髪を照明ライトが引き立てて、飛び散る汗がキラキラと輝いて。
まるで人型のダイヤモンドみたいに美しい。
「そのたまたまの1回も、梅景ちゃんへの執着に足を引っ張られたせいだし。私は南腰越に負けただけで……甘利ちゃん、だっけ? その1年生に負けたわけじゃないから」
「むっ、負けたくせにそれはズルくないですか?」
「なら試してみる? 梅景ちゃんの手もクールタイムが必要みたいだし」
指摘されて気づく。
左手が、痛みを超えて感覚すら失いかけていることに。
認識した瞬間、右手のほうも耐え難い激痛を訴えてきた。
◇
氷で手を冷やしながら椅子に座る。
なんなのよ、アイツ。
こっちには別の誰かと勝負するなーとか言っといて、自分から誘ってんじゃない。
こちらへひらひら手を振ると、白雪みぞれはマウンドのユエちゃんに向き直った。
「ストライク。ファール。ゴロ。フライ。長打以外はぜーんぶそっちの勝ちでいい。梅景ちゃんが回復するまでの間に1球でもしくったら、記者会見で敗北宣言してあげるよー」
「ずいぶん太っ腹なんですね」
「どうせ負けないもの」
おお。イラっとしたのがパッと見でわかる。
うちの陽気な不思議ちゃんを怒らせるとは、さすがに白雪みぞれね。
「……これでも昼間は遠慮してたんですよ? 重くて大きな3年間を、私みたいな新人が奪ってもいいのかなって。もう気にしなくていいですよね。その余裕、後悔させたげます」
ユエちゃんはセットに入り、初球からフルストットルで投げた。
怖いぐらいの速度なのに、エグいほど際どいコースを通るスライダー。
しかし、響いた音はミットの捕球音ではなかった。
「あっ」
打球が軽々と天まで上がってフェンスの高い部分を揺らす。
あー……。かつての私って横から見たらこうだったのか。
勝手にダメージを受けてしまう。
「はーい。次いってみよー」
白雪みぞれはにこやかに、どうでもよさそうに構えた。
ユエちゃんはキリッと表情を引き締める。
それ以上に、サキちゃんから怒りのオーラが立ち上っている。
決め球のサインにうなずき、ユエちゃんが投球姿勢に入った。
空間ごと切り裂くような、目にもとまらぬ超速球。
「ほー」
……に、見せかけたフォーク。
私たち2、3年生を夢中にさせた異次元の魔球は。
同じく異次元の才能が振るうバットによって、ゴルフボールのように飛ばされた。
「フェンス直撃ぃー。二塁打もーらいっ」
白雪みぞれはバットを肩にかける。
「私の二塁打は打ち損じみたいなもの。そっちの勝ちにする?」
「そんなわけっ」
ユエちゃんからお気楽な雰囲気が消え失せる。
真剣になった彼女はすぐさま次の球を投げ、当然のように打ち返された。
「うそっ、なんでっ、どうして……!」
打たれる、打たれる、打たれる。
「私、たしかに勝ったのに……!」
初めから行く手にバットが置いてあるかのように、吸い寄せられては打ちあがる白球。投げれば投げるほど余裕を失っていくユエちゃんに対して、歯牙にもかけずにあくびしている白雪みぞれ。それは勝利した投手と、敗北して引退する3年生の姿ではなかった。
狩られる獲物と無敵の4番。
あるはずの、あるべきだったいつも通りの光景。
へらへらと笑う白雪みぞれは異様なほどに頼もしく。
一振りごとに、哀れな投手の精神力と意地をズタズタにしてスタンド側へお届けする。
まさに世代最強のスラッガー。疑う余地のない実力差。
恵風館高校の誰もが期待したであろう、偉大なる主将の威厳がそこにあった。
カン、と高いほどが響くたびに、グラウンドを歓声が埋め尽くす。
恵風館の部員たちからほとばしる涙交じりの歓声は、どんどん強く、やかましくなっていく。
なぜ本番でそれをやってくれなかった、という感情もうっすら見え隠れはするが。それ以上に「ウチの大将はこんなにもすごいんだぞ、本当はお前なんかよりもずっと……!」という誇らしさ、証明された正当性への喜びが上回っている。
40球。すべてが長打。ほぼ被本塁打。
歯を食いしばって投げていたユエちゃんの顔は、もはや色と表情が抜け落ちていた。
奇妙なことに、白雪みぞれの全身からも感情が消えていく。
うわべで浮かべる笑顔とは裏腹に、歓声が高まるほどに、どんどん心が醒めている。
私にはわかった。たぶん、私だけにしかわからない。
なんというか、もはや打席にも声援にもうんざりしているように見えた。
「――ねえ」
思わず立ち上がっていた。
白雪みぞれがこっちに気づく。
「どうして何も見てないの?」
敵だけならまだしも、味方まで。
白雪みぞれの芸術品みたいな美顔が意外そうな驚きに染まった。
それから、寂しそうな笑顔に戻る。
「見てもしょうがないじゃない」
ユエちゃんの肩がびくりと震え、サキちゃんは後ろからにっくきカタキを睨む。
「勝つってことは、負ける人がいるってことだよ」
白雪みぞれは、困ったような笑顔のままで、つぶやくように吐き出した。
「私は強い。梅景ちゃんだってそうじゃない。勝って、下して、見せつけて。そのたび、望む望まずに関係なく、ありとあらゆる選手を潰してきた」
犯罪を明らかにされた容疑者のように。
ぞくりと心の闇が震えたのを感じる。
「いちいち気にしてたらキリがない」
恵風館の後輩たちが、敬愛する天才にリスぺクトの視線を送る。
それには一切答えずに、白雪みぞれは私だけをじっと見てきた。
「私ね、試合があんまり好きじゃないんだ」
突然の言葉に、世界の時間が止まった。
「誰もかれもが格下のメンタルで投げてくる。打たれたときに、ああ、やっぱり。まあ、しょうがないよねって諦めた顔をする。負けて当然、ここはスキップだー、みたいな。私、あの表情が大嫌い。そりゃあ、子供のうちはムキになってかかってくる人もいたよ? それも一過性のこと。時間が経って、有名になればなるほど……私の敵になろうとする人は消えていった。勝負すらしなくなった」
「…………」
白雪みぞれは、申告敬遠された数の日本記録を保持している。
「つまらないんだよね」
白雪みぞれはバットを下ろす。
「虚しいよ。初めから負けにきている人たちと戦っても」
「白雪みぞれ……」
「勝ったところでちっとも楽しくない。そりゃあチームで勝つのは嬉しいよ? チームのみんなが喜んでくれれば、私もそれなりに嬉しい。けどそれはさ。楽しいのとは違うじゃん。この3年……ううん、それ以上の間ずっと……私にとっての公式戦って、ただただ苦しいだけの時間だった」
見えない星を数えていた天才は。
じんわり目じりに光を浮かべ、こちらを見た。
「梅景ちゃんとの勝負を除いて」
私の心で音がする。
鍵の開く音。
扉が開き、ゆるゆると風が入り込んでくる音。
「私にとっての野球って、とっても孤独なもので……。皆で同じ道を歩いているように見えても、結局、ひとりひとりが自分の道を進んでいて。途中でたまたま道連れになっただけでさ、そのうち離れ離れになってるみたいな」
つっかえつっかえに、意図のわからぬ、とりとめのない話を始める白雪みぞれ。
「えっと、ええっと。私は便利な道具であって、人柄が慕われてるわけじゃないの。昔から、ずっと……表向きは笑顔で接してくる人たちも、陰ではそういう風に言う」
「でも、チームで勝つのは嬉しいんでしょ?」
「私自身はね。こっちがチームが喜んでくれるならーって思っても、周りからすれば、勝ちあがるために必要な道具にすぎないの。いつしか、どうせ終わりがくるのなら……って、人間関係を逆算で考える冷めた性格になっちゃった。喜びも嬉しさもそれなり止まり」
「みぞれ……」
いつの間にか戻ってきた植松が悲痛な声を落とす。
「寂しいよ。でも期待すると傷つくから……何も考えないように、ただバットを振って、ただ点を取って、ただ敵を粉砕し続けてきた。梅景ちゃんだけなんだよ? 私のこと、スラッガー白雪というお神輿ではなく、みぞれ個人として見ていたのは。遠巻きに論評せずに、面と向かって執着してきたのも、梅景ちゃんだけだった。だから――」
肩の布地で顔をぬぐい、
「私はずっと、梅景ちゃんとの野球がしたかったッ!」
こちらへと吠えてくる。
「私はあなたに会いに来た! なのに今までどこ行ってたの!? 他の投手なんてどうでもいい! 周りの期待なんてどうでもいい! 私はただ、梅景時雨との勝負だけを求めてるッ! 梅影ちゃん、マウンドに入ってよッ!」
白雪みぞれは。私の憧れ、私のライバル、私のきっかけは。
かつての私なら狂喜乱舞しそうなセリフと共に、こちらへ予告ホームランをしてきた。
あー……なーるほどねえ。
でも悪いけど、私の頭はどんどん冷静になってきた。
コイツはアレだ。昔の私そのものだ。
ついでに言えば、今のユエちゃんとも同じだ。
自分、自分、自分。どこまでいっても100%、自分のことだけで。
相手チームのことも、味方チームのことも、まったく眼中にありませんって感じ。
……微妙に我を忘れてた私が言うのもブーメランだけどさ。
違うよね。そうじゃないんだよ。
私たちがやっているのは野球であって、周りの力が必要不可欠なんだよ。
味方がいなけりゃ試合もできない。敵がいなけりゃ勝負もできない。
大勢の人が託した想いと時間と願いを背負い、全身全霊を以てすべてに報いる。
――それが野球ってもんじゃない!
心のどこかが冷えると同時に、別のどこかが暖かくなる。
私にはいた。ルイちゃんとモエちゃんが。
本当の意味で私を求め、私と一緒にプレーするためにすべてをなげうつ仲間がいた。
ああ、わかった。白雪みぞれ。
アンタは私と戦いたいんじゃない。
誰かに助けてほしいだけなのよ。
執着してくれるなら別に私でなくともよかった。……きっつー。
でも、そうね。私には私の野球がある。
「どっこい、せ」
氷を取っ払って椅子から立つ。白雪みぞれの表情がパアッと輝いた。
それを無視して、崩れ落ちているユエちゃんのわきにしゃがむ。
「ユエちゃん。立てる?」
「――――」
無反応の後輩。顔を挟んでパンッと叩く。
「いだい……」
「こーら! 言ったでしょ。お姉さんの背中を見てなさいって」
「いだい……」
「うつむいたままでどーすんのよ?」
「でも……」
「口答えはナシ。いいから見てて。見て学んで。エースの生きざまってやつを」
ユエちゃんを立たせ、その目を覗き込む。
「私は弱い。故障してるし、あなたのほうがずっと上手い。だけどエースって実力だけの話じゃない」
「……どうすればいいですか」
「わかんない!」
肩をすくめる。ユエちゃんは意味がわからない、という風に顔を上げた。
「いや、ほんとーにわかんないんだって。人それぞれだから。自分で考えて、自分で悟って、自分で見つけ出すしかない。そもそもエースってなるものじゃなくて、いつの間にかなってるものだし」
「なんですか、それ」
ぶー、とむくれるユエちゃんの頭をなでて、これでもかと力いっぱい抱きしめる。
「私は私自身のために投げる。ユエちゃんのためにも投げる。サキちゃん、ルイちゃん、モエちゃんのために投げる。チームのために投げて、勝って、負けて……エースであることを証明する。南腰越のエースの座を、あなたが受け継いでくれると信じてるから」
ユエちゃんはハッとした。
「お姉さんの背中、見逃しちゃダメよ?」
肩を叩いて送り出す。
ユエちゃんは混乱しつつ、何度も何度もこちらを振り返ってからグラウンドを出た。
さて。マウンドに立って肩を回すと――白雪みぞれがむくれている。
「ちょっ、なんなの!?」
「違うじゃん。それは違うじゃん? 私だけのために投げてよー」
「あんたねえ……まあいいわ。第二ラウンドといきますか!」
差向う心は水鏡のように。
穏やかな凪を味わいつつ、ゆっくりとセットを構えた。
投げる、投げる、投げる。
打たれる、打たれる、打たれる。
楽しい、楽しい……最高!
私と白雪みぞれは笑う。
悪意も陰謀も屈託もなく、共にイラズラをする仲間のように、笑う。
いつまでも、何度でも、お気楽な心で勝負していたい。
けど、それだけじゃダメなんだよね。
勝ちたい、ではない。いや勝ちたいんだけどさ。
勝たなければならない。でも、それは目先の勝敗の話じゃなくて。
私たちは、この勝負を通して全員が勝つべきなんだ。
野球には、それを成し遂げさせてくれるだけの奇跡がある。
「ふー……………………潮時ね」
父さん、母さん、ごめんなさい。
主治医の先生、ごめんなさい。
これから禁忌を犯します。梅景時雨、自らの意志で。
取り返しがつかなくなったとしても、後悔はない。
ここで逃げれば、終わってしまうのは私の心の満足だけではないから。
この瞬間に、すべてを賭ける。
「んー……? 梅景、ちゃん……?」
私は左投げ用のグローブを放り捨てると。
右投げ用のグローブに付け替え、裂けるような痛みの右手を握りしめた。
「ひゅー、ヤッバあ……」
一握りごとに、もげそうなほどの激痛。
無視できないものを無理やり抑え、白雪みぞれへ右手で握った白球を突きつける。
意味を理解したライバルは、焦りに焦って首を横に振った。
「ダ、ダメだよ。それはダメ。ダメダメダメ。そんなことしたら手が壊れちゃうよ!」
「すでに1回壊れてる、もっかい壊れてもそのときはそのとき」
「一生ずっと後悔するんだよ!?」
「今投げなかったら、私の人生そのものが壊れるっての」
止めなきゃいけない。でも、本音では……。
そんなところかしら。みぞれの視線は左右に泳いでいる。
「ねえ、白雪みぞれ」
「ダメ」
「私と全力勝負、したくないの?」
「ダメ、なのに……」
強く目をつむった白雪みぞれは、ため息をつくと、意を決したように目を見開いた。
「投げて、右手で」
「そうこなくっちゃ」
ぺろりと下唇をなめる。
「私だって壊れたよ。あなたが投げれなくなったと聞いた瞬間に」
おおう、思ったよりも大きなボールが返ってきた。
「ねえ、梅景ちゃん。私の本気をあげるから、あなたの右手を私にちょうだい――あなたの野球人生すべて、私に奪わせて!」
でも不思議と悪い気はしなくって。
それと同時に、私は勝利を確信した。
ぶっちゃけねー。ぶっちゃけ。
こうなるかなって気はしていた。
だから序盤に肩を温めていたわけよ。
Bチームふぜいからボロックソに打たれまくった甲斐もあって。
右側の肩はいい感じに……いいえ、最高の状態に仕上がっている。
私は疼痛すら投球リズムのひとつに変えて、体全体をひとつのバネや兵器となして、温存しすぎたエースの投球を3年ぶりに始める。
ヤバい、泣きそう。感動じゃなくて地獄の涙が出そう。
制球は悪すぎるし、あらぬ方向に飛んでいくしで、なかなかミットへ収まらない。
その間、白雪みぞれはバットを杖にして待っていた。
投球練習させてくれるつもりらしい。
やがて、堰を切ったようにタイミングが訪れる。
掴んだ! 完璧に! 戻ってきた! 私のピッチングが!
自分史上最速のストレートがミットからこぼれ、サキちゃんが尻もちをつく。
白雪みぞれは笑顔になると、打席に入ってバットで砂を払った。
「こい」
「いくわよ」
一秒、一瞬、一動作ごとに私は私を取り戻す。
投球動作に入り、足を上げると、渾身の力で白球を送り出す。
死ぬほど辛くて、厳しくて。それでも頭は下げず、視界は前を睨んでおく。
「ふふっ」
白雪みぞれは満を持したように反応して。
ぶおん。
迎え撃った白球のずっと上を大きく空振りした。……振り遅れたのだ。
振りぬいたポーズのまま、えっ?という表情でフリーズしている姿。
最ッ高に気持ちいい! これこれこれっ! これが見たかったっ!
「あらあら。視力でも下がった?」
こてんと首を傾げると、白雪みぞれの心に憤怒が湧いたのがわかった。
向こうもその事実を認識して――えへへ、えへへと小さく飛び跳ねる。
「次は負けないよっ!」
「ほざけ。アンタは今日が命日よ。私が殺して埋めてやる」
2球目。内角低めを狙ったボールコース。
見切ったみぞれは猫があくびをするかのように背筋をそらす。
「んー? 前にもましてノーコンかー?」
「失礼な! 昔はミラクルにビッタビタだったでしょ!」
「記憶にございませーん♡」
くっそ! ムカつく、ムカつく、ムカつく! ムッカァアアアアア!
1球ごとに煽り合い、球数を重ねていく。
インコースは徹底的にカットしてきて、ボールのカウントが増えていく。
気づけば2ストライク、3ボール。フルカウントになっていた。
「はぁぁぁ。スゴい。スッゴいよ」
白雪みぞれは感極まったように全身をぎゅーっとした。
「勝負できるだけでも最高なのに、まさかここまで追い込まれるなんて!」
この期に及んで、微妙にナメたことを言ってくれる。
「どうするんだろ。どうなるんだろっ! どっちが勝つのかなーっ!?」
「ま、今のままなら私が余裕で圧勝ね」
「えー? なんか冷たくない?」
「アンタがおバカだからよ。もー、まだ聞こえないの?」
白雪みぞれはきょとんとする。
「え、なになに?」
「この応援よ」
集中しきった二人だけの世界から意識の距離を取ってみれば。
世界を覆わんばかりの声援が、第一グラウンドを燃やしていた。
恵風館の部員たちによる凄まじい声量の応援だ。
声だけじゃない。
ベンチも後輩もレギュラーも、球拾いであろう子たちも。きっとOBも。
全員が一心不乱に踊り、叫び、一丸となって白雪みぞれを応援する。
いつの間にやら吹奏楽部まで演奏している有様だった。
『ゴーゴーレッツゴー恵風館ッ! ゴーゴーレッツゴー恵風館ッ!』
『かっとばせーっ! みーぞーれっ!』
バン、バン、バンッ、バンッ、バンッ。
ドン、ドン、ダンッ、ダンッ、ダンッ。
パーパパ、パパパパ、パパパパパッ。
パーパパ、パパパパ、パパパパパッ。
『ゴーゴーレッツゴー恵風館ッ! ゴーゴーレッツゴー恵風館ッ!』
太鼓、金管、人声、手拍子、すべてが合わさりエネルギーが世界に力を与えていく。
旗が翻り、横断幕が揺れ、人々がウェーブしながら応援する。
たった一度の勝負のために。たったふたりの勝負のために。
白雪みぞれを、チームメイトを、恵風館の全員がバックアップしている。
統一されたカラーをまとって。
あー、いいなー。いかにも強豪校って感じー。
腰をそらして眺めていると、動揺しきった白雪みぞれが口を覆った。
「な、なん。どうして」
「まだわかんないの? ほんっと呆れた」
右手いてぇ。エグすぎ、エグすぎ~~~。
「白雪みぞれ。はっきり言うけど、アンタ、最低のゴミクズよ」
「ひどくないっ!?」
「どっちがよ。どーせ、こう思ってんでしょ。なんで利用価値の消えた自分なんかを応援してるんだーって」
「ッ!?!?!? 梅景ちゃんってエスパーだったのー!?」
「ちがーーうッ!」
のろのろと肩を回す。
「あんたが打撃のエースだから。それ以上に、仲間だから。大会とか成績とか関係なしに、勝ってほしい、大好きな存在だから。みーんな暑苦しいことやってんのよ」
「――!? で、でもでも」
「シャラープッ! 示された事実に対してウダウダ言うんじゃないっ!」
ため息をつき、声援に負けないほどのバカでかい声を出す。
「だいたい、利用価値があろうがなかろうが、どうでもいいやつに無駄な時間を使わないでしょッ! 勝手にイジケて。線引きして。決めつけて。そっぽを向いてる間だって、チームは、仲間は、学校はっ! アンタを応援し続けてくれたのッ! アンタみたいなクズを応援してくれてることにまずは感謝するのが最優先ーーーッッッ!」
「あうあうあう……」
白雪みぞれは混乱している。
パニックで脳の容量が満杯になり、ぐるぐると目を回しながらあちこちを見ている。
「アンタは打撃のエースなの! 打者の世界は知らないけれど! エースって生き物はねえ、チームの気持ちを背負えば背負うほど強くなんの!」
私は大きくジェスチャーをして、応援を止めさせた。
「エースはいつだって孤独よ。孤独だってのにほとんど全部を背負わされる。皆が知らないものを背負ってる。けど、孤独であってもひとりじゃない! それを支えるのがキャッチャーであり、ナインであり、チームを構成するすべてのメンバー……そして応援してくれる仲間たちよッ! それは相手チームだって同じ。だから。チームを背負うこと。バッテリーやチームのためだけでなく、戦ってくれる相手のためにも全力を尽くすこと。勝利も敗北も、皆の想いもっ! すべてを双肩で背負うのがエースナンバーを刻む者の役割よーーーッ!」
力の限りめいっぱい叫ぶ。万余の視線がこちらへ降り注ぐ。
問題ない。なぜなら私は投手でエース。すべての照明、視線、責任は私のもの。
「選びなさい。白雪みぞれ」
「…………」
「一介の打者でいたいなら、バットを捨てて今すぐ帰れ。私はチームを背負ってる。南腰越を背負ってる。やる気の足りないイジケ虫なんて私の相手には値しない」
感じる。
気絶しそうなほどの右手の痛みと、私の迫力にのまれるオーディエンスの心を。
けど、きっと。私の憧れはビビったりなんかしない。
「究極完全体の私でいかせてもらう。今日の勝負に人生すべてを賭けている。もしも戦いたいのなら、アンタも託されたものを丸ごと背負いなさい。史上最強の白雪みぞれ……いいえ、恵風館の主将になりなさいッ!」
怒鳴りつける。じっと待つ。ただひたすらに、見つめ合う。
白雪みぞれはバットを捨てて、フラフラと打席から出る。
困惑したような空気が広がっていく。しかし私は身じろぎしない。
この場の誰よりも信じているし、知っているんだから。
私の憧れ、私のライバル、私のきっかけ、白雪みぞれは……。
――めちゃくちゃカッコいいやつなんだ、って。
『――!?』
白雪みぞれはユニフォームの上着を脱ぎ棄てた。
セクシーなぶるんぶるんの登場にオーディエンスは驚いたり、興奮したりする。
そんな反応もおかまいなく。ずんずん歩き、ベンチの裏へと消えていく。
ややあって、彼女は戦闘準備を完了して戻ってきた。
寄せ書きとサインの書かれた上下のユニフォームをまとって。
「ごめんなさい。ありがとう。私……ちょっとバカだったね」
「ちょっとじゃなくて、だいぶバカよ」
えへへ、と困ったように笑ってくる。
「私、梅景ちゃんが好き。梅景ちゃんとの野球が、勝負が大好き。それは変わらない――変わらないけどさ。今日、この瞬間だけは……あなたを心から捨てる。今できる100%、持てるすべてを恵風館に捧げるよ」
三度目の予告ホームラン。
オーディエンスの爆発が広がる。
私もまた、帽子を取ってオーディエンスに一礼した。
万雷の拍手が返ってくる。
それが落ち着くのを待ち、ユエちゃんをじっと見て帽子を被りなおす。
せんぱい、かってください。彼女の口がそう動いた、と思う。
右手は地獄。コンディションは最悪。そのうえ相手は世代最強。
勝てる気がしない。負ける気もしない。世界のすべてが私のもの。
投げれてもせいぜい10球が限度かな。
問題ない。私なら、みぞれなら、それぐらいありゃキメるっしょ。
白雪みぞれと見つめ合う。もはや言葉は必要ない。
それでもあえてこう告げる。
「あーあ。ムカつく。本当にムカつく打撃。私、アンタの打撃が大っ嫌いよ」
白雪みぞれは言葉を咀嚼し、えへへと小さく喜んだ。
『プレイッ!』
私たちの最後の打席が再開される。
ファール。ファール。ファール。
まだ終わらない。終わらせたくない。
1球ごとに球威は増して、あっちのスイングも鋭くなる。
勝つとか、負けるとか、考えられないほど疲れてる。
心に浮かぶのはルイちゃん、モエちゃんとの日常。
そして、4月に再び火がついてからの3か月間のこと。
投げ切ってやる。チームの全部を背負って。
視界の先には最強の敵。一緒に投げるは最高の味方。
悔いなくベストを尽くせばいい。
ああ、私はなんて――。
全身全霊、史上最速、渾身究極のストレート。
夜空に消えていく私たちの夏を後ろに感じながら、こう思った。
――なんて幸せなんだろう。
泣きながら顔を上げると、アイツも多分、同じことを思ってる表情だった。
◇
「おいすー。しぐちゃんせんぱい、げんきげんきー?」
「急に馴れ馴れしくなるじゃん」
「そりゃもう、受け継いじゃってますから!」
ユエちゃんとサキちゃんが病室の机にフルーツを置く。
私はいい子であーんをされる。
……無茶に無茶を重ねた私の右手は文字通りに爆発炎上。
すぐに病院へぶち込まれ、絶対安静の強制入院が発動した。
ママンはもちろん、医者の先生にも殴られた。殴られた、マジで。
お父さんは笑ってた。
『やりきったか?』
『うん。今すぐ人生が終わっても悔いはないよ』
『そうか。えらいぞ』
私の頭をぐしゃぐしゃになでて――ママンと先生に殴られてた。
「先輩の動画、SNSで死ぬほど話題になってますよ」
「うぐおうぇぇ」
考えたくもねえ。
どうやら先日の一部始終を撮影したうえ、ネットに流した曲者がいるらしい。
どんな反応でなんて言われてるかは想像がつくけど……ええい、知るか。
私の青春は私のもんだ! 誰がなんと言おうが知るか!
「ってかさー、こんなとこで油を売ってていいのかい。うちの本命バッテリーよ」
「はい! お使いついでに監視もしてこいって言われてるので!」
「ひどい……血も涙もない後輩たちを持ってお姉さんかなしいよー」
3人で笑い合う。
あの後、白雪みぞれは打席の中で泣き崩れた。今さらになって負けた実感と、もう二度と戻らない夏、チームメイトへの塩対応の後悔が押し寄せてきたらしい。
『みぞれ……初めて私たちのことを見てくれたね』
『ごめん。みんな、本当にごべんなざい』
『いいんだよ、ウチらだってアンタの気持ちをわかってやれなかった』
『勝手に頼りきって、寄りかかって、どこか線を引いた付き合いで……ダルかったよね』
『わ、私。最後の夏、それも終わった後のたった1日だけど――』
恵風館の主将は叫ぶ。
『みんなと本当のチームメイトになれてよかったっ!』
そんな主将へ部員たちが駆け寄ってきて、オーディエンスもやんややんやとはやし立て。負けた相手チームの幻のエースを主将が本塁打で破る、という最高の雰囲気の中で騒動は幕を閉じた。
負けたのは死ぬほど悔しい。今でもこっそり枕を濡らすぐらい悔しい。
けど、ユエちゃんやサキちゃんの刺激となったならそれはそれでよし。
べ、別に言い訳なんかじゃないんだからね!
話はそれで終わりかと思いきや。なんかガールズ時代に戦った顔見知りどもがやってきて、みぞれだけズルい、ウチらとも戦えーとか言い出して。ぶち上がったテンションのままに、投げて、投げて、投げまくった。もちろん勝ったった!
そんで手が痛てぇ、やべええええとなっていたら、なんと南腰越のメンバーたちまで現れた。
『そ、染谷先生!? どうしてここに!?』
『日報をサボってスマホ触ってたら、なんかとんでもない青春やってる子たちがいるって話題になっててね! どーせこんなこったろうと思ったから、皆を集めてバスを運転してきたの!』
『バ、バスを!?』
『以前はドライバーやってたのよ、私!』
染谷先生の白い歯がキラリと光る。
『でも先生……休日出勤のうえに明日も1限から授業なんじゃ?』
『かわいい生徒たちのためよ! 若者の熱を大人の事情で台無しにゃーできまい!』
『しかしてその心は?』
『このまま優勝まで突っ走って、職員室でふんぞり返れるようになりたい!……って、なに言わせてんの! ええい、そんなことよりも。恭ちゃん!』
『染谷コーチ、教師になってたんですね?』
『どうかしら? ここは世代最後の合同練習でも!』
『あなたは何を言っているんですか……』
片桐さんは呆れたようにメガネを外して拭くと――。
『保護者に電話するように。今日は終電を逃すからな?』
『ウオオオオオオ! さすが名将片桐だぜー!』
教育者の仮面を投げ捨て、世間の空気に迎合した。
監督たち筋肉痛確定じゃん。湿布はっときなよー。
ノリノリの先生たちに、笑いとツッコミの嵐が投げられる。
こうして敵味方入り乱れて、ノックをしたり、打撃練習をしたり、メンバーまぜまぜの紅白戦をしてみたり。そのすべてに豪華な応援がついていて強豪校うらやましー!って叫んだり。まあ色々とやってるのを見学しているうちに、とうとう痛みに耐えられなくなり気絶したのだった。
あれやこれやと雑談してるとあっという間に時間が進む。
「じゃー私たちは練習に戻りますんで!」
「はいよー。ルイちゃんとモエちゃんによろしくー」
「ねーせんぱーい」
「んー?」
「せんぱいにとってのエース、もっと教えてくださいよー」
ユエちゃんは、冗談めかした声音のわりにとっても真剣な表情だ。
「その答えは、練習、試合、チームを通して自分の心で見つけるの」
「ご無体な―。せめてせんぱいの経験だけでもいいですからー」
「そうねえ」
夕日を眺めて言葉を探す。
「私は右手がダメになってから、むしろすべての機会が楽しいことに気づいた。円陣も、柔軟も、マシンのセットも球磨きも。部室に集まる時間からメニューの端まで。すべてが新鮮な楽しみに満ちている、すべてが成長させてくれるんだって」
失ってから気づくこともある。
ほんと、私もみぞれもバカなんだから。
「だからこの1年、何ひとつ疎かにしないよう打ち込んできた。最後の夏は急に訪れるわけじゃない、あれもこれも、すべてが同じ。勝つか負けるかして泣く瞬間につながってるんだって」
「皆と一緒に過ごす、大切で貴重で愛おしい時間……」
「そーそー。1年ちゃんと過ごす時間は特に短い。たったの3、4か月しかない。それでもね、いや、だからこそ……チームとの時間は一瞬たりとも無駄にはしない。二度と後悔しないために」
白雪みぞれの言葉は真理の一端をついている。
どんなに濃密な時間を過ごしていても、たった3年。たった数年のこと。
私たちの関係には終わりがある。
でも、だからこそ。限りある時間を全力で大切にするんじゃない。
「そう思ってたら自然と〝エース〟が身についてた」
「ほわあ……」
「今の私は、投げられる体だったときよりもずーっとエースのメンタルよ」
「か、かっちょいい……!」
尊敬のまなざしを向けられる。
うーーーん。こういうの、ピッチの外ではなんだか苦手。
「さ、能書きはもうおしまい。実践で学んでこ」
「私たち、次も勝てるでしょうか?」
「問題ないわ。ガチの天才は日を追うごとに進化するの。研究なんてされたところで、実物は想像のはるか上を超えていく――軽々とね」
そう、軽々と超えていくのだ。
想像のはるか上を、軽々と超えていかれてしまった。
ああああああ、思い出したらやっぱり悔しいいいいい!
布団の中をげしげしと蹴る。
「さ、そろそろ時間でしょ。何をするにも楽しんで。あなたたちは私の宝物なんだから!」
『はいっ!』
ユエちゃん、サキちゃんがスキップしながら去るのを見送る――。
「それで?」
しばし待ち、足でふとんを引っぺがした。
「アンタはいつまでいる気なのよ?」
「気が済むまでずっとー」
ベッドの中に侵入していた白雪みぞれが、さも当然のように顔を出す。
「しょうもないことしてないで、チームのために時間を作ってやりなよ」
「引退式はもう終わったもーん」
「だからってさー」
「いーのいーの。受験シーズンまではまだまだ顔を出すし。今は失った3年が最優先!」
ヤツは私の隣に寝転ぶと、ガチ恋距離でニマニマ笑う。
「なによ」
「私、勝ったじゃん? ご褒美ほしいなーって」
「そういう話だったの!?」
「うん。私の中ではね」
勝手に言ってるだけじゃない!
「で? 何が欲しいわけ?」
「えっとぉ、そのぉ……」
ヤツは急にもじもじすると、困ったようにはにかむ。
「名前で呼んでほしいなーって。私も呼びたい」
「ハア? それだけ?」
「私にとっては大事なことなのー!」
「勝手に呼べばいいじゃない」
「やだやだやだー。いっつもフルネームで呼ばれるのはヤなのー」
こっちの右腕がギブス状態なのをいいことに。
私の首に両腕を回して、しなだれかかってくる。
「ね、ダメ? 時雨ちゃん」
這い寄ってくる憧れから、体と顔を背けつつ。
「別にいいけど」
「じー」
「…………」
「じー」
「み、みぞれ」
「ふおおおお! 9年来の夢がかなったー!」
「いだだだだ! バカ! 追い出すわよ!」
「セキニン取るから大丈夫だよー」
「何がどのように大丈夫なのよ!?」
私と白雪……み、みぞれは。
失った機会と時間を埋め合わせるように、色んなことを話すのだった。
「いつか一緒のチームでやろ?」
「お断りよ。私が勝つまでは敵同士なの」
「じゃー、いつまでも勝負できるね」
「大した自信ですこと」
「信頼と実績です」
ドヤ顔の彼女をチラ見してまなじりを下げる。
一度は選手を諦めて。
それでも野球を辞めなかったのは――諦めるわけにはいかない目標があったから。
「ありがとう。みぞれ」
「んー? なになに?」
「……なんでもない」
はぐらかしつつ、私はフルーツをあーんするのだった。
◇
4回戦。ムリを通してベンチ入りしたのは間違いだった気がする。
『キャー! 時雨さーん! 写真撮ってくださーい!』
『初めまして、私はTVKでスポーツ番組の特集を――』
『かましたれ青春女ーーー!』
自分で思っているよりもすっかり有名人である。
『アネゴォォォ! カッケェっすー!』
おまけに変なファンまで増えた。
恵風館は鬼のような練習量で有名なはずなんだけど。
「あんたたちねえ……練習しなさいよ、練習。すぐに新人戦でしょ?」
「夏の間は応援すっからねー」
「なんで3年までいるのよー!?」
「誰かさんたちのせいでヒマなのよ」
うっ。それを持ち出されると弱い。
「まあまあ、これもいい経験だよ」
「片桐さんまで……」
片桐さんはしれっとグラウンドにまで忍び込んできた。
あまり多くの言葉を交わす意味はない。と、思っていたら、両肩を叩かれる。
「時代、運、タイミング……勝ち負けに限らず、望まない結果に直面することはある。でも、本気になって白球と向き合った経験は決して無駄にならない。いや、自分の生きざまで無駄にさせないの」
「監督……」
「胸を張りなさい。私の最高傑作。あなたは間違いなく、世代最高の投手なんだから」
片桐監督ではなく、片桐恭子さんとしての言葉。
む、ぐぐぐ。不意打ちを耳打ちされて、さすがにちょっとウルウルくる。
おい、待て、ふざけんな貴様ら。カメラ止めろ。
あれ。ふと気がつくと、対戦相手のベンチからこっちを見ている子たちがいる。
うそ。まさか。あれって―――。
テクテク歩くと、まごついた連中が逃げ出した。
私は向こうのベンチまで乗り込み、後ろを向いてセミになっている子たちへ突撃する。
「はあ。なんなのよ、その態度は」
「……梅景。久しぶりね」
「SNS見たよ。めっちゃ有名人じゃん」
グサァッ! いきなり急所を突いてくるのはやめんかい!
私は気まずそうな3年生……右手事件の後に退部・転校していった子たちに耳打ちする。
「裏切者――」
「ッ!」
彼女らは、びくりと震えて汗を垂らす。
「なーんて引け目とか感じてないでしょうね?」
「……えっ?」
やっぱりそんなくだらないことを考えていたか。
「まったく。私たち、もう3年でしょうが。ちょっとこっちへいらっしゃいな」
「で、でも」
「仲直り! いーから早く! 時間がないのよ!」
「私たちにそんな資格なんて……」
「い~い? 私はちっとも恨んだりしてない。むしろ、これはチャンスなの。かつての仲間で、絶対に強いとわかってる相手と戦えるだなんて――」
呆れ果てながらベンチから連れ出し、くどくどと説教をする。
ふと気づいて視線を巡らせると、みぞれがニマニマとスマホを向けていた。
ルイちゃんとユエちゃんまでもがみぞれと同じ表情だ。絶対に楽しんでるやつだ。
「せんぱいって後輩とタメで感じが違うよねー」
「いいなー。私もあんな風に怒られたーい」
どいつも、こいつも。まったくもー。
選手としては終わっても。過去の因縁が終わっても。
私のマネージメントな夏は、まだまだ終わらないらしい。
お読みいただきありがとうございました!