05
「しっかりやるんだぞ」
「ハルちゃん、お願いね」
「氷の神の救いがありますように…」
数々の言葉がハルに送られる。
ハルは一人一人に声を返した。
戻るとは、言わなかった。誰とも約束はしなかった。
「行ってきます」
決意を込め、震える手を抑え込んでハルはハッキリと唱えた。
手は胸の首飾りに。
心を守るように胸に手を当てていた。
クロウは、いない。
それも仕方が無いとハルは分かっていた。
ハルとクロウがした唯一の約束を、ハルは破ったのだから。
生まれ育った村に背を向ける。
父と母が守った村に。村のみんなに。命の炎に。
そして、何処かにいるクロウに。
ハルの心がちぎれるように傷んだ。
それでも、息を、整えて。
全身に力を込めて、先の見えない雪の道を睨んだ。
しかし、視界は真っ黒になる。
固く分厚い何かに覆われたのだ。
「っえ」
声を上げる前に突き飛ばされる。
その前に首元で何かが引きちぎられた。
「取り押さえて。じゃなきゃ死にます」
クロウだった。
起き上がるよりも先に全身を寒さが貫く。息を吸い込むのも困難な寒さ。
すぐに村の人が駆けつけた。
村の皆の首飾りで、少し温もりが戻る。
「っっクロ、ゥ!何を!!」
「これであんたはそこから動けないでしょう」
クロウはハルの首飾りを揺らす。
そして、それを自分の首にかけた。
ハルは何が何だかわからなかった。
「俺が行きます。余所者がどうとか、こうとか。話し合う時間ないんで、主張したかったら俺がやったみたいにやってください」
「ク、クロ…」
「すみません、お嬢様。突き飛ばしたりして。首飾りは命の炎の所に、俺のがあります。それを使ってください」
クロウは頭を下げた。そして、ハルが何かを言う前に、村の人達に向かい合う。
「余所者のお前が務まることではない!」
必ず言われると分かっていた。
クロウは頷く。
「わかってます。儀式の役目なんかできないってことくらい。
あんたたちが俺に何も言おうとすらしないから、俺は氷の神とか神様とか、よくわかりません。
ただ、あんたたちの理屈で通じないことが起きてるなら、俺が行きます」
クロウはハルの荷物を軽々と持ち上げる。
ハルの方を見ないように、そのまま言葉を続ける。
「嫌がらせか何か知りませんが、長年魔物と戦ってきて、そのお陰で誰よりも体力もあります。道中出くわしたところでどうともありません。
それに、俺が死んでも気に病む人も、いても1人です。俺が捕った魔物の肉を神とやらに捧げるっていうなら、捕った張本人が持っていくのも問題ないでしょう」
それに、とクロウはハルを見てニヤリと笑い、村人には嘲笑を返した。
「女は男に守られるもの。
俺からしたら、神様がどうとかいうよりわかりやすい理屈です」
村人も、ハルも、言葉をのんだ。
誰も言葉を発せず、まるで散歩に行くかのように極寒の地に向かおうとするクロウを見ることしか出来なかった。
ハルは、涙を流した。
瞬時にそれは凍り、粒となって消えた。
「……クロウ。儀式のやり方は知っているのか」
「いえ。覚えようともしましたが、やめました」
批判の声が上がる。
そこにはある種の怯えすらあった。
これ以上神の怒りに触れるなと。
なにかあったらどうするのかと。
クロウはため息をついた。
風除けのゴーグルをかけようとして、やめた。ハルの方に投げる。
「…前から思ってたんですけど、それ、なんなんですか?」
「何って、これ以上酷くなったら…」
「何故、自分らを殺す神を慕い、今も尚許しなんか請うんですか」
クロウは村人を睨んだ。
理解できない。
しきたりも、なにもかも。
必要なことは生きることなのに、それを妨げてまで、なぜそうするのか。
「大切な者を苦しめ、殺し、貢物まで求める理解のできない存在を、敬って恐れて称えて、その果てに死ぬ。
それよりも、死にかけてまで何も求めず、俺たちを守る存在を敬うべきではないですか。
あんたらが心を向けるのは、見えもしない敵じゃないでしょう。
捧げ物でも人柱でも生贄でも何してでも、今も尚生かしてくれる存在を恐れるんじゃなくて、感謝し敬うべきではないですか。
今も、ずっと胸にいるでしょう」
クロウは1度ハルを見た。
氷の粒が散っていく姿を見て、きゅっと唇を噛み締めた。
ハルが何も言わなかったから、目も合わせなかったから。
クロウもそうしようと思っていた。
だが、その顔を見て、やめた。
できなかった。
「お嬢様。俺は、神がどうとかわかりません。嫌がられたくないので言えませんでしたが、人を殺す何かは、俺にとっては魔物と同じです」
だから、クロウはハルの目を見て続ける。
「俺のやり方で捧げ物とかをして、それでもこの寒さを止めないなら、俺は神を殺します」
「ク、クロウ…」
「生きるためです。手の打ちようがないなら、俺はやります。
神の機嫌がなおるまでなんて待てませんから。俺は、必ずやります」
ハルの言えなかった"必ず"を、クロウは言った。
「だから、俺は戻りません。これも、必ずです」
クロウはハルに触れた。
吐く息が白く、それすら吹き飛ぶ風を、手袋のない暖かい手で覆った。
「約束を破るのは俺。ごめん、ハル。許さなくていいから、生き続けてくれ」
クロウは立ち上がった。
寒いだろう。首飾りがなければ生きれない外だ。身をちぎられるような、声すら出せない。
自分の首飾りを置いてここまで来る時に、それは既に体感した。
自分は卑怯だ。
ハルが今抱く想いを自分がしたくなくて自分はこうしている。
本当のところは、きっとそこが大きい。
「〜〜〜〜ーーーーーっっっっ!!!」
背に声が響いた。
叫び声だ。血が流れるような、ちぎれそうな声。
耳が、心が、死にそうに思えた。
理屈も何も無い。
名前を呼んで。やめてと叫んで。生きてと悲鳴を上げて。
生きるため。生きるため。
そう言い、そう決心しながら、自分はハルを殺している。
ハルの心を、神よりも誰よりも殺している。
死にそうだった。
クロウは、今、ここで死にそうだった。
振り向くことはできない。
振り向けば、行けない。自分も、ハルの心も生きれるだろう。
だが、殺す。死なせる。心ではなく命を。
それは、できなかった。
クロウは歩き始めた。
手には幼い時から握ってきた一振の剣。
ちぎれそうな叫び声は、やがて風に流され聞こえなくなった。