過去と私(三題噺)
コンビニへ行った帰り道に、幼い頃の私があらわれた。
空は灰色の雲に覆われて、今にも雨が降りそうだった。傘も持っていない私は早く戻って、ドラマの続きを見ようと思っていたのに。「人間界にやってきた狐のお嫁さんがお米と勘違いしてかき氷を旦那様に作っている」そんなドラマ。
電信柱にかくれて、こちらをじっと観察するように見上げている幼い頃の私に、思わず私はうるさげな眼を向ける。
本当に小さい頃の自分がまさか出てくるとは思わない。単純に、自分に似た子供がそこにいるというだけだろう。
けれどもその子は私のことを見上げて、悲しそうな眼をしていたのだ。
正直なところ、そんな子供よりもドラマの続きのほうが気になっていた。今日を逃したらまたしばらく休日もないし、ゆっくりと時間をとれることもない。だから、早く家に帰らないと。
なのにどうしてか、私の足が動かない。
私は何か大事なことを忘れている。そんな気がしているから。
目の前にいる幼い頃の私は、ただ悲しそうな眼で私を見ている。何がそんなに悲しいのか。誰か知らない大人に怒られたことでもあるのか。
そんなところでかくれていても、目障りというか、邪魔なんだけれど。
少し見ていると、小さな私は電信柱から体を出してきた。
そうだった。
私、昔に見たことがあるんだ。私を。
まるで「自分が大人になったらこうなるんだろうな」と思えるような、そんな大人の人を見たんだ。
学校の帰りにふと見た大人たちの中に、私が混じっていた。
そのとき、大人の私は他の大人たちと同じように、子供の私をうるさそうに見てきた。「邪魔だからどいて」と言わんばかりに、じっと私を見たのだ。それは覚えている。
それが私にはショックだった。大人の私に拒絶された、ということが。そして、自分自身にさえも優しくできない大人たちに。
そんなことは、ただ単純に子供の頃の私が思い込んでいるだけで、別にきっとその人は私の未来の姿なんかではなかった。
けれども子供の頃の私は、世界中がアニメや物語の中みたいに正義が支配しているものだと信じていたかったのだ。優しい善の大人たちが国や世界をしっかり見ていて、悪い人は常に懲らしめられているとなんとなく思っていた。なのに、大人の私は自分のことで手一杯で、子供を邪魔げに見るような人間だった。
「ああ、あんな風にはなりたくない。大人にはなりたくないな」
そんなことを思ってから、私はどうしたんだろうか。
大人の私に何かしたのか、何もしなかったのか。大人にならないためになにかしたのか。
思い出せない。
わかることは、願いもむなしく自分は大人になって、幼い頃の自分の前に立っているということだけだ。
それも、自分がなりたくないと思う代表みたいな大人になってる。幼い頃の私だな、と思いながらも「邪魔だな」という思いの方が勝ったし、実際にそういう目を向けて、ドラマの続きのほうが気になっている始末。
今目の前にいる過去の私と向き合うことさえ、満足にいってない。
私はその気持ちをいつの間にか忘れたんだろうか。
忘れてはいないけれど、大人の世界に飲み込まれたんだろうか。
思い出してみれば段階的に大人になっていったような気がしないでもない。
友達のこともそうだ。
そのとき仲の良かった友達がいたはず。もう今は疎遠になっている。
理由はわかっていて、私が悪い。
その子がいじめられているところを、私は見た。見たのだが、私は見ないふりをした。先生に言うとか、親に言うとか、そんなこともしなかった。
怖かったからだ。次にいじめられるのが私ではないか、というのが。
友達の心配よりもまず自分が心配だった、というのが本音。
そんなことがあって、中学にすすんで高校生になって、私は優しい気持ちをもつよりも自分を守ることを選ぶようになっていった。大人が悪いことをしていても、もちろん前に出ていかないし、嫌な顔はするけどそれだけだ。なにかあっても「早く終わらないかな」というだけですませてしまうような、そんなことばかり。
学校への行き帰りに、近所の小学生たちが傘で叩きあっていても、何も見ないで通り過ぎた。友達がいじめられていたときのように。
その頃にはきっと、何より自分を守ることを優先していた。誰かに優しくするということは、自分も傷つくこと。そうするより、自分を大事にする。
「そんな風になりたくなかった」
と、目の前にいた子供の私が、私の胸を指さしてくる。
なにもかも見透かしたような、幼い頃の私の声で。
あまりにも利己的になりすぎた私のことを、子供の私が突き刺す。
何か言い返そうと思ったが、言葉がでない。
逃げ出そうとも思ったが、それだけはいけないと何かが足を止める。目の前の自分からさえ、逃げるというのはいけない。
過去の自分さえ大事にできないような大人に落ちぶれたと認めたくない。
そう思った途端、目の前にすっと影が落ちた。同時に、背後で何か破裂したような、バン!というようなすごい音がとどろく。
落雷だ。
思わず振り返っても、当たり前だがもう何も見えない。が、いつの間にか雲が厚くなっている。見上げた顔にポツポツと雨粒が当たる。
急に降り出した雨に気をとられている間に、目の前の幼い私は消えていた。
かわりのように、何かが落ちている。小さな紙の箱だった。
大きな雨が当たって濡れていくそれを拾ってみると、紙相撲のセットだった。箱のまわりには土俵のような円が描かれていて、ふたを開けると中には動物を模した相撲取りのコマがある。
これは私が、仲の良かった友達と一緒に作ったんだった。あの頃に。
こんなものをつくって楽しかったあの頃の私。
一緒にふざけあった友達を見捨てて、利己的な大人になった私を指さしたのは、当たり前だ。
私はそれをもって、家に帰った。帰り着いたころにはすっかり濡れてしまっている。
「ねえ」
私は濡れた服を脱ぎ払ってテーブルの上に放り出したまま、申し訳程度にタオルをソファーに置き、そこに座りこんだ。
「まだ私たちって友達なのかな?」
疎遠になってしまった友達に、メッセージを送ろうとして私は手を止めていた。
ドラマの続きはもう、しばらく見る気にならない。
この友達のアカウントをみつけるまでにさえ、私は勇気を絞っていたのだが、それはすぐにたどりつくことができた。しかし、直接メッセージを送るということになれば、また大きな勇気が必要だ。
先に彼女を見捨てたのは私だから、先に謝っていくべきなのかもしれない。というより、たぶん今さらなんだと言われるだろう。
スマートフォンから目をそらして、部屋の隅を見る。
だが、そこに幼い頃の私がいるような気がして、私は目のやり場がなくなって閉じた。
確かに私は利己的だ。そんな大人になった。
けれど、今は少し子供の気持ちを思い出してる。目を開けて、持ち帰ってきた紙相撲の箱を見る。
せめてあの頃の友情に目を背けることだけはしないでいたい。
たぶん、おそらく、本当に返信なんかないだろうし、相手を怒らせるだけかもしれないけれど。それでも。
私はメッセージを送った。
(三題噺:紙相撲・雷・人生として書きました)