入社式での失態
一応、実話です
単なる自慢話にはしたくは無いのですが、不快に思われた方がいらっしゃるといけないので、最初にお詫びしておきます
「ごめんなさい」
いよいよ、4月1日を迎え、入社式。晴れて旅行会社(一般旅行代理店では無い)の一員だ。面接会場となった支社とは違う本社なので、道に迷ったらいかんと思い開始時間の9時よりも30分早く着くように、家を出た。銀座にある有名高級フルーツ店の上階が舞台だ。もともと、超の着くほどの方向音痴の俺は、最寄りの新橋駅からタクシーで行けば何とかなるだろうと、今思えば歩いて5分位の場所にある本社までタクシーで行く予定にしていた。無事、新橋駅に着くと、予想しなかった程のタクシー待ちの行列。最後方に並び、まあ時間的にはなんとか間に合うか位に考えていた。待つ事15分、段々順番が回って来る。その時だ…今まで味わったことの無い腹痛と便意が襲ってきた(これは、俺の人生にずっと付いて来るものだとは思いもよらないのである)。漏らす訳にはいかないの、後ろの女性に
「トイレ行きたいので、順番を取っておいてもらって良いでしょうか?」
と懇願しトイレへ。そこで目にしたのは、またも予想外の超行列。これはヤバいと足の親指に渾身の力を振り絞り、何とか漏らさずに済んだ。しかし、時間にして15分は経ってしまっただろうか。タクシーの行列に走って戻ると、先ほどの女性はもうその場所にはいない。またもや、最後尾に。もう、9時まで5分しかない。焦った、とにかく焦った。結局、会社に着いたのは、9時20分だ。入社日、早々の大遅刻。オフィスに入るや否や、
「遅れてすみませんでした」
と、誰ともなく大声で謝った。それがいけなかった。社長のスピーチの最中だったからだ。顔面蒼白になりながら、入社式を終えるころには、本社スタッフの全員が俺の名前と顔を覚えていた。
釈明はしたかったが、そのチャンスは無かった。
事務的に、研修が始まる。講師となる役員全員が俺を見て話していた気がするのは気のせいかも知れないが。とにかく、いきなりダメ社員の烙印を押された形だ。二週間のオリエンテーションを終えて、10週間の研修。躓きをカバーしようと必死で頑張った。研修を終え、配属が決まったのだが、俺も配属先は銀座では無く、神田オフィスだ。当時島流しと呼ばれていた個人旅行を扱う新規部署(当時は35年前で、個人でヨーロッパに行く需要など、余程語学に自信のある若者位で需要は殆どなかった)に配属。営業マンとしては、その島流しにあった部長1人と課長2人と俺の4名でのスタート。内勤は少し年配の女性が3名くらいだったな。簡単な発足式を終えた後に与えられた最初の役割は、営業部署として立ち上がる為の環境作りと言えば聞こえが良いが、単なる雑用。新しいオフィスには、揃っていないものが多かった。ゴミ箱、タコ足ケーブル、ホワイトボード等々。歩いて20分くらいの所にある「多慶屋」へ一人で買出しに。毎日、あれが足りないやらなんやらで、オフィスとお店の往復することに。7月ともなれば、スーツをご丁寧に着たまま外を歩くのは、当時若かった俺でも、汗だくで、スラックスの線は一日で消えた。準備になんだかんだで1週間は掛かった。
その週が終わるといよいよ、営業マンとしてデビューだ。他の同期達は、外回り等する訳も無く、先輩営業マンのアシスタント業務を担っていた。ご丁寧に俺には、部署として当たられた予算の半分が割与えられていた。どこまでもポジティブな俺は、
「期待されている」
と勘違い。とにかく、新規開拓をして来いと言われ、ヨーロッパのヨの字も知らないくせに外回りの毎日。真夏の暑い中歩き周るので、汚い話になるが、スラックスのベルト裏側が汗の塩で真っ白になる位だった。とにかく、先輩営業マンが行っていない、新しい一般旅行代理店をやみくもに歩き周った。たまに、どの様に営業をするのか、本社の先輩営業マンに同行させてもらうのだが、感じたことは
「何かが足りない!」
その「何か」とは、毎日、電話や営業で顔を合わしている取引先との距離感に違和感を覚えたのだ。結論から言えば、あくまでも取引先と出入りしている下請け業者の関係で、全く仲が良いとは言えないのである。これでは、ライバル会社との競争で優位性を保てるとは到底思えなかったのだ。そこで、先輩営業マン達のアドバイスを半ば無視して、俺は次の様に振舞うことに決めた。
「取引先担当者とお友達になろう!そして、その関係は体育会系で言うところの、先輩、後輩の関係になろう!」
と言うものだ。これがウけた。同行で付いて行った取引先からご指名を受けることが増えたのだ。先輩達からしてみれば面白い訳が無い。あくまでも、後輩役を演じる俺に、先輩営業マンからは
「お客様に対して、その言葉遣いはなんだ!」
と叱責されることもしょっちゅうあった。我が道を走りだした俺にはそのアドバイスを聞き入れる耳を持たなかった。結果、他の営業マン全員が敵になった。
その頃、直属の部長を始め、課長2名は、外回りをする訳でもなく、オフィスで涼んでいた。ここで触れておくが、この上司3人はみな仲が悪く、一緒に昼飯を食べることも無く、ほぼ無言。毎日、この3人の誰かから飲みのお誘いを受けるのであるが、彼等にとっては週に1、2回。俺にとっては毎日。仲が悪いので一緒に飲みに行くことなど有り得ないのだ。あまり酒が強く無かった俺には、これが堪えた。毎日二日酔いである。毎日続けば5日酔いとでも言うのだろうか…。土曜日は彼女作りの為の合コン三昧。流石に日曜日はぐったりして、家で寝ていたな。
話を戻すが、毎日、やみくもに手あたり次第、飛び込み営業を掛けていたのでは効率的とは言えない。そこで、本屋に行き、目に入った「格安航空券の上手い選び方」みたいな本で、そこに名前が載っていた一般旅行代理店に通う事にした。これが上手くハマった。当時のヨーロッパ旅行と言えば、12泊14日、14都市周遊の様な、今では考えられない様な過酷な日程が主流だった。飛行機のチケットを購入したお客さんに最初の1泊だけ、日本からホテルを取った方が良いですよと言って貰い、そのホテルの手配を俺が入った会社で扱うのだ。14都市周遊の様な高額な手配代金は得ることが難しい。塵も積もれば山となるでは無いが、片っ端から仕事を取って行った。この塵を扱うセクションは、その頃まだライバル企業には無かったのも幸いした。話を盛ってわずか一年でと書きたいところだが、3年半時間は掛かったが、時流に乗ったこともあり、俺のことを見下していた先輩営業マン達を抜いてトップに立った。この事を面白く思う先輩営業マン等いる訳も無く、俺の事を評価してくれたのは役員達だった。飲みに連れて行って貰うのだが、先輩営業マン達と数名で行くことが多かった気がする。母親から、
「ご馳走になった方には、翌朝一番でお礼に行くのがマナーよ」
と諭されていた俺は、必ずお礼をしに行った。これも、結果的には敵を増やすことに繋がるのだが、翌朝お礼を言いに来るのが俺だけなので、気が付くと役員からお誘いを受けるのは俺だけになることが増えた。これまた面白く思う人間など俺以外にはいない。とにかく、我が道を突っ走り続けた。今では最大手と言っても過言ではない旅行会社が、まだ従業員が30名に満たない頃から、俺はその会社の仕事を一人で請け負うことになった。今では過労死が問題になっているが、俺の残業時間は、月に200時間を超えることもザラになった。後輩アシスタントを除いて、俺の仕事を手伝い酔狂な人間など皆無だった。残業代の方が基本給より遥かに高額なのだ。もちろん、土日も出勤。とにかく働いた。そんな折に、その大手旅行代理店となる会社のお偉いさんから、新しいパッケージを考えて来いとの指令。ヨーロッパに行ったことも無いくせに、よく営業マンが務まったと思う。頭を悩ませること数日。俺は思い付いた!
「1都市滞在型パッケージ」
である。読んでいる方々は普通じゃんと思うかもしれない。しかし30年以上前にはその様なパッケージは存在してなかったのだ。先輩営業マン達が頭捻って凝りに凝ったツアーを提案する中、俺は1都市滞在で、空港ホテル間の送迎サービスとホテルの宿泊だけ。最初は馬鹿にされた。しかし、時流は明らかに俺に傾いていたのだ。その昔、ヨーロッパは一生に一度だけしか行けない所。そして、男性サラリーマンが有休休暇を取るなど、持っての他で、新婚旅行で行けるかどうか言った時代だ。しかし、時は移り、飛行機代金も安くなり、有休休暇も取りやすい時代が来たのだ。旅行日程に著作権があるなら、今頃、俺は大金持ちだ。ライバル企業も慌てて参加して来ていたが、何ってたって下積みが違う。俺の提案する不随サービスに付いて来れる企業は無かった。
毎年、優秀な成績を収めた営業マンを称える会議が行われるのだが、俺は有る年を境に表彰されなかった年は一度も無かった。
この後も色々、トラブルが起きるのですが、読んで下さる方がいらっしゃるようなら、続けます。
補足ですが、僕のいた会社はランドオペレーターと言い、ヨーロッパでの地上手配を行う会社です。
学生時代に、旅行会社でさらに、本社がロンドン。これは女の子にモテること間違いなしって言う、不埒な目的で入社しましたが、その実、会社がお陰でモテたことは無かったのが、現実ですw