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伝奇シリーズ

うつし海のくらげ

作者: だいふく

 (すが)()(あら)()が行方不明になった。

 夜に出て行ったきり帰って来ず、新花を知っている人間が総出で捜索したが彼女は見つからなかった。もちろん近所の幼馴染みである()()(あき)()も捜索に加わったが、新花の影すら見つけられなかった。

 唯一、海岸の方にひとりで歩いていく少女の姿を見たという目撃情報が上がった。

 翌日になって、新花の履いていた靴の片っぽだけが磯に打ち上げられているところを発見された。

 靴が発見されてからは水難事故と判断され、漁師や海上保安庁の船が夜通し新花を捜索していたが、一週間経っても何も見つからないので捜索は打ち切られた。ひとりで行動していたという証言もあり、事件性はないと判断されていた。全国的なニュースにもなり、一時は日本中の注目がこの小さな海沿いの町に集まっていたが、やがてそれもなくなった。

 新花は死んだ。

 いまはまだ行方不明とされているが、それが、この失踪事件を知っている者にとっての共通認識だった。


 新花がいなくなって十日が経っていた。

 彰良は、学校の帰りに新花の靴が見つかった磯に来ていた。

 履いているスニーカーが海水に浸からないように気をつけながら、滑らない場所を選んで歩いていく。心地良い潮風と海の香りが彰良の身体を包んでいた。

 この磯は小学生の頃から新花とふたりでよく遊びに来ていた場所だ。

 別の場所で波にさらわれたのかもしれないが、幼い頃から彰良と共に海に親しみ、その怖さを親から教えられてきた新花が、夜の海で溺れ死んだとはとても思えなかった。

 こうしてひとりで磯を歩いているいまでも、背後から突然肩を叩かれるような気がしてくる。

 けれど、そんなことはあり得ない。

 中学生にもなれば、受け入れなくてはならない現実が自然と見えるようになってくる。

 家が近所だった新花とは、物心ついた頃からいつも遊んでいた。家族ぐるみの付き合いもあったし、この小さな町では学校のクラスもひとつしかなく登下校も一緒で、ずっと隣にいたような気がする。

 そんな彼女が突然にいなくなって、彰良の心にはぽっかりと大きな穴が空いたようだった。

 新花のことを考えながら歩を進めていると、いつの間にか磯の端に辿り着いていた。

 今日は比較的波が穏やかだが、秋も深まってきたこの時期は海が荒れやすい。新花がいなくなった夜は風が強く、いま彰良が立っているところには波が打ちつけていただろう。この辺りの水深は深くはないが、そんな日に海に落ちてしまえば陸に帰ってくることは不可能に近い。

 彰良は呆然と水平線を見つめる。やや傾きかけた太陽が背後から照りつけていて、水面に乱反射した光が眩しく感じられて目を細めた。

 新花はもうこの世にはいない。

 あとはもう、死体が上がるかどうかだけだ。

 昔一度、水難事故だかで打ち上げられた死体――いわゆる土左衛門――を目にしたことがある。水を吸ってパンパンに膨れ上がった姿は、恐らく生前とはまるっきり違うものなのだろう。それを見てからしばらくはまともに食事も摂れなかった。

 身体だけでも帰ってきて欲しい気持ちはあるが、新花のそんな姿は見たくない。だったらいっそ、死体なんか見つからない方がいい。そうしたら、新花の死は確定したものにならず、ほんの僅かな希望を抱いたまま生きていける。

 けれど。

 神様がいるのなら、せめて、もう一度だけ新花と話をさせて欲しい。

 彰良は、新花のことが好きだった。この気持ちを、好きだという感情を、彼女に伝えてから別れたかった。

 叶うはずのない願いを海の底へ沈めるように、想う。

 足下から、波の音に交じって音がした。

 こぽこぽ、と泡が立って弾けるような音だ。

 何かが足下の水中にいるのだろうかと思い、彰良は目を凝らして水面をじっと見つめる。

 初めは何もいないように見えた。しかし、そうではないことにすぐに気付いて、彰良は小さく声を上げた。


「うおっ」


 半透明の巨大な何かが、海中に漂っていたのだ。

 それは、ゼリーのような薄く青色を帯びた巨大なかさを持ち、その下からは紐のようなものが無数に伸びていた。どうやら姿形はクラゲのそれらしい。

 大きさはちょうど彰良が両手を広げたくらいだが、日本にはそのサイズのクラゲはエチゼンクラゲくらいしかいないはずで、そうだとすればもっと色づいている。つまり、彰良の足下にいるこれは別の種類のクラゲか、クラゲのように見える別の何か、ということになる。

 彰良が注意深く観察していると、それは段々と浮上してきて、やがて水面へとかさの部分を露出させた。


「何だよこれ……」


 未知の海洋生物がいくらでもいるのは承知しているが、それにしてもこのクラゲはいささか奇妙な存在だった。

 クラゲというものは殆ど自分の力では泳げず、水中を漂うだけの生き物のはずだ。しかし、目の前のこれは、彰良の目には自分から水面に浮上してきたように見えた。そして、引き波にさらわれることなくその場に漂っている様子からも、このクラゲは敢えてこの場所に留まっているように思えてならない。

 ふと、あり得ない考えが彰良の脳裏に浮かんだ。

 ――このクラゲは、新花なのではないか?

 彰良がもう一度会いたいと願ったから、クラゲの姿になって再び現れてくれたのではないか。

 そんなはずはない、と分かってはいるのだが、誰に聞かせるでもないが半ば冗談のつもりで口に出してみる。


「もしかして、新花か?」


 言ってから、馬鹿みたいなことをしていると自嘲じみた苦笑を浮かべながらため息を吐く。

 こぽこぽ、と。

 彰良の言葉に呼応するように、水音が聞こえた。


「え」


 思わず彰良は声を漏らす。

 まさか、きっとただの偶然に違いない。たまたま、彰良が喋った直後に泡の音がしただけ。そうだとしても、確認せずにはいられなかった。


「……新花、なのか?」


 再び、クラゲから水音が返ってくる。彰良は自分の鼓動が早くなっているのを感じていた。

 これは、本当に偶然なのだろうか?

 まだ断定できる段階ではない。ただ声に反応してクラゲが泡を吹き出しているだけの可能性もある。しかし、そんな反応をするクラゲが存在するだろうかという疑問も同時に彰良の脳裏には浮かぶ。


「あーっ」


 試しに適当に声を上げてみる。

 クラゲの反応はない。


「今日の晩飯、何だろ」


 今度は意味のある言葉を発してみる。しかし、反応はない。


「新花」


 もう一度、彼女の名前を呼んでみる。こぽこぽと泡の音。どうやらこのクラゲは新花の名前に反応しているらしい。

 心臓が高鳴るのを感じる。興奮と、ほんの少しの恐怖がない交ぜになっている。

 彰良は、新花とクラゲに何か繋がりがあっただろうかと思考を巡らせた。そういえば、小さい頃、新花の家族に水族館に連れて行ってもらったとき、新花がクラゲの展示水槽をじいっと見つめていたことを思い出した。実はクラゲが好きだったのかもしれない。

 だから、こうしてクラゲの姿になって現れた。彰良は、そう思わずにはいられなかった。

 これが、彰良と、クラゲになった新花の再会だった。


 それから彰良は、学校が終わると毎日のように例の磯へ通った。部活には所属していないため、時間は充分にあった。

 クラゲは、見つけたその日から多少は移動をするものの、まるで彰良を待っているかのように磯から離れることはなかった。

 一度に滞在する時間は三十分にも満たないが、学校であったことをクラゲに話してみたり、ただぼーっと海の景色を眺めたりする日もあった。何せ、相手がクラゲなのだ。こちらから話をすれば水音の返事は返ってくるものの、基本的に言語での返答はない。だから一方的に彰良が話すだけなのだが、それだけでも心は充分満たされた。

 新花という単語に反応しているだけだと思っていたクラゲの水音も、意外とそうではないらしい。新花の名前を出さなくとも、彼女に関連する話題ならリアクションが返ってくるし、世間話をすれば相槌を打つような水音が返ってくる。

 そんな日々を過ごしているうちに、彰良の中にあったクラゲの正体に対しての疑念は「このクラゲは間違いなく新花の生まれ変わりなのだ」という確信に変わっていた。

 ひとつ彰良が驚いたのは、クラゲの新花が自分にしか見えていないということだった。

 別に、この磯は彰良と新花の秘密の場所というわけではない。普通に地元の人間や釣り人が入ってくることもある場所だ。彰良が新花と話をしている間にも何度か釣り人と遭遇したことはあるし、同級生と来たこともある。しかし、いずれも海面に浮いた巨大なクラゲの存在に気付くことはなかったのだ。

 これが本当に不思議だった。新花の幽霊がクラゲになったのかもしれないとも思った。

 本当にその場に存在するのかを疑って新花のかさの部分をつついてみたこともあるが、ぶにゅぶにゅとしたクラゲの触感が指先にあるのだ。

 実際に触れることができるのに、彰良以外の誰にも見えない。

 その原因を究明してみようとは思わなかった。

 いまはただ、新花といられるだけで幸せだった。


***


「ただいま」

「あら、彰良。おかえりなさい」


 学校から帰ると、彰良の母親――潔子がいつもよりも慌ただしそうにしていた。

 彰良の家は()()荘という小さな民宿を営んでいる。

 父親とは離婚しており、昔は同居していた祖父母も早くに亡くなっているため、彰良は潔子とのふたり暮らしだ。三津荘は祖父母の代から営んでおり、それを潔子が継いだ形になる。海水浴シーズンである夏は盛況で連日満室になるが、秋冬はひと組入れば良い方で、誰の宿泊もないなんて日もざらにある。彰良が部活に入っていないのは、繁忙期になると潔子ひとりでは宿を回しきれなくなり、彰良の手助けが必要になるからというのが大きな理由だ。

 ここ数日は宿泊客はいなかったが、潔子の様子を見るに今日はどうやら予約が入っているらしかった。


「お客さん?」


 靴を脱ぎながら尋ねると、潔子は頷きを返した。


「そうなのよ。しかも連泊だって」

「へー、釣り客か何かかな」


 観光するところも大してないこの町に何泊もする理由はそれくらいしか思いつかない。


「女の人ひとりみたいだから、違うんじゃないかしら」


 確かに大抵は釣り仲間と一緒で、女性が単独で釣りに来ることは殆どない。いよいよどういう理由での宿泊か分からないが、彰良としては別にそこまで興味がある事柄でもなかった。どうせ潔子が宿泊理由は尋ねるだろうし、それを又聞きすればいい。


「そっか。手伝いは?」

「いいわよ、お客さんひとりだし。勉強でもしてなさい」

「はいはい」


 生返事を返して、彰良は階段を上がり二階の自室に向かった。勉強する気はさらさらなく、荷物を置いたらいつもの磯に向かうつもりだった。



 彰良が磯から帰ってくると、見知らぬ車が宿泊客用の駐車スペースに停めてあった。その側で、ダークブラウンのトレンチコートを着た女性――恐らく宿泊客だ――と潔子が立ち話をしているところだった。

 胸くらいまでの長さの髪を後ろでひとつくくりにしており、細いフレームの眼鏡を掛けている。年齢は二十代後半から三十歳くらいだろうか、見た目の若さにしてはどこかミステリアスな雰囲気を纏っている。


「あ、どこ行ってたの彰良」


 近づいてくる彰良の存在に気付いた潔子が声を上げる。


「ちょっと海に」

「新花ちゃんのことがあったんだから、気をつけなさいよ。それよりほら、お客さんに挨拶しなさい」

「こんちは」


 潔子に促されて彰良が会釈をしながら挨拶をすると、女性は微笑みを返した。


「こんにちは。真宮って言います、よろしくね」

「三津彰良です」


 女性が名乗ったので、彰良もそれに返すように名前を言う。


「真宮さん、大学の研究者なんだって」


 立ち話の中で聞いたのだろうが、まるで自分のことのように話す潔子に、真宮は愛想笑いを浮かべた。人によっては嫌かもしれないが、潔子のこういうフランクなところが、三津荘の評判の良さにも繋がっている。


「すごいですね。何の研究してるんすか?」

「簡単に言うと民間伝承の研究かな。今回泊まらせてもらうのも、調査のためなんですよ」

「あー、それで連泊なんですねえ。けど、この町に研究できるような言い伝えあったかしら……」


 潔子が小首を傾げる。彰良も、そもそもそういう話に興味はないが聞いたことがない。あれば町おこしにでも利用されているだろう。


「意外とどこにでもあるものなんですよ。住んでる人はもう知らなくても、役場に資料が置いてあったりします。興味があったら役場の人に尋ねてみてください」

「そうねえ」


 気の抜けたような相槌を返す潔子。真宮の方も社交辞令だと分かっているのだろう、それ以上は何も言わなかった。


「じゃ、俺はこれで。ゆっくりしてってください」

「ええ、ありがと」


 話が一段落したところで、彰良はぺこりと頭を下げて玄関の戸に手を掛ける。


「ちゃんと勉強しなさいよー」


 という、潔子の声が背後から聞こえたが、それには返事をしなかった。


***


 次の日、真宮は朝食を食べるとすぐに出かけていった。彰良はというと、土曜日で学校が休みなので午前のうちに磯に行き、帰ってきて昼食を潔子と食べてからはは自室に籠もって勉強をしていた。夕方になると、外から車の音が聞こえてきた。どうやら、真宮が用事を終えて三津荘に帰ってきたらしかった。

 潔子曰く、真宮は調査が終わるまでは宿泊するとのことだ。いつ引き上げるか具体的には決まっていないらしいが、少なくとも一週間、調査が延びればそれに応じて延泊、ということになるようだ。三津荘としては、この閑散期に連泊してくれる客がいるのは非常に助かる。どうせ部屋は空いているので、潔子は快く真宮を受け入れていた。

 

「あ、彰良くん」


 真宮が泊まり始めて三日目。彰良は偶然、外から帰ってきた真宮と玄関で鉢合わせた。三津荘の玄関は三津家と宿泊客で共通だ。


「こんちは。いま帰りですか?」

「まあね」


 ブーツを脱ぎながら真宮は頷く。

 特に話すこともないので彰良がその場を立ち去ろうとすると、真宮が口を開いた。


「彰良くんは最近身の回りで変わったことない?」


 真宮の突然の質問に、彰良は内心ドキッとして歩き出していた足を止めた。


「いや、何もないですけど……」


 動揺が表に出ないよう平静を装いながら、真宮に返事をする。

 新花の件は変わったどころの話ではないが、それを部外者である彼女に話す義理はないし、正直に話したところで、彰良にしか見えていないクラゲの存在を信じて貰えるとはとても思えない。


「そっか」


 真宮は、彰良の動揺に気付いてか気付かずか、思ったよりもあっさりと引き下がった。それで話は終わりかと思ったが、彼女は次の話題を彰良に振った。


「ところで、昨日潔子さんが言ってた『新花ちゃんのこと』についても聞きたいんだけど」

「新花の……」


 彰良が躊躇したようにその名を呟くと、真宮は慌ててかぶりを振った。


「や、もし嫌なら話さなくて良いんだけどね。新花ちゃんってあれでしょ、この間ニュースになってた女の子」


 全国的に報道されていた中で新花の名前も出ていたため、それを彼女は覚えていたらしい。


「別に構わないですけど」

「あら、意外」


 真宮の言うように、本来ならば話題にも出されたくなかっただろう。しかし、あの磯にクラゲの姿をした新花がいることを知っているいまの彰良にとっては、それほど嫌なことではなかった。


「って言っても、ニュースでも散々やってたでしょ。それ以上に話すことなんてない気もしますけど……」


 つい先日までは、センセーショナルな話題としてテレビや新聞に取り上げられていたのだ。記者でもない真宮は一体何を知りたいのだろうか。


「そうねえ……新花ちゃんって、彰良くんとはどういう関係だったの?」

「どういうって、幼馴染みですよ。家が近所なんです。……ていうか、何ですかその質問。真宮さんの調査と関係あるんですか?」

「うーん、どうかしらね。関係してるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「……?」


 意味ありげな真宮の返答に、彰良は何を言いたいか分からず首を傾げた。


「ま、後になったら分かることよ。それにしても、幼馴染みが事故に遭ったっていうのに、彰良くん意外と元気なのね」

「真宮さん、デリカシーないってよく言われません?」

「まあねえ」


 くすくすと笑いながら言う真宮を見ていると、何だか毒気が抜かれたような気になる。そもそも彰良自身が、新花を死んだと思っていないせいもあるのだが。


「事故の直後はそりゃ落ち込んでましたよ。でも、気にしてたってしょうがないじゃないですか。まだ死体が見つかったわけでもないし、生きてる可能性だってゼロじゃない」


 実際はあの磯に新花はいるのだから、彰良は他の人と違って、もう二度と新花と会うことができないという類いの悲しみを抱えていない。


「まあ、それもそうね」


 彰良の心理をどこまで理解しているのか、真宮は頷きを返す。


「ごめんね、時間取らせちゃって」

「大丈夫ですよ。それじゃ」

「うん、ありがとうね」


 真宮のお礼に彰良は会釈を返して、階段を上がっていった。


***


 更に三日が経った。

 相変わらず真宮は朝に出かけて夕方に帰ってくる生活を続けていたし、彰良も学校終わりに磯に通うという習慣は変わっていなかった。

 彰良は今日も同じように、磯で海を眺めながらときどき新花に話をする、という時間の潰し方をしていた。


「彰良くん、こんなところで何してるの?」

「真宮さん」


 背後からの声に振り返ると、いつものダークブラウンのコートを着た真宮が立っていた。


「危ないっすよ、こんなところ来たら」

「大丈夫よ、これでも以外とアウトドア派なの」


 と言いつつ、真宮の足元はヒールのあるブーツで危なっかしい。よくここまで来るのに転けたりしなかったものだと彰良は感心した。


「ここ、俺のお気に入りの場所なんですよ。そっちこそ、何でこんなところに?」

「調査よ」


 真宮のしている民間伝承の研究とこの磯にどういう関係があるのだろうか、と彰良は疑問に思ったが、それを口には出さなかった。詳細を話されても、彰良には興味のないことだ。

 彰良が言葉を返さずにいると、沈黙の代わりに波と潮風の音がふたりの間に流れる。ややあって、真宮が口を開いた。


「君さ、隠してることあるでしょ」

「……ないっすよ、そんなの」


 心の中で、彰良は自分に言い聞かせる。――大丈夫だ、カマを掛けられているだけで、彼女には水面に浮かんでいる新花の姿は見えていない。

 見えていないはずなのに、真宮は新花のいる水面を指差して言う。


「いるんでしょ、そこに何か」


 衝撃的な言葉に、彰良の心臓がどくんと跳ねた。鼓動が早くなって、血の気が引くような感覚。


「な、何言ってるんですか。何もいないでしょ」

「そうね、私にはそう見えるわ。けど、君の目にはそう映ってはいないんでしょう?」


 心音が大きく早くなっていくのを感じる。大丈夫だ。真宮に見えていないのなら、まだ誤魔化しようはある。それにしても、この音が真宮に聞こえてしまっていないだろうか。


「私、霊感あるのよ」


 唐突な真宮の告白に、彰良は言葉を返せなかった。


「だから君が霊的なものと接触したことくらいは分かるの。それはつまり、君が何らかの怪異と関わりを持っているということ」

「新花が、そういうのだって言いたいんですか」


 わけの分からない話に、彰良はつい腹が立って言い返す。口に出してからしまったと思ったが、もう遅い。


「新花ちゃん? なるほど、そこには新花ちゃんがいるのね」


 もう観念するしかないだろう。これ以上隠し通すことはできない。この様子なら、真宮に本当のことを話しても頭がおかしくなったとは思われないだろう。そもそも霊感なんて話を持ち出したのは彼女が先だ。


「……そこにいるのは、クラゲになった新花です」

「クラゲ?」


 気の抜けたような声で真宮は聞き返す。


「一週間くらい前にでかいクラゲをここで見つけたんですよ。話し掛けたらまるで新花と話してるみたいな反応があったから、俺はこいつを新花の生まれ変わりだと思った」

「ふうん……」


 何やら考え込むように、真宮は口元に手を当てた。


「……ここ数日調べたところ、この地域には(しん)の言い伝えがあるのよね」

「蜃?」


 聞き覚えのない単語が真宮の口から出てきて、彰良はそれを思わず声に出した。


「蜃気楼って現象あるでしょ。遠くの景色が歪んで見えたりするあれ」

「まあ、聞いたことは」


 実際に見たことはないが、彰良は頷く。


「蜃気楼って言葉はね、蜃っていう生き物の息が生み出す幻覚だと思われていたことが由来なの。ま、この地域の蜃の言い伝えはもう廃れちゃってるみたいだから、君が知らないのも無理はないんだけど」


 そんな伝承がこの地域に伝わっているなんて、ずっと住んでいる彰良は知らなかった。恐らく、潔子も知らないだろうし、祖父母の世代の人間でさえ分からない話かもしれない。


「その蜃ってのと、新花に何の関係があるんですか」

「……私はとても霊感が強い方なんだけど、さっきも言ったように君の言う新花ちゃんは見えないのよね。もしそれが霊的な存在なんだとしたら私の目にも映るはずなんだけど、どうやらそうじゃないらしい」


 そう言って、真宮は彰良にしか見えていないクラゲを指差した。


「つまりね、そこにいる新花ちゃんは、蜃が作り出した幻覚なんじゃないかしら」

「はあ?」

「蜃がどういう原理で幻覚を作り出してるのか確定的なことは言えないけれど、君にしか見えてないということは、言い換えれば君だけが蜃の影響を受けてるってことなのよ。だから、君の思考や願望がその幻影に反映されてても何もおかしくはない。――例えば、新花ちゃんに生きていて欲しい、みたいなのもね」

「それは……」


 確かに、願った。もう一度だけ新花と話をさせて欲しいと。

 この海のどこかにいる蜃がその願いを聞き届け、彰良に幻覚を見せていたということなのか。クラゲがまるで新花の意志があるかのように振る舞っていたのも、彰良がそうであって欲しいと思っていたからなのだろうか。


「でも、俺は触れましたよ。感触だって覚えてる」


 指先に残るクラゲ特有のぶにゅぶにゅとした感じを思い出して、彰良は反論する。しかし真宮はそれを歯牙にも掛けなかった。


「幻覚は、視覚にだけ作用しているんじゃないってことよ。君が感じたその感触も、蜃によって生み出された錯覚だと思うわ」


 真宮は確信を持ったように言う。


「現実を受け止めるべきよ。新花ちゃんは死んだし、死んだ人間が戻ってくることはないの」


 彰良は何も言い返せなかった。頭の中では分かっていたことを、真宮にストレートな言葉で突きつけられた。

 あの日、クラゲと出会う直前、確かに彰良は新花の死を受け入れていたはずだ。そこにこのクラゲが現れて、彰良はそれを新花だと思い込んだ。しかし、真宮の言うように死んだ人間は帰ってこないし、ましてやクラゲの姿になることなんてあり得ない。

 全身から力が抜けたように、彰良は呆然と口を開いた。


「真宮さんは、どうしてそんなことを知ってるんですか」

「私の本当の目的は怪異の収集――つまり、今回の件なら蜃を捕獲することなの。あ、これ他の人には内緒ね」


 突拍子もない話をされて混乱する彰良に、真宮は話を続ける。


「私がこの町に来たのは新花ちゃんの事故が切っ掛け。ああいう事故には怪異が関わっていることが少なからずあるのよ。そしたら、明らかに怪異の影響を受けている君に出会った。君は何かを隠しているみたいだったし、それが怪異に関係するだろうことは容易に想像がつくわよね」


 真宮の話の中で、引っ掛かることがあった。


「待ってくださいよ、新花の事故はただの事故じゃないんですか?」

「本当のところは分からないけど、私は蜃に幻覚を見せられて海に誘われたんじゃないかと思ってる。その生態からして人に害を為す……怪異っていうのはそういうものなの。もしかしたら、君もそうなっていたかもしれなかった」

「……」


 自分も波の中にさらわれることを想像して、彰良はぞっとした。自分もまた、かつて見た水死体のようにぶよぶよの姿になっていたかもしれないのだ。


「あくまで推測よ。でも、私は怪異の専門家としてこの推論はほぼ間違いないと思ってるわ」

「……だとしたら、何で俺は生きてるんですかね。俺もその蜃に誘われた側の人間ですよ」

「さあね、たまたまじゃないかしら」


 彰良の質問に、真宮はあっさりとそう返した。


「怪異なんて基本的に私たち人間の理解は及ばない存在なの。専門家って言ったけど、私もそれほど多くのことは知らないわ。でも、もうひとつだけ推論を話すとするなら……」


 やや間をおいて、真宮は言葉を続ける。


「君を死なせたくないっていう新花ちゃんの意志が、本当にその幻影の中に残っていたのかもしれないわね」


 希望的観測だ、と彰良は思った。

 けれど、もし本当にそうなのだとしたら、まだ彰良の声は新花に届くかもしれない。菅田新花という少女はもう二度と帰って来ないとしても、彰良が海に沈めた願いは叶うかもしれない。


「新花……」


 ズボンが塗れることも厭わず濡れた岩に膝を突き、彰良は自分にしか見えないクラゲに呼び掛ける。

 いつものように、クラゲはこぽこぽと水音を立てて反応してくれていた。知らず知らずのうちに、彰良の目元には涙がこみ上げていた。すぐそばに真宮がいることなど気にも留めず嗚咽を漏らしながら、彰良は言葉を続ける。


「好きだったよ、新花。ずっと好きだった」


 ようやく言えたその言葉を、水音の返事を耳にしながら彰良は何度も繰り返した。


 ***


 翌日、真宮は朝早くに三津荘を発った。

 彰良との磯での会話の後、真宮は蜃を捕獲することに成功していた。宿泊開始からちょうど七日目のことだった。そういう意味でも、彼女の目的は予定通りに終わったと言っていいだろう。

 蜃は中国と日本で言い伝えられている幻想生物で、その姿は竜とする説と、巨大なハマグリとする説がある。実際のところ、今回の件で捕獲できた蜃はこぶし大の二枚貝の――すなわち、後者の説に当てはまる形態をしていた。真宮はそれを金属のボトルに閉じ込めて封印を施し、車のトランクに放り込んである。海水は入れていないが、貝ではなく怪異であるから海水から出したところで死にはしない。


「はぁ……」


 高速道路を制限速度いっぱいで走りながら、真宮はため息を吐いた。延泊を想定して飛行機とレンタカーを利用せずに自家用車で来たのが失敗だった。関東に戻るのにあと六時間ほどは運転し続けなくてはならない。正直家に戻ったらこのまま数日は休みたいが、その前に報告書をまとめて研究室の上司に提出しなくてはならないことも憂鬱の要因だ。

 三津彰良に話した内容は、裏付けも何もない真宮の完全な推論に過ぎない。とはいえ、彰良に言ったように、真宮自身は持論が概ね核心を突いているのではないかと思っている。唯一完全な憶測で話したのは、菅田新花の意志が幻覚の中に残っていたという部分だけだ。

 もしかすると、新花により空腹は満たしたが、次の食事のストックを用意していただけかもしれない。とはいえ怪異というものはどこまでいっても超常的な存在で、その行動の全てが理屈に沿うとは限らない。しかし、好意を寄せていた幼馴染みを喪ったことにより傷心している少年に、そういう現実的な推論を話すほど真宮は鬼ではない。少しくらいは、この先を生きていく希望があってもいいものだ。そういうアフターサービスを、真宮は彰良に対して施したつもりだ。

 今回赴いた町はとても良いところだったと真宮は思う。観光する場所はあまりないが食事は美味しかったし、時間の流れが田舎特有の緩やかさで心も安らいだ……仕事でさえなければ。

 いつかまた、あの宿に泊まりに行っても良いかもしれない、と真宮は車を走らせながらいつ取れるかも分からない休暇に思いを馳せた。

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