私があなたの大切な匂いを持ち去ってしまったの
そろそろ寝るか、と今夜の男は呟いた。台所には行かず、あらためて頭から布団を被り左側へ身体を倒して両膝を折りたたむ。枕から頭を下ろし両手も膝の間に収めた。何もない明日だろうが、そして匂いもないのだろうが「夜の蓋」を開けるのだ。両の瞼を閉じ睡眠からかけ離れる闇を見つめた。
・・・・・・寝ているとき人は、あるいは人の意識は何処へ行っているのだろ? と考えてはいけない。あの世との境で呑気に、自分の魂と親しい誰とも知らない死者と話し込んでいたり、守護霊と呼ばれる存在から説教されたり、したりなどをしているのかもしれないよね、等と考えてはいけない。普段は無意識によって抑えられている非人道的な行為を何処かの星でしたい放題やっちゃっているのかもしれない、等も考えてはいけない。日々、他人に対する怒りや侮辱をため込んでいるはずの、目一杯なバケツを極端な気候の地域にブチ撒きに行っているのかもしれない、とも考えてはいけないのだ。あるいは逆に、人類に共通した「愛の花」を摘みに行っていると思ってもいけないし、そう信じようとも思ってはいけない。
人は寝ているとき自分だけの「夜の蓋」を開け十人十色の匂いを嗅いで安心しているのだ・・・・・・しかし自らの不注意や、話の分からない相手のプレッシャーをまともに受けてしまうと、あるいは嫌が負うにも巻き込まれてしまう、星の成り行きが決めているとしか思えない宿命的な事案によって、その匂いはなくなってしまう場合もあるだろう。
寝ている間に安心できなければ、起きている間に他人を追い込んで安心しようとするぞ。宇宙を背負っているらしい神様だって、石ころや森の中の木や波の中にもいる無数の神様を叩くことだってあるんだからな・・・・・・人の心と実はバランスを保つ自然は、手加減することのない災害をもたらすことで偏るバランスを是正し、獣は野生ならではの信念と哲学を持ったまま、人の心による迷惑に巻き込まれてしまう。そんなようなことを思い描いてはいけないはずだ・・・・・・
「・・・・・・ん?」
男は何かの匂いを感じているような気がした。でもそれは余りに薄く「あの匂い」と判断することは出来なかった。でももちろん期待した。半信半疑の期待だったのだが、やがてあの彼女が闇の中から手作りのジャムを入れるような小瓶を持って現れた・・・・・・。
出会ったころは耳を出すおかっぱ髪が腰まで伸びていて、感情を表に出さないことを信条にしているような細い目元は、髪型が変わっただけで自分の内で移ろう一つの季節が過ぎたことを示す解放感が見て取れた。でも男と同じだけの年齢を重ねたようにはまるで見えなかった。
「ごめんなさい、実は私があなたの大切な匂いを持ち去ってしまったの」と言った。そして彼女は持っていた小瓶の口を閉じる赤いチェック模様の蓋を開けると男は闇の中で、鼻の穴の中に擦り傷が出来てしまうほど強く嗅いでみた。明らかにココナッツの匂いがした。今日の昼間に食べたドーナツの匂いだった。
・・・・・・マジかよ。布団の中で男は自身の驚きを口にした。
まさかこの態勢にこれほどの即効性があるとは思ってもなく声に出して笑った。
「まるっきり野比のび太だな」男は心で独りごちるともっと大きな声で笑った。横になっていた身体には少しの冷たさがあり、隈なく貫いていた全身の覚醒は線が細く萎れた余韻だけが残っていた。
念のためにスマホで時間を確かめると、確信していた通り時間の進みはなく1:31でしかなかった・・・・・・。