句点の打ち方は作家の哲学だ
・・・・・・三十代になっていたときの男は「水の音」を聞きながら布団の中で身体を丸めもう二度とはあの匂いを嗅ぐことはないのだろう、と思った。全方位的な安心感は二度と得られまい。それでもきっとこの眠れない夜はまたいつかやってくるはず。そのときの為に今しなければならないことがある・・・・・・男はそんなことを思いながら、そして行動に出て寝入ることになった。
あの日の夜、男は寝入るまで婚約者の顔も、彼女を寝取った男の顔も思い出さなかった。もちろん思い出せないわけではなく、努力と知恵を使い極力思い出さないよう努めたのだ。その精神的エネルギーは相当な負荷を有した。しかし男は水の音を使い巨大な記憶をねじ伏せ得た。全く忌々しい屈辱を防いだのだ。どうやって? 全人生に於ける、微々な花咲く記憶を総動員し相殺するような単純なことではない。もっともっと単純なことだ。これまでことあるごとに、または突然に屈辱は蘇っていたのだったが、紛う方ない例の手応えを感じるこの眠れない夜に、忌々しい記憶のシンボリックな古城に火を点けてしまえば明日も明後日も、ルーティンの如く思い出し、そのうち明確な理由や原因によった「不眠症」になってしまう気がしたので、とにかく匂いを求めた。しかし一向に現れはしなかった。
男は火を放たないために布団から這い出し台所へ行き水道の蛇口を捻った。水を出しっぱなしにして再び布団に戻り身体を丸めた。日頃から清潔に保つことを心掛けるステンレスのシンクを打つ、マッチポンプな水道水の音が台所から煽った・・・・・・。
男は幼いころから電気と水を無駄に使うことだけは厳しく躾けられていた。夜に友達と遊びまわるようになったころ、母親は出歩くことを口うるさく咎めていたものだが、父親は部屋の電気さえ消していれば息子の夜遊びに対して何も言わなかった。部屋の電気を消していることが父と子の信頼感の最後の砦みたいなものになっていたのかもしれない。だからそれは水に関しても同じだった。もちろんシャワーや、母親が食器を洗うときに度々水を止めなければいけないわけではなかった。ザブザブ使ってもよしだった。しかし作業の終了した後、捻りが甘く少しでも垂れていると無口な父親は無口のまま許さなかったし、必ず本人にしっかり止めさせた。たまに夫婦間で拗れる問題が起きたとき、母親はわざと死ぬほど熱いお湯か、痛いくらいに冷たい水を目一杯湯舟に張り、緊張状態にある夫へ風呂の準備ができたことを伝えた。子供の頃はかなりハラハラしたものだったが、年頃になると母親のそんな仕返しが本当に愉快だった。
当時、両親のいる家にあまりいたくはなかったが、電気と水を無駄に使わないことを守っている限り不思議と帰りたくない場所では全くなかった。
そんなわけで男は幼き頃からの禁忌を破ることで、気持ちをザワつかせあの匂いの代わりに、この巨大な記憶をねじ伏せようと考えついたのだった。自分で実行していることなのに、誰もいない台所の水道水の音はかなり気になった。これは変なたとえだが、自分の家の墓参りに行ったとき、隣の墓石に派手な色のペンキがぶち撒かれているのを目にしたくらい気になったのだ・・・・・・いずれしろ「三つ子の魂百まで」はそこそこの効果を発揮したわけだった。
神経が覚醒している間、何度も台所と布団とを往復した。
水を止めると布団の中でほっとしたが、新たに刷り直された静寂にシンボリックな古城が浮かび上がると・・・・・・つまり奴らとの一件が我がもの顔で割り込んでくるとまた布団を出た。だから男は布団から出るときに溜息をついた。しかしそのうちに台所から戻ってきて布団に入るときも溜息が漏れ始めた。もちろん蛇口を開けるときに溜息をつくこともあり、また閉めに戻ってきたときにも漏れ始めた。
何度も何度も往復しているとさすがに俺は何に向かってこんなにも強い憤りを感じているのか分からなくなった。句点の打ち方は作家の哲学だ、と言う夫と結ばれた妻が禁じ得ない億劫さがあり、愛人に新たな恋人ができたと告げられた紳士の様な安堵があり、財布を落としたくらいの腹立だしさがあり、干された下着を盗むほどのバカバカしさがどのタイミングで溜息になっているのか不明になってきた・・・・・・マジでいい加減下らなくなってきて、なんとなく「何か」が沈静化していった。そして匂いのことを考えた。でもやってはこなかった。そのとき男は経験のない無臭に大きな喪失感を覚えた。でもしかし今は項垂れている場合ではない、と奮い立った。自ら始めた放水を止めなければ、と最後に思ったのだ。ここで止めに行かなければ、またいつかこの夜がやってきたとき再び水を無駄に使わなければならないことになる・・・・・・もうすっかり眠くなっていた男は半ば朦朧としながら蛇口を捻りに行った・・・・・・布団に戻ると自分じゃない誰かの手作り感に満ちた安堵を得た。なかなかアホらしくていいじゃないか、と思った・・・・・・。