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夜の蓋  作者: ハクノチチ
7/18

胸の内にある銅鏡にひびが入ったような感覚を味わった。

その年の盆休みに実家へ戻ると家の駐車場には黒いサニーではなく青いマスタングクーペが止っていた。

世界中のどんな場所よりも馴染のある見慣れた所にとことんあり得ないモノが突如としてあり、と言うか完全に、むしろ1/1スケールのミニカー的アメ車は鎮座していた。メガネ要らずの2.0の視覚が1メートルもない目の前にある1トンの現実を形と色の信号に変えると、一瞬男は家を間違えたと思う錯覚を飛び越え、たとえば胸の内にある銅鏡にひびが入ったような感覚を味わった。その体験はある意味地味だったろうが衝撃的だった。音もなくひび割れた鏡面から魂の一部が足元へ垂れ落ちると、真夏の陽が垂直に照り付けるカラーの夢のなかだった。夕立もなく茹で上がった地面に張り付くサイズの小さな自身の影が、肉体の代わりに行う呼吸を感じながらたぶん口を開けたままだった。

 1966年に造られた、平らで低い車高の(塗装し直されている)光沢ある青いボディー。左右丸目の左ハンドルと対面してからニ、三秒だったろうが、今でも魂を落とす模擬体験をしたつもりになっている。


 母親が高額の宝くじを当てたことも、堅実で退屈な役所勤めをしていた父親が実は昔からマスタングに憧れていたことも一人息子は知らなかった。

 かつて父親は身籠った妻の意に沿うため、借家暮らしを止めて細やかな新築を買うローンを組んだ。尻の跳ね上がるGT500を手に入れるつもりだった貯金は新居の頭金になったわけだ・・・・・・今こそ手に入れる時が来たのよ、歳を取った髪の白い妻は、歳を取って夜中のトイレが増えた夫へ、二人の人生に飛び込んできた当選番号を渡した。車に使っていいのなら、中古のマーク2で十分だ、と言っていた夫に妻は檄を飛ばし、むしろシェルビーを探したらしいのだが、二人は初期型のシェルビーを値段とは別に諦めたと言う。歳を取ってから憧れが実現するとき、その時は身の丈を考慮する妥協が必要なのだった。と言う格言めいたことを父親は息子へ語った。V8のパワーなんて今の俺には使いこなせるわけがないからな。


 三日間滞在した毎日を、夏はやはり早朝の滝だろ、ゆっくり寝すぎた今日は海から日の入りを眺める日帰り温泉でどうだ、連チャンはさすがに疲れたから今日はそこら辺の回転ずしでよろしく・・・・・・ポニーと呼ばれる割には恐ろしくガソリンを喰う、ドカドカ、ドロドロ響く狭い車内(息子は後部座席に詰め込まれた)で家族三人、空いている車道に現れる逃げ水を追うときの加速に高揚し、息子の結婚話をせっつき彼らは孫の顔を夢見て過ごした・・・・・・そういうことがあった年から何年後だったかは覚えていないのだが、とにかくあの夜は当然のように不意にやってきて、しかし匂いはなかった。そのとき男は初めて喪失感を覚えたのだった。きっとあのとき止まらなかった乾いた咳が、匂いの全部を吐きだしてしまったのかもしれない、と思った。裏切られた婚約者の顔を平手で叩くと不思議な咳は止ったことがあるのだ。



 男はスマホで時間を確かめた。1:23分だった。たぶん意味はないけれど、意識してしまう数字の並びだ。


 あの匂いを嗅いでいると何もかもが安心になった。ずっと小さなときは、たとえば富士山が噴火する恐怖や大きな地震が起こるかもしれない恐怖。もう少し大きくなるとよその国の年寄りが言い残した言葉を無責任に解釈した説を真に受けていた日々の恐怖までもがすっかり無くなり、不思議なほどの安心感を得た。すると気が付けばぐっすり眠っていた。

 そしてまたいつかは親が死ぬ、というい必ず起こり得る恐怖感を持つようになっていて、その頃は森林破壊に対する恐怖感もあった。しかしやはりあの匂いはそれらを払拭してくれた。

 自他ともに認識した反抗期を迎えると、どこかで耳にしていた地底人の暴動に対するモノから親が死ぬ、という恐怖は日々の中に微塵もなくなり、当時はザクザクした気持ちに満ちたものだ。それでも蓋を開けたときの匂いは、ザクザクもイライラも忘れさせてくれた。ともすれば明日、友達や母親にちゃんと謝ろうとまで思わせた。そのような効果があった実体のない不思議な匂いを失ったということは、過去から繋がる自分と、おそらく未来の真っ只中にいる自分の人生が分断されたような気がして、男は「喪失感」に呆然としたのだった・・・・・・。






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