彼女は「いつかそれがやってきたら私にも嗅がせて」と言った。
睡眠中の夢を映写する眼球の奥の鏡も、幸せな幻が投影されることもある壁までもが益々眠れぬ感じになっていた男は、自分でも気が付かないうちに布団の中で腕を組んでいた。男は枕の上で何度も頷いた。カサカサいう衣擦れの音が耳の中に響く。実際には聞こえていなかったのだが、呼吸の度に深夜の耳鳴りだけが鼻の穴から抜けていく感じがした・・・・・・それにしても、あの匂いを嗅ぐことがなくなってしまったのはやはり残念なことだった。認識し得る理由のないまま、どうにも眠れない夜がやってくると、幼少のころより(おそらく本能的に)布団の中で身体を丸めて目を閉じるとやがて嗅ぎとった。どのような匂いなのか、どこから漂ってくるのか、少年には分からなかったし、大人になっていたら失ってしまっている・・・・・・今夜思い出せる限りで言えば、十八歳の冬にやってきた夜に意図して嗅がなかったことで、その後に巡ってきた機会では匂いがなくなっていた。つまりアド・ブラウンの女と出会った後にやってきた「夜」に「蓋」を開けてみたのだが一向にあの匂いは布団の中に現れなかった。でもそのうちやってくるだろう、と思いながらやはり十八歳の時のことを思い出していたに違いない。しかし神経が覚醒するだけで匂いは漂ってこなかった。だから眠れずにもっと様々なことを思い出していたろうが、その中には当然のごとく彼女がいた。
現実の領域よりも非現実の「お話」の方がよほどあり得る突飛な形で出会い、たぶん一瞬だけ「二人の出会い」が現実の領域に戻されたような、つまり全くなくはないパターンで二人は別れた。というか繋がりは断たれたのだった。
それでも男は、現実の領域と非現実の「お話」の狭間にあったホテルのベッドの上でゴロゴロしながら裸の彼女に「夜の蓋」のことを話していた。彼女は「いつかそれがやってきたら私にも嗅がせて」と言った。
彼女との繋がりが断たれてしまう前にあの夜がくることはなかった。もちろんもし仮にやってきたとしても彼女が嗅げることはなかっただろう。あの匂いは誰にも嗅げやしないのだ。この世界に存在する粒子の集合としては存在しないのだから。だから男は鼻孔でそれを嗅ぎ取っているわけではなかった。また記憶の中から嗅ぎとるわけでもない。あるいは眠れぬ夜に展開する空想の中で漂うでもない。しかしそれでもある時期までは、理由の分からない、一晩だけの不眠の夜その匂いはたっぷりと男を包みこんだ。
記憶のないころからすでに懐かしい匂い。失った喪失感を実感したのは前回のことだった・・・・・・
ところで「アド・ブラウン」から「喪失感」までの長い間に母親が宝くじで300万円を当てたことがあった。確かちょうど三十歳になっていた年だ。十年前に自分が二十代になった時のような新鮮な驚きは親にもなく、ただ三人家族としての形成がそろそろ変わり始めるのだろう、というような年齢からくる希望的な予感を各自が持ち始めていた。もちろん減るのではなく増えることを。