長方形の光は23:34だった。
ふと気が付いたとき気配は瞼の裏に漂っていた。小高い場所から、盆地に蓋をする雲海を見下ろすように男は閉じた瞼の中でその気配をしばらく見つめた。皮膚一枚分の眼下の闇には、布団で横になっている自分にも伺い知ることのない神経の覚醒が既に小さなまだらになっていた。この余りの不意さ加減、このすっかり忘れたころにしかやって来ることのない夜の感じは全く久しかった。それでも男は瞼を開けずに何度か寝がえりを打ち、念のために今日一日を振り返ってみた。今夜眠れない原因と言うか外因はやはり何一つ思い浮かばない。幸運も不運もなく平坦に過ごした今日は、ありがたいことに昨日と大差なく、まずもって一昨日とも大して違わなかった。明日も特に何か大事な用事があるわけでもない・・・・・・ならば、と概ね不吉な「虫の知らせ」にまで考察の幅を広げてみたのだったがどの道無駄なことだった。これまでの人生において数少ない貴重な経験から言えば、少なくとも男が受けた「知らせ」は結果的にどこかで起こってしまった後のことだったし、訪れない眠気や睡眠中の夢に啓示されたことはなかった・・・・・・駅前に行き一杯引っかけて見上げた今夜の三日月の色にも異変を感じてはいなかったはずだ、と最後に確認したところで気配はモリモリ厚みを増していて小さなまだらも一閃へ向け、温かく行き交う血管でもなく、寡黙な骨の中でもないどこかへ集まりだしていた。
そんなわけで、どうにも懐かしい手応えに変わった雲海を受けいれると瞼を開けることにした。横になっていた身体の隅々まで、満身の怒り以外では感じられぬ血流よりも遥かに速く一気に覚醒した。
築の古い2LDKマンションで独り暮らしをする部屋の明かりは全て消してある。しかし街灯の灯る住宅街の道に沿ったアルミサッシの窓際には薄手のカーテンしかなく、雨戸を閉める習慣もなかったことで夜になっても部屋の中は完全な闇とは言えない。寝るから部屋を暗くした程度だ。もちろん程度とは言え睡眠には十分な暗さである。むしろ右も左も分からなくなるくらいの真っ暗闇よりはよほど寝入りやすい環境だろう。
男は(ふとしたとき、つい気が付いてしまったのだが)曇り空よりもずっと味気ない、しかも今は暗い天井に向けて大きな溜息を一つ付いた。そして鼻でしていた呼吸を口呼吸に切り替えた。詰まりがなくても鼻で吸い込むときより、膨らむ肺の運動を近くに感じるのは元々口呼吸で寝ていた癖を成人してから鼻でするよう心掛け改善したからかもしれない。
まだ二十代になったばかりの頃に出会った、胸の小さなある女から、人は寝ている間に口が乾くと一番親切な誰かから無理やり土や砂を食べさせられている夢を見ていて、忘れているだけなのよ、と言われたことがあったからだ。信じるつもりはなかったが、確かに目が覚めたときに口が乾いていると口臭が気にならなくもなかった。当時の男は一つの切っ掛けだと思い、これまでの習慣を変えたのだった。
「鼻」ではなく「口」。細やかな昔の癖を解禁しただけで、どこか郷愁感を覚えた男は掛け布団を頭からすっぽりかぶった。布団の中で身体を左側へ傾け両膝を折りたたみ枕から頭も下ろした。男は布団の中で身体を丸めた。
言うまでもなくすぐそこの夜道の薄光が睡眠を妨げることはなかったので、布団の中で身体を丸め求めたのは寝入るために必要な闇ではない。だから雨戸を閉めるのが面倒だったわけでもない。
自分の体臭を毎晩たっぷり吸いこんでいるはずなのに無臭でしかない茶色い無地の掛け布団をすっぽり被ると、そこそこ立派な闇だった。
夏場にいつも使う掛け布団代わりのバスタオルではこうは行かないな、と男は思った・・・・・・。
「夜の蓋」。幼い頃より呼ぶ、極めて密やかな儀式を始めようと体勢的には準備の整った男は、ふと気になったので一旦布団の中の闇を破ると枕元に置いたスマホで時間を確かめた。長方形の光は23:34だった。布団に入ってから三十分近く経っても寝入らないのは、男にとってなかなか珍しいことだ。
・・・・・・それにしても最後に「夜の蓋」を持ち出したのはいつだったろう? と改めて考えた。すると、もし万が一「開ける」前に寝入ってしまうとそれはそれでなんとなく残念な気がしたので布団には潜りこまず仰向けの姿勢に戻り両膝も真っ直ぐ伸ばした。よし、むしろまだ寝ないぞ、と(大袈裟に波打つ木目が寸分違わない六枚の縦長の合成板から成っている)天井を見上げ、意識して鼻から深く息を吸い込んだ。