勉強で人生を変えた! 柔道近畿大会優勝からどん底へ。そして・・・大阪大学現役合格!
これは一部内容を改定していますが、約4年前に記録した実話です。よろしければ、最後までお付き合いください。
次男が大阪大学に現役合格した。
3年半前の悪夢のような出来事を考えると夢のようだ。
次男の阪大合格を記念して、3年半前の悪夢から阪大合格までの道のりを記そうと思う。
正直、あまり思い出したくないことも多いが、次男が過去を振り返った時にあの時どれほど大きな苦境を乗り越えてきたかを再確認出来るようにここに残したい。
これは次男と私達家族のどん底から大阪大学現役合格への戦いの記録である。
3年半前まで次男は柔道の実績により高校、大学へ進学する予定だった。
運命のあの日まで次男も私達家族もそう信じて疑わなかった。
次男は小学1年から柔道を始めた。
開始当初から多くの試合でそれなりの実績を残してきた。
主な実績は小学6年時の全国少年柔道大会(個人)ベスト8。
(この時の優勝者はパリ五輪の代表になったS君。次男は軽量級で唯一のベスト8進出者)
中学3年時の近畿中学校柔道競技(個人)優勝。全国中学校柔道競技(個人)ベスト16。
特に中学3年時の全国大会では、ある柔道サイトの成績予想で優勝候補筆頭にあげていただける等、少しは注目された存在であったと思う。
こうした実績からいくつかの高校から入部の誘いがあり、その中から私達親子は大阪にある私立の柔道強豪校である☆☆高校への進学を希望していた。
実際に私達は非公式ではあったが☆☆高校の顧問の先生から
「是非、うちに来て欲しい。正式には息子さんの中学校を通してお願いにあがる」
旨の挨拶を受けており、次男もかねてから
「☆☆高校へ進学したい」
と言っていたため、☆☆高校への進学は私達の中では既定路線であると考えていた。
次男は小学5年時に私の転勤により関西地区のX県からY県へ転校。また、中学2年時に私の転勤により再びX県へと戻ることとなったが、次男はそのままY県に留まり、当時、指導していただいていた先生(学校の先生ではなく民間の道場を運営している。以降、A先生とする)の自宅兼道場にお世話になっていた。
進学にあたっては、A先生と次男と私達で相談して決めることとなっていたが、9月中旬になってもA先生からも次男からも何の連絡もなく不安に思っていた。
次男に連絡しても
「俺は分からん」
としか言わない。
2016年9月11日
そんな時にたまたま次男の学校の担任の先生に連絡したところ、
「関東の〇〇高校の先生が来週、息子さんの勧誘に来る」
と聞き、仰天することとなった。
〇〇高校は全国優勝を何度も経験している言わずとしれた柔道の超名門高校である。
A先生には
「高校は関西圏内に進学させたい」
旨の希望を伝えていたのでまさに青天の霹靂であった。
その為、即座にA先生に連絡したところ、
「関東の〇〇高校の先生が是非、息子さんを欲しいと言っているのでとりあえず中学に挨拶に来るだけだ。本件は私から改めて両親に説明すると息子さんには伝えていた」
との回答であったため、
「私達の希望も聞かずに話を進めるのはいかがかと思う。相談の場を設けて欲しい。何なら今すぐにでもそちらに伺う」
と依頼し、後日(9月14日)、A先生、次男、私達を交えての相談をすることとなった。
X県からY県へは高速利用で2時間程度であり、すぐにでも飛んで行きたい気持ちであった。
学校の担任の先生に同席をお願いしたが
「プライベートなことなので」
と断られた。
次男と電話で話した際には
「A先生から「俺に全て任せろ」と言われていたので何も言えなかった」
とのこと。
次男は関東の〇〇高校への進学へ気持ちがかなり傾いているように感じた。
後日、詳しく話を聞くと
「〇〇高校に行ってオリンピックを目指せ!」
等、散々、夢のような未来を吹き込まれてその気になったようである。
予想もしなかった事態に私も妻もまさに困惑。本当に不安な気持ちで当日を迎えることとなった。
私達が関西圏内の高校進学を希望していた理由は下記のとおりである。
・私達が関西在住であったため、何かあった際にはすぐに駆け付けて対応することが出来ること
・次男が在学中に怪我や病気により柔道を断念することも有り得る。その場合も同じ関西圏内であれば違う道の選択等についてすぐに対応することが出来ること
(上記はいずれも遠隔の高校の場合は対応が困難である)
関西圏内の高校への進学だけは私達には絶対に譲れない条件だった。
相談日を迎えるにあたり、私は会社で尊敬する元上司に本件について経緯を含め相談した。
何としても良い方向に持っていきたいと願う一心であった。
元上司からは
「未成年者の進学については当然ながら親の同意なしでは進められない。自信を持って対応するように」
と励まされた。
また、
「スポーツ推薦で進学した部下に聞いた話では高校にもよるが、スポーツ推薦って9月頃には結構決まってしまうのだろう?こんな時期まで何も言ってこないなんてA先生という人物は確信犯なんじゃないか。外堀から内堀まで全部埋めた後で「進学先はここに決まった」とか言うつもりだったと俺は思う。だとしたら、かなり難しい交渉になる。その場合に何を優先事項とするのか考えた方が良い」
とも言われ、私も同じ思いだっただけにA先生に対する不信感が高まった。
更に
「柔道も良いが中学生が柔道だけに人生を賭けるというのはどうかと俺は思う。学生の本分はあくまでも学業だろ。学生なら文武両道を目指すべきなんじゃないのか。高校進学もおまえは推薦を前提に考えているようだが、本来は勉強による一般入試で入学するんだぞ。おまえも少し頭を冷やしたほうが良いぞ」
と忠告もしていただいた。
当時の私は想定外の出来事にかなり動揺していたし、また、次男の柔道の実績に有頂天になっていた部分もあると思う。
元上司はそんな私の様子を見て、適格なアドバイスや冷静な忠告をしてくれたのだ。
元上司に相談することによって私はかなり冷静になれたのは間違いない。
因みに全柔連にも相談の電話をしたが取り合ってもらえなかった。
2016年9月14日
相談日には妻の依頼により妻の両親にも大分から来ていただいた。
Y県への移動の車中は皆口数が少なく、相談場所であるA先生の自宅兼道場が近づくに連れ徐々に緊張感が高まった。
A先生の自宅兼道場に到着したが、A先生は不在であった。
出迎えてくれた次男によると東京からの戻りが遅れているという。
次男は祖父母が来ていることに随分と驚いていた。
それから30分後、A先生が戻ってきた。
相変わらずの威圧感に圧倒されそうになる。
A先生に祖父母を紹介し祖父母が持参した土産を渡す。
そのまま、次男達柔道部が練習している道場へ通された。
(この時、なぜ道場で?と非常に疑問に思った)
道場ではキャプテンである次男の掛け声の元、部員達が練習をしていた。
その横で話し合いが始まった。
「A先生、私達の希望は関西圏内の高校への進学です。関東の〇〇高校への進学という話にはとても驚いています。何とか希望通りの関西圏内への高校へ進学させてください」
「そんな希望は聞いていない。私は息子さんに良かれと思って〇〇高校の先生と十分相談の上、話を進めている。こちらこそ心外だ」
という内容を何度も繰り返す。私は冷静を保とうと必死だったが、業を煮やした妻が立ち上がり
「あなたの思い通りにさせない!」
と言い、A先生から
「無礼者!」
と一喝され、部員達がびっくりする場面もあった。
部員達の掛け声が響く中、虚しい話し合いが続く。30分位経過した頃、A先生が
「分かった。そこまで言うなら関西圏内の高校に進学すれば良い。ただし、関西圏内なら△△高校(Y県内の高校)だ。△△高校の監督は随分と息子さんのことを評価してくれており、前から「うちに来てくれ」と誘われている。△△高校なら良い」
と言い出し、言葉を失った。△△高校は確かにY県内では強豪高校であるが、全国ではほとんど無名である。次男も
「△△高校には行かない」
と明言している高校である。それを理解していてこのような提案をしてきたのだ。私は無性に悲しくなった。
A先生との付き合いは5年になるが、これまではA先生のことを信頼し尊敬もしていた。
A先生は自ら全日本柔道選手権に何度も出場するほどの名選手であり、指導者としてY県の◇◇高校を全国準優勝に導いたこともある名将でもある。退職後は自らの道場で指導を行うとともに、次男の通う中学校から委託を受け柔道部の指導も行っている。全国でも指折りの指導者である。
次男が
「Y県に残って柔道をしたい」
と言った時、散々悩んだがA先生に預けることに同意したのだ。
A先生に預けた後、次男は順調に成長し前述したとおりの実績を残すことが出来、A先生に感謝していた。
それなのに、次男の大切な高校進学に際しては私達の意見を聞かず、自分の考えを押し通そうとしている。
「A先生もご承知のとおり△△高校への進学は息子も希望していません。他の高校に行かせてもらえませんか。具体的にはずっと息子が行きたいと希望していた大阪の☆☆高校です。☆☆高校の先生から「是非うちに来て欲しい」と非公式ですが私達にも挨拶がありました。是非、☆☆高校へ行かせてください」
と必死に訴えた。しかし、
「☆☆高校からの勧誘など一切ない。私が許可する高校以外には進学させない」
の一点ばりで話が前に進まない。1時間が経過した。
全くこちらの意見を聞いてくれない。一歩の譲歩も望めない。柔道ってこんな世界なのか?これが当たり前で私の考えが間違っているのか?A先生の言う通りに従ったほうが良いのか?私の頭の中はどう判断すべきか混乱していた。
お互いの頭を冷やすため、一旦、私達が息子と話し合って、改めてA先生に希望を伝えることとした。
次男を車に乗せ、A先生の自宅兼道場を離れる。適当な駐車場に車を入れ、次男、祖父母、妻、私の5人で話し合った。
次男は
「〇〇高校に行ってオリンピックを目指したい」
と言う。かなり洗脳されているようだ。
私は次男に
「〇〇高校に行って、もし怪我や病気をして柔道を続けられなくなったらどうするんだ?おまえの人生そこで終了だぞ。本当にそんな賭けのような人生でいいのか?☆☆高校なら仮にそうなってもお父さんやお母さんが助けてあげることが出来る。お父さんはおまえに賭けのような人生を歩いて欲しくない!」
と訴えた。自然と涙が流れていた。妻も祖父母も同じように次男に訴えた。皆、泣いていた。
暫く考えていた次男が
「俺、やっぱり☆☆高校へ行く。俺の希望をA先生に伝える」
と言った。
私は
「推薦がダメなら一般入試でも良い。初心に帰って☆☆高校へ行こう」
と伝え、次男は
「うん」
と答えた。
そして、再びA先生の自宅兼道場へ向かった。
祖父母と妻を車に残し、次男と私はA先生のもとへ。
A先生はまたしても道場で待ち構えていた。
次男はA先生と向き合ったが相当、ビビッている。
「おまえの希望を言ってみろ」
と言われ、恐る恐る
「☆☆高校へ行きたいです」
と伝えた。
A先生の顔がみるみる険しくなる。
「なぜ、☆☆高校へ行きたいんだ?」
A先生も極力、感情を抑えた口調で次男に問う。
「もし、怪我や病気で柔道が出来なくなった時、お父さんやお母さんが近くにいないと不安だからです」
A先生はそんなことかというような表情で
「そんな心配は一切不要だ。俺は月に何回か東京へも指導に行っているのでその度におまえの状況を確認しに行く。その状況をお父さん、お母さんにも伝える。また、日本代表監督にもおまえの指導をしてくれるようにお願いしている。全て俺に任せておけ。お父さん、〇〇高校も良い条件で受け入れてくれると言っている。学費などは心配しなくても良い。もし何なら私が面倒を見ても良い」
と言ってきた。
「学費などは一切心配していません。どこの高校であろうと私が全て支払います。それとも私達から親権を奪おうとお考えですか」
「そんなことは言っていない。学費の心配をしているのかと思っただけだ」
「どうしても☆☆高校への進学を賛成していただけませんか」
「私が許可する高校以外はダメだ」
「推薦入学ではなく、一般試験ででもダメですか」
「あなた、息子さんがどんな成績か知ってるの?今から勉強して間に合うはずがない」
「それはやってみなければ分かりません。どうしても許可がいただけないなら、一般試験を受けて進学させます」
「出来るものならやってみるがいい。どうやってやるつもりだ?」
「すぐにでも先生の自宅から出て、妻とアパートに住まわせます。柔道の練習を続けながら塾に通わせ勉強させます」
次男に向かって
「おまえはそれで良いのか?」
(俯いたまま)
「はい」
と答える次男。
A先生はついに感情を露にする。
「おまえは俺の恩を忘れてそんなことを言うのか!許さんぞ!」
「A先生、息子でなく私に言ってください」
A先生、私の言葉にはっとし、再び感情を抑える。
「本当は〇〇高校に行きたいだろうに理解のない親のお蔭でおまえの希望を叶えられない。おまえは本当に可哀想だなあ。。。うちから出ていくなら、Y県で柔道を続けるのは難しい。X県に連れて帰ったほうが良い」
「!?!????それは破門ということですか?それは勘弁してください。中学卒業まであと半年です。」
「私の言うことが聞けないなら仕方ない。すぐに出ていく方が良い」
「それは勘弁してください」
「いやいや、おたくの理解がないのだから仕方ないでしょう。Y県に残ってどこで柔道続けるの?そんな所はどこにもないでしょう。私の言うことに従えないなら、すっきりとX県へ出ていく。それがお互いのためでしょう。」
お互い感情を抑えながら今度はこの内容のやり取りが繰り返される。次男はずっと俯いている。いつまでも埒が明かない。
「では、A先生のおっしゃる通りX県に戻って、一般試験で☆☆高校を受験する場合、A先生の力で息子が柔道を続けることが出来ないように圧力をかけることはやめてください」
「私にそんな力はない」
「約束していただけますか?」
「だから、そんな力はないと言っている」
「分かりました。これまでお世話になりました。本当にありがとうございました」
「ああ、すぐに出て行ってください」
A先生に深々と頭を下げ、私は次男の手を引き、道場を後にした。
すぐに出ていけと言われたため、車中に残る祖父母、妻に顛末を伝え、一緒に次男の下宿している部屋へ荷物を取りに行く。
途中、A先生が他の父兄に大声で
「あの親は子供の希望を叶えてやれないバカ親だ。あの子の将来が大なしだ。可哀想だ!」
と言っている声が聞こえる。おそらく、わざと聞こえるように大声で話しているのだろう。
次男は他の部員と話している。部員達は一様に心配そうな表情をしている。
思いのほか、次男の荷物が多く一度では運び出せない。
明日、また運び出す分を残し、次男を連れA先生の自宅兼道場を後にした。
想定外の顛末に次男も黙ったまま。私はこれからどうやってこの状況を好転させたら良いのかずっと考えて運転していた。
突然、足元が大きく崩れたような衝撃に思考が安定しない。
運転中、パニック状態だった。
X県の自宅に戻り、元上司に顛末を報告する。
「よくぞ、子供を奪還した。良くやった。今は辛くて仕方ないだろうが、この決断は将来、きっと良い方向へ繋がるのは間違いない。それを信じて頑張れ」
と励ましてくれ、落ち込んだ心に随分と救いとなった。
一方で次男は
「転校はしたくない」
と言っている。それはそうだろう。何とか転校しないで良い方策はないものかと考えるが妙案が浮かばない。
明日は残りの荷物を引き取りに行かねばならない。
また、A先生と対峙するのか。。。。。
気持ちは沈んでいくばかりだった。
9月15日
次男を祖父母に預け、妻とY県のA先生宅へ残りの荷物を引き取りに行った。
A先生は不在であることを願ったが在宅であった。
荷物を引き取りに来たことを告げると、昨日とはうって変わった笑顔で
「連れ戻してらっしゃい。また、一緒にやっていきましょう。高校は〇〇高校へ進んでもらって、大学進学の時は希望通りにしましょう」
と握手を求めてくる。
昨日は
「バカ親」
とか散々だったのに。
私は
「ありがとうございました」
と握手した後、何も言わず荷物運びを始めた。
帰りの途中、妻からA先生の奥さんから散々睨まれたことを聞いた。
今後、A先生とは関わりたくない、いや絶対に関わらないと決心した。
次男は1週間、祖父母が大分に連れ帰って面倒を見ることになった。
お互い頭を冷やして今後のことを考えたいと思ったことと、X県にいては次男にA先生からアクセスがある可能性があると考えたためだ。
いやそれ以上に次男が自分の意思でA先生の元へ戻ることを不安に思ったのだ。
次男を祖父母とともに大分へ送った後、元上司へ今後のことを相談に行った。
・一般試験で☆☆高校に進学させたいこと
・次男が転校したくないと言っているのでY県にアパートを借りて妻と卒業までいさせようかと考えていること
を伝えた。
「あのな、息子さんの転校したくないという希望は心から理解する。しかし、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。Y県に残ったらA先生の思うつぼだぞ。そうしたら、これからもずっとA先生の思うがままになってしまうぞ。絶対にY県からは離れないといけない。絶対にだ。息子さんと話し合って転校させること。まずはしっかりと生活基盤を整えることが先決だ。その後、一般試験で受験させるための学力を身に着けるにはどうするか考えるんだ。まずはしっかり勉強させろ!勉強させればきっと道は開けてくる。これまで柔道しかしてこなかったと言ってもおまえの息子だろう?きっと頭は良いはずだ。自分の息子の底力を信じろ!」
私は元上司の激に涙を流した。そして、次男を信じて頑張って行こう、なんとしても次男を志望校に合格させようと決心した。
2016年9月17日
私は3連休を利用し、大分へ向かった。次男と今後について話し合うためだ。
次男はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
3日間、次男とゆっくり話合った。
転校についてはなかなか納得しなかったが、一般試験で☆☆高校を受験するために勉強することについては同意したので、早速、英語と数学の問題集を購入した。
そこで改めて厳しい現実を再認識した。
次男の学力は想定以上に低かった。。。。。
私は再び奈落の底へ落ちる思いだった。
9月22日
次男が大分から戻って来る日だ。
空港で次男の到着を待っていると会社の同期であり親友でもあるKから連絡があった。
Kには次男のこれまでの顛末を報告していた。また、次男のこれまでの活躍をいつも喜んでくれていて
「高校生になって東京で試合がある時は応援に行くから教えてくれよ」
と言ってくれていた。
電話に出るなりKから
「俺も一緒にA先生に謝りに行くからもう一度息子さんのことを頼もうや!」
という思いもかけない言葉があった。
「いや、K、心配してくれているのは本当に有難いが、A先生とは関係を絶たないといけないんだ」
「そうなんか。おまえがそう言うなら仕方ないな。これから大変だと思うが頑張れよ」
またしても涙が出そうになった。Kよ、おまえはなんて良い奴なんだ。次男のために東京からわざわざ駆け付けるなんて。。。おまえという存在にいつも救われているよ。
次男が大分から戻った日に初めての塾へ向かった。
その塾の先生(以降、H先生)はこれまでの事情を説明したところ、熱心に話を聞いてくれた上で関西圏内の柔道強豪校の偏差値リストを作成してくれた。
当初は別の塾に行く予定であったが、想定外の熱心な勧誘に半ば負けたような形でその塾に入塾することになった。
塾では簡単な入塾テストを行った。H先生から
「偏差値は大体47位ですかね。英語は現在形、過去形、未来形の理解も怪しいですね。数学は、う~ん、かなり厳しいですね。☆☆高校へ合格するには偏差値58が必要です。これから頑張りましょう」
と言われた時は実質的にあと半年もない状況で偏差値58に届くのか???と絶望的になった。
とにもかくにもこの日から次男の初めての塾通いが始まった。
その塾は個別指導塾である。なぜ個別指導塾にしたのかというと集団指導塾では講義についていけないと考えたからである。
英語、数学、国語ともそれぞれ週2コマづつの設定とした。1コマ90分である。
これまで家庭学習は1秒もしたことがない次男にとっては苦難の道である。
だが、更に苦難の道があった。転校である。
9月26日
転校先の先生には手紙で事情を説明していた。
先生からは
「一度、お子さんを連れて来てください」
と言われたので次男と転校先中学校へ向かった。
中学では副校長先生と中学3年の主任の先生が対応してくれた。
主任の先生は
「柔道で近畿大会優勝と聞いていたからどんなごつい奴が来るのかと思ってたのに普通ですね」
と言う。
副校長先生からは
「うちは公立中学なのでどんな生徒でも受け入れます。でも、受け入れるからにはしっかり学校へ来ていただかないといけない」
と言われた。
主任の先生から希望進路を聞かれた次男が
「☆☆高校です」
と答えると
「この地域から☆☆高校へ進学したのはこの10年で1人だけやな。その生徒はラグビーで進学した」
とのことだった。
10月3日から通学することを約束し学校を後にした。
転校を前に次男の勉強は始まっていた。
元上司から個別指導塾への通塾開始を伝えると
「塾がない日はおまえが教えろ。高校受験なんて楽勝だ。おまえが勉強スケジュールを組んでしっかり勉強のやり方から教えてやれ」
と言われ、その通りに実践を始めていた。
毎日の勉強スケジュールを作成し、休日はもちろん、平日も仕事から帰宅後は次男の部屋に籠って勉強を教えた。
参考書、問題集は全ての教科について塾の基礎教材を活用した。
塾では別の教材を使って教えてもらい、家では基礎教材を使い勉強した。
中学3年のこの時点まで全く自宅学習をしてこなかったので、中学1年の勉強から復習することとし、塾には全ての教科で中学全学年分をカバーする教材を用意してもらった。
勉強の進め方や教材選びはC先生と綿密に相談した。
受験までに全教科の教材を最低3周させないと本当の実力は身につかない。
妻にコピーセンターで全教科の教材をコピーしてもらった。
妻とは
「私は勉強のことは良く分からないけど、これから一生懸命勉強して☆☆学校へ行けるの?」
「厳しいがやるしかないわ。内申点のある公立の進学校はまず無理やろうな」
という会話もあった。
妻は次男が戻ってから勤めていたパートを休み、次男の世話に専念していた。
使用した教材は前半で学習内容の解説を行い、後半で問題演習を行うという構成だった。
早速、教材の1周目のコピーを渡し勉強を開始していった。
勉強を教え始めて分かったことだが、次男は英語、数学はまるでダメだったが、国語、理科はまあまあ、社会は得意であったということだ。
塾では
「偏差値47」
と言われたが、5教科総合なら52位かな?と思う。
社会は
「興味があるので授業を聞いているだけで自然と頭に入る」
らしい。
逆に数学は
「教科書を見るのも嫌だ」
と言う。
これまで柔道ばかりで成績表もろくに見ていなかったので私も初めて知った事実だった。
元上司からの指摘通り、私もどうかしていたと猛省する。。。
勉強時間はまずは平日4時間(塾含む)、休日8時間を確保するスケジュールとし、就寝前の英語の音読を必須とした。
この毎日の英語の音読が後に大きな飛躍につながる。
そして、大阪大学合格の大きな原動力となる。
勉強を開始するにあたり、次男から希望があった。
「週に何度かは柔道の稽古をしたい」
というのだ。
そこで、X県の先生(以降、B先生)に連絡し事情を説明した。
「分かりました。私の先輩にお願いしてみましょう」
と快諾していただいた。本当に有難かった。
10月1日
午前中にB先生に紹介いただいた高校へ柔道の稽古に行く。
B先生にもご同行いただいた。
最近は柔道部員が減少しているため、定期的に行っているこの地区の公立高校柔道部の合同稽古のようだ。
いくつかの高校から参加しているがそれでも20名もいない。
2人で参加している高校もあった。
約2週間ぶりの稽古に次男も緊張している。
次男のことをB先生から聞いている各校の先生方が次男の柔道を注目している。
しかし、久々で動きがイマイチ。得意のコンビネーションも決まらない。
B先生からも
「稽古してないからか動きが悪いね。高校で活躍するにはもう少し技のバリエーションが欲しいね。」
と言われる。
最後まで調子の出ないまま、稽古は終了した。
帰りの車中でも言葉が少ない次男。
稽古の帰りに高校の柔道部顧問の先生から
「いつでも稽古に来てもらって良いよ」
と言われたが、この日以降、次男が稽古に行きたいということも行くこともなかった。
10月3日
午前中、会社を休み次男と転校先の中学校へ向かう。
次男は大緊張している。
主任の先生から担任の先生を紹介いただいた後、
「では、ここからは我々の役割となります。お父さんはご帰宅ください。全てお任せください」
と言われ学校を後にする。
帰宅後も妻ともども落ち着かない。
夕方、会社で仕事中に担任の先生から連絡をいただいた。
「息子さん、凄く緊張していましたが、クラスの仲間が本当に温かく迎えてくれたので落ち着いたようですよ。息子さんが挨拶した後はみんなで「うわ~、よろしく!」と拍手があったり、男子生徒が腕相撲を挑んで負けて「スゲー、強ええ!」って驚いていたり。帰りも方向が同じ生徒と一緒に帰りましたよ。お父さんもお母さんも安心してください」
涙が止まらなかった。良い先生や仲間に温かく迎えてもらったのだなあと。事前に上手に段取りをしていただいた先生には感謝してもしきれません。
こうして次男の新しい中学生活が始まった。
卒業直前に新しい環境に飛び込むこととなった次男の苦しみは想像を絶する。
本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。
他に何か良い手段があったのではないか?
俺の行動は間違っていたのではないか?
何度そのように思ったことか分からない。
体重も激減し職場のメンバーから心配の声もあがった。
しかし、その度に元上司からの激を思い出した。
「おまえが取った行動は大正解だ。息子の人生を他人に委ねる親がどこにいる?おまえの息子の人生の責任を取るのはおまえだ。まずは勉強させろ。そうすればきっと明るい道が開けてくる。今は先が何も見えない暗闇の中で不安しかないだろう。だから、必死に勉強させろ。絶対に明るい未来が待っている。息子とおまえ自身を信じてやり遂げろ」
一番苦しんで辛かったのは間違いなく次男だ。
私の苦難などは次男に比べれば全く大したことはない。
新しい中学校では担任の先生や諸先生方、友達が次男をずっと支え続けてくれた。
普段は人見知りで大人しい次男に何かにつけて声を掛けてくれたそうだ。
本当に有難く感謝してもしきれない。
次男は卒業まで1日も休まず新しい中学校へ通い続けた。
10月11日
転校早々、2学期の中間試験が始まった。
X県の高校入試は内申点の比重が高いため、定期考査は非常に重要となるが次男は私立を受験予定のため中間試験は重要視していない。
とはいえ、塾でも家でも中間試験中はその対策に集中した。
結果、360/500。
私の想定を上回る結果だった。
高校受験は大学受験と異なり、基本的に中学の先生がOKを出さなければ志望校を受験することが出来ない。
私立受験にあたってはX県の先生は実力テストの成績を重要視する。私立高校への受験を目指す次男はこの実力テストで良い成績を残さなければ希望する☆☆高校を受験することが出来ない。
その為、10月下旬に実施される実力テストを目標に勉強を進めることとし取り組んだ。
塾のH先生からは、ある校外模試の受験を勧められていた。
「私立高校はその模試の成績を判断材料としている。私立受験の大きな目安となるので受験した方が良い」
というのだ。しかし、その模試は問題が難しいため、今の次男ではかえって自信を失くす結果になると思い10月の受験は差し控えることとし、11月上旬に受験することとした。
勉強を教える中で最も苦労したのが数学である。
次男は最も数学を苦手としていたため、最も時間を割く必要があった。
塾では元教師の先生や大学生の先生から個人指導を受けていた。
塾の送りは妻が行い、迎えは会社からの帰宅後、極力私が行い車中で色々な話をしたのだが、次男の表情が徐々に変化していくのが分かった。
これまで柔道の世界しか知らなかったが、
「大学生の先生から大学での色々なイベント・出来事を聞いたわ。大学生って最高やなあ」
と嬉しそうに話すようになった。
また、同世代の生徒達が一生懸命勉強している姿にも大きな刺激を受けたようだ。
私達が暮らすX県のN市は関西でも勉強が非常に盛んなエリアであり、実際に塾からの帰りの道中だけでも8つの塾があった。
「それぞれの塾でみんな頑張っているんやなあ」
「そうやなあ」
という会話もした。
私も自分自身の大学時代の記憶を次男に面白おかしく話して、次男が少しでもリラックス出来るようにした。
次男が通った個別指導塾では毎回の講義毎に勉強の進捗状況や生徒の様子等についてのフィードバックがある。
そのコメントを見ると
「非常に集中力がある」
「上手く進捗している」
との内容が多かった。
H先生からも
「やはり柔道で培った集中力が凄いです。どんどん学力が伸びていますよ」
と言われていた。
こうしてこれまで知らなかった新しい世界に触れた次男は大きく変化していくのだった。
10月に入って以降、実はいくつかの柔道強豪校からオファーをいただいていた。
やはり、柔道の世界は狭いようで事情を知った先生から
「うちに来ないか」
と連絡があったのだ。
次男を柔道部に入れるな!というA先生からの圧力も実際にあったそうだ。
全く呆れるしかないが、そういう世界なのだろう。
「そんなの関係ないので。是非、うちで頑張ってください」
と言ってくれる先生ばかりで本当に有難かった。
東京で大学生活を送っている長男からも何度か連絡があり、次男の進路を心配していた。
「俺は高校で空手を辞めたことを後悔したからそんな思いはして欲しくないわ」
と言っていた。
(長男は中学時代までフルコンタクト空手の大会で何度も優勝していた。極真時代のある力士とも対戦)
次男にオファーのことを伝えると最初は嬉しそうにしていたが、徐々にそっけなくなっていった。
そして、当初は☆☆高校への進学を希望していたが、10月下旬になると
「☆☆高校より勉強のレベルの高い§§高校へ行きたい。スポーツ枠ではなく一般枠で入学して柔道する。§§高校ならそのままΣΣ大学へ進学(関関同立の中の大学)出来る。俺も高校時代は文武両道で頑張って関関同立クラスの大学へは行きたい」
と言い始めたのだ。
塾のH先生からは
「§§高校は偏差値61だから、まずは☆☆高校を目指そう」
と言われたが、次男の頭にはもう☆☆高校はなかった。
ここから次男の快進撃が始まる。
11月1日
勉強開始して約1ヶ月。運命の実力テスト。
ここである程度の結果を残さなければ志望校の受験が難しくなる。
祈るような気持ちで結果を待った。
次男の感触では数学以外はまずまずのようであった。
結果は、381/500。
これもまた私の想定以上の成績であった。
担任の先生から
「公立高校の受験も視野に入れませんか?期末試験の成績次第ではΣΣ高校や¶¶高校を目標に出来ますよ」
という提案があった。
「最近は☆☆高校ではなく、§§高校に行きたいと言っています。関関同立以上の大学に行きたいそうです」
と伝えると
「そうですか。色々と考えが変わってきているんですね。何かあれば相談してください」
次男に伝えると「期末試験に向けて頑張るわ」とだけ言うのみだった。
11月13日
校外模試。
次男にとって初めての校外模試であった。
試験が終わり迎えの車に乗り込むなり
「くそ難しかった。初めての模試で頭が真っ白になった。全然ダメやわ」
とかなり落ち込んだ様子であった。
やはり、少し早すぎたかと後悔した。
「気持ち切り替えて、帰って少し休んでまた勉強や」
勉強を開始して約1ヶ月半になろうという頃、大きな変化を迎えようとしていた。
11月中旬
次男にオファーを出していただいている高校の先生から中学の先生へ正式に挨拶があったと連絡があった。
次男が希望すればスポーツ推薦枠でなく一般枠として優先的に扱っていただけるそうだ。有難い話だ。
それと合わせて次男が希望する§§高校についても柔道の実績と実力テストの成績から次男が希望すれば一般枠でも入学が可能とのことだった。
塾のH先生に相談すると
「それは非常に良い話ですね。§§高校を希望しているなら是非、この話を受けてはどうでしょうか」
とのこと。
次男はさぞ喜ぶかと思いきや、あまり興味を示さない。
つい最近まで明確に
「§§高校に行って柔道がしたい」
と言っていたのに。
勉強を始めて1ヶ月半で次男の思考は大きく変化していた。
担任の先生から次男に上記2件の確認があり、家族会議を開いた。
次男の言葉はまさに想定外の驚くべきものだった。
「俺、柔道は辞めるわ。大学は勉強で行くわ」
思わず妻と顔を見合わせ、次男に何度も意思を確認した。
次男は
「高校で柔道はやってられんわ。俺は勉強で出来るだけ上のレベルの大学を目指すわ」
と言い切った。
つい1ヶ月前までは想定も出来なかった展開である。
すぐにオファーをいただいていた先生に断りの連絡をした。
担任の先生にも§§高校への推薦をお断りした。
先生は
「本当に思考がどんどん変化していますね」
と言っていた。
次男は完全に柔道の実績による高校進学という退路を断った。
実はここまでのことを事前に予想していた人物がいた。私の尊敬する元上司である。
元上司は私が10月上旬に相談に伺った際にこう言っていた。
「いいか。これからどんな状況に変化するか俺の予想だぞ。おまえの息子はスポーツで全国レベルの非常に優秀な成績を収めている。また、おまえの息子なので頭は良いことを前提に考える。まず、勉強を始めると勉強の大切さに気付き、勉強に集中するため柔道の練習に行きたいなんて言わなくなる。その後、持ち前の頭の良さとスポーツで培った集中力を武器に爆発的に成績が伸びていく。そうすると勉強が面白くなって、高校で柔道部に入るなんて言わなくなる。最後、入試前にはどこの高校にでも入れる位の学力がついている。もし、夏休み前から勉強を始めていたら間違いなく地域トップ高校へ入れるレベルに達していたと思う」
この話を聞いた時、正直、私はこの予想を全く信じることは出来なかったし、私を励ますために言ってくれていると考えていた。また、その予想に縋る余裕もなかった。しかし、信じられないことに元上司の予想はここまでは完全に当たっていた。
元上司に次男が高校では柔道をやらないと言っていることを伝えると
「やっぱりそうだろう。俺の予想通りだな。これから爆発的に学力が伸びるぞ」
と笑いながら言うのだった。
11月下旬
校外模試の成績が返却された。
5教科313/500。偏差値61.3。(国語60、社会87、数学37、理科64、英語65)
塾のH先生も驚いていた。
次男が希望する§§高校の可能性判定も専願でAだった。
「やはり柔道で培った集中力の賜物ですかねえ」
と驚くH先生。
H先生が
「一般で§§高校受験する?」
と次男に聞くと
「いや、§§高校には行きません。期末試験頑張ります」
次男の頭にはもう§§高校もなかった。
11月21日
勉強開始から丁度1ヶ月半。期末試験が始まった。
ここで成績を残せば中堅公立高校進学の目が出てくる。
もしダメなら内申点の関係のない私立の中堅高校以上を目指そうと話していた。
次男はこの時点で完全に中堅公立高校進学を目指していた。
内申点は10月の中間試験と今回の期末試験の成績でほぼ決まる。
10月の中間試験の成績では期末試験でどんなに好成績でも地域のトップ校には到底届かないし準トップ校も非常に難しい。
次男が現実的に目指すのは地域3番手校(ΣΣ高校や¶¶高校)だった。
地域3番手校なら関関同立クラスに多くの進学実績がある。しかし、4番手校になるとかなり厳しい状況になる。
そのためにもかなりの高得点が必要である。
また、X県は副教科の内申点が相当に重要になるため、これまでノーマークだった副教科の成績も残さないといけない。
5教科だけでなく副教科の対策も行うのは本当に大変だった。
正直、私が音を上げそうになった位だ。
しかし、次男は最後まで諦めなかった。粘り強く弱音も吐かずにやるべきことを愚直に懸命に取り組んだ。
そして、結果は塾のH先生曰く
「これなら必ず地域3番手校(ΣΣ高校や¶¶高校)を目指せる内申点は貰えますよ」
次男は
「よっしゃ~、これからも頑張るわ」
とあの事件以来、初めて感情を露にして喜んだ。
12月に入っても次男の塾通いと家では私とのマンツーマン指次男が私に希望したのは、
「受験までにもっと多くの校外模試を受けて会場の雰囲気や試験問題に慣れたい」
ということだった。
前回初めて校外模試を受験し会場の雰囲気に飲まれたことの反省だろう。
私は塾のH先生にも相談し、12月以降の校外模試のスケジュールを確認した。
12月11日
12月28日
1月11日
1月22日
今後、受験可能な模試は4つだった。H先生からは
「2月の受験直前期にはうちの塾でも5回の対策模試を実施します」
とのこと。
次男に確認すると「全部、受験するわ」即答だった。
自宅では私とのマンツーマン指導が続いた。
指導で一番苦心したのは依然として数学だった。
次男は中学2年時点で数学がほとんど分からなくなったらしく、簡単な計算問題すらミスを繰り返した。
特に関数の問題はチンプンカンプンのようだった。
今回の大阪大学受験でも「2次の数学が出来んかった」と頭を抱え、最後の最後まで数学に苦しめられることとなった。
合格が決まった後は
「俺は二度と数学の勉強はやらんわ」
と言っていたので、相当な苦労があったことだろう。
数学については、朝の登校前にも毎日15分の計算ドリルを課した。
一方でグングン実力を伸ばしたのが英語だ。
最初は現在、過去、未来、三単現さえ怪しかったことが嘘のように成績を伸ばしていった。
大阪大学受験でも
「数学の失敗を英語がカバーしてくれた」
と言っていたので、次男にとって英語は相当思い入れのある教科となったと思う。
この時期も平日4時間30分の勉強時間を確保したが、体調管理を考え起床7時10分、就寝23時30分を徹底した。
当時のスケジュール(平日:塾なし)
7:10 起床
7:10~30 朝食
7:30~45 計算ドリル
7:45~8:10 登校準備
8:10~16:30 中学校
16:30~17:00 帰宅後着替え、片付け等
17:00~18:00 勉強
18:00~18:45 夕食、自由
18:45~19:45 勉強
19:45~20:30 風呂、自由
20:30~21:30 勉強
21:30~21:45 休憩
21:45~22:45 勉強
22:45~23:00 休憩
23:00~23:20 英語音読
23:20~23:00 歯磨き、トイレ
23:00 就寝
平日、休日とも毎日、私が勉強スケジュールを組み立てた。
一番考慮したのは、やはり数学対策である。
このままでは入試で大きく足を引っ張ることは明確であったため、少なくとも毎日1時間以上は数学の勉強時間を確保した。
休日には特に集中して数学対策に時間を割いた。
しかし、いかんせん、なかなか成果が出ない。
数学とは一部の例外(数学センスの塊)を除き、少しづつの積み上げを辛抱強く何度も何度も繰り返していく教科であることを再認識させられることとなった。
12月の中旬に中学校での面談で内申点の開示があり、なんとか地域3番手校受験の許可をいただけた。
次はΣΣ高校と¶¶高校のどちらを第一志望とするかだ。
偏差値は¶¶高校が少し上。担任の先生も
「どちらでも良いですよ」
とのこと。
ΣΣ高校は自宅から近く徒歩通学となる。¶¶高校は電車か自転車通学。
ΣΣ高校は国公立大学への進学は少ないが関関同立クラスへの合格実績はまずまず。
¶¶高校はΣΣ高校よりも国公立大学への進学実績は多い。
次男はあまり迷うことなく
「ΣΣ高校にするわ」
と決めた。
やはり通学が楽なことが大きな理由であったようだ。
同時に私立の受験校もほぼ確定する。
これで後は迷わず志望校合格に向け突き進むのみとなった。
12月の校外模試の結果である。
12月11日
5教科304/500。偏差値62.7(国語60、社会68、数学30、理科77、英語69)
12月28日
5教科348/500。偏差値60.8(国語80、社会88、数学34、理科66、英語80)
正直、12月は少し足踏み状態であった。
改めて見ても数学はひどい。。。。。
一方で英語はドンドン成績が向上し、もはや得意科目にまでなった。
この成績でも私にとっては当初の想定を大きく上回るものであったが、次男は
「くそ~、成績が伸びんわ!」
と嘆いていた。
その度に
「おまえ、まだ勉強初めて2ヶ月ちょっとなんやぞ」
と繰り返すのであった。
冬休みは塾の冬期講習である。
それこそ、毎日のように塾へ通った。
多い日は4コマの集中講義もあった。
この頃になると顔つきがすっかり受験生になっていた。
「柔道辞めて太ると思ったけど、全く太らん。勉強を一生懸命やってるからかなあ」
「脳で大量のエネルギーを消費してるからかもなあ」
塾の送り迎えではそんな会話もあった。
塾のH先生とは
「受験前なのに案外、国語の授業を疎かにする生徒さんが多いんですよ。国語ってなかなか実力がつかないし、すぐに実力が下降しがちなんですけどねえ」
「うちはそんな余裕がないので、英語も国語も数学も全力投球でいくしかないですよ」
「英語も国語も随分伸びましたねえ。あとは数学だけですねえ。」
という会話があった。
冬休み期間は多くの生徒が塾で勉強に励んでいた。
その中に次男の姿があることを未だなんだか不思議な思いで見つめるのだった。
年末年始も大晦日の夕方から元日の1日を除き、勉強に集中した。
また、この頃になると、私のマンツーマン指導もなくなった。
次男も勉強のやり方を完全に覚えて私が付きっきりで教える必要がなくなってきたからだ。
勉強のスケジュールは私が組んだがそれに従って一人で勉強し、必要な時に私を呼ぶというスタイルに変更した。
夏休みは1秒も勉強もせず(宿題も未提出だったらしい)、柔道に明け暮れていた。
近畿大会、全国大会にも出場した。
柔道の推薦で高校進学することを疑わなかった。
高校でも
「インターハイ上位入賞を目標に頑張りたい」
と言っていた。
たった3ヶ月前までは。
それが冬休みは勉強に明け暮れた。
冬休みの期間にこれまで3ヶ月で積み上げた基礎に磨きをかけ、問題演習も多くこなした。
本来は夏休みにやるべきことを冬休みに急ピッチでやったことになる。
塾の迎えの時に車で待っていると、次男と先生が連れ立って3階の講義室から2階の受付へ降りてくる姿が見える。
最初の頃は緊張した様子であったがこの頃は随分とリラックスして楽しそうに先生と話をしている。
そんな次男の様子を見るのがとても嬉しくとても有難かった。
2017年1月11日
あっという間に冬休みが終わり、すぐに校外模試。
5教科376/500。偏差値63.8(国語96、社会85、数学48、理科65、英語82)
数学はなかなか厳しい状況が続くが他の教科が伸びてくる。
ここまでは完全に文系型やな~と改めて思う。
次男は
「まだ400点に届かんわ!嫌になるわ!」
と不満たらたらであった。
1月21日
最後の校外模試
5教科405/500。偏差値66.3(国語78、社会88、数学77、理科81、英語81)
ついに400点を超えた。数学も飛躍的に伸びた。これで見かけ上は苦手科目がない状況になった。
塾のH先生からも
「これなら余程のアクシデントがない限り受験は大丈夫ですよ」
との太鼓判をいただいた。
2月に入り、私立高校の受験に突入する。
2月10日 私立高校受験
2月13日 合格発表
まずは行き先を確保した。
ひとまず安心。
受験前1ヶ月となり、塾も最後の追い込みに入る。
毎週土曜日に塾内で受験の予想問題を使った模試が実施された。
第1回 411/500(国語85、社会90、数学67、理科84、英語85)
第2回 434/500(国語92、社会88、数学74、理科91、英語89)
第3回 428/500(国語86、社会94、数学71、理科86、英語91)
第4回 451/500(国語96、社会98、数学76、理科90、英語91)
第5回 453/500(国語93、社会96、数学81、理科88、英語95)
「偏差値70超えましたね。内申点なしなら県内でいけない公立高校はありません。地域トップ校へも上位合格出来ます」
H先生も驚きを隠さない。
「こんな生徒は私にとっては初めてです」
元上司の予言がまたしても的中した。
3月12日公立高校受験。
体調が万全であれば合格は間違いないとは思っていてもやはり心配は尽きない。
受験終了後に次男が発したのは
「数学で少し分からない問題があったけど、あとは大丈夫やろう」
だった。
3月19日合格発表。ΣΣ高校に無事合格だった。
本当に良かった!
後で分かったことだが、
452/500(国語92、社会94、数学79、理科91、英語96)
の成績で校内トップ合格、県内でも100位相当だった。
「1科目も100点取れんかったんか!」
と言った次男は半年前とはまるで別人になっていた。
受験終了後も高校進学を見据えて何度かH先生の塾に通ったのだが、その時に大学生の先生から
「大学はどこに行きたいの?」
と聞かれたそうだ。次男は
「取り敢えず、兄ちゃんとお父さんは超えたいと思います」
「へ~、具体的にはどこ?」
「お父さんを超えるために大阪大学に行きたいと思います」
と答えたと笑顔で教えてくれた。
「そうかあ。阪大に行けたらええなあ」
私は涙を堪えるのに必死だった。
半年間お世話になった個別指導塾についての後日談である。
次男の高校生活が始まって1ヶ月あまりが経過した頃、次男から
「俺が通ってた塾の別の教室に高校の友達が通ってるんやけど「入塾の時の偏差値が47だった生徒がたった半年で、入試で450点を超えるまでに実力を伸ばした」っていう内容で新しい生徒獲得に向けてPRしてるらしいわ。これって、俺のことやんなあ」
「絶対にそうやわ。塾の伝説になったなあ」
2人で大笑いしたのだった。
受験結果を元上司に報告した。元上司も喜んでくれた。
「本当に予言が全て的中しましたよ。そのことに一番びっくりしました」
「そうか。まあ、俺も全部当たるとは思ってなかったよ。それだけおまえの息子が優秀だったのだな」
と笑っていた。
次男が大阪大学に行きたいという話をすると真面目な顔で
「俺の後輩か。そうか。おまえを超えたいなら、次に目指すべきは大阪大学だろう。当然だ」
こうして次男の高校受験は終了した。
次男の次なる目標は大阪大学となった。
私はこの時点では数学の必要ない早慶に行ければなあと考えていた。
しかし、次男は敢えて数学が必須の大阪大学へ行きたいと言う。
ならば必要なのは戦略である。
数学を苦手とする次男にとって大阪大学合格は並大抵のことではない。
それは大阪大学には届かなかった私自身が経験し良く理解している。
しかも、次男が進学する高校は難関国立大学を目指すような高校ではない。
関関同立クラスを目指す高校である。
高校だけに頼っていてはとても大阪大学には届かない。
次男に確認した。
「本当に大阪大学を目指すのか?」
「うん、お父さんを超えたいしな。それにかっこええやん、阪大!」
「かっこええけど阪大は相当難しいぞ。今からしっかり勉強せんといかんわ。早速、塾の春期講習に行かな。進学校の生徒は高校入学前からしっかり勉強しとるわ。ここからやとK塾かS台が候補かな。体験授業行ってみるか」
「もちろん行くわ!」
こうして、共に全国ネットワークの大手予備校であるK塾とS台の体験授業に行くことになった。
次男の感想。
「K塾がいいわ。家からも近いし(徒歩10分)。S台は私立の進学校の生徒が多くて俺は授業についていけんかもしれんわ」
元上司からは
「うちも娘(慶応)、息子(京大)ともS台だったから難関大学目指すならS台が良いのじゃないか」
と言われていたが、次男の意見を最優先した。
元上司のご子息がともに中学受験をして私立の超進学校に通っていたという事情も考慮した結果だ。
長男も大学受験の最後の数か月をK塾に通って成績を伸ばしたし、かなり古い話になるが私の大学の友人もK塾出身者が多かった。
しかも、自宅から徒歩10分!なんと理想的な場所にあることか!
次男と離れて暮らしている時に通勤電車から
「あんなところにK塾があるんやなあ。うちには関係ないけどな」
と思いながら眺めていた。
それなのにまさか次男が通うことになるなんて当時は夢にも思わなかった。
早速、K塾への入塾を決め春期講習を申し込み、入塾手続きのためにK塾K教室へ向かった。
K塾でも素晴らしい先生との出会いがあった。
K教室の教室長のN先生である。
N先生にはこれから大変お世話になることとなる。
初日にN先生と随分長い時間面接をした。
そこで次男のこれまでの受験経緯を説明。
N先生は非常に興味深そうに
「そうですか。それは大変な経験をしましたねえ。柔道の近畿大会優勝から随分と違う方向に進んだのですねえ。なかなか珍しいパターンですねえ。」
と頷きながら聞いている。
最後に受験結果を伝えた時には
「それだけの成績ならどこの高校でも合格でしたね。たった半年で凄いですよ!まさに文武両道ですね」
と言った後、
「それで、大学はどこを目指したいの?」
と笑顔で尋ねる。
「大阪大学に行きたいです」
と答える次男。
「大阪大学かあ、難しいよ。けど、凄く目指し甲斐のある大学やね。現役合格出来るように頑張ろう!」
「はい!」
こうして、大阪大学合格に向かって次男の高校生活が始まる。
高校では水泳部に所属し、部活や塾に休まず通った。
模試も1年の頃から積極的に受けた。
部活の試合も全てに出場した。
もっとも水泳は幼稚園時代のスイミング教室以来なので全く成績は残せなかったようだが、部活により高校生活で大切な仲間を得ることが出来たようだ。
次男の高校生活で私が手助け出来たのは学費と塾の費用位である。
あとは次男が自分で考え実践した。
その為、高校生活について私が記録すべきことはないが、センター試験から大阪大学合格までの顛末については少し記しておこう。
大阪大学受験にあたっての次男の理想はセンターで高得点を得、そのまま逃げ切りであった。
大阪大学経済学部の選抜方式は3つある。
A方式(センター9割、2次1割)定員65名
B方式(センター1割、2次9割)定員65名
C方式(センター5割、2次5割)定員68名
阪大経済のボーダーは85%。センターで9割を取ればボーダーを5%上回る。
A方式で逃げ切ろうという戦略だ。
センターまでの模試で9割を超えたことはなかったが、次男には本番では超えられるという勝算があったようだ。
結果は88.5%超。またしても数学が8割を超えられず足を引っ張る結果となった。
う~ん、次男よ、おまえは本当に数学で苦労するなあ。
この結果に次男は大いに悩んだ。
もちろん、阪大受験に向けて阪大受験講座の受講等、2次対策も可能な限り行ってきた。
K塾の阪大オープンでは冊子掲載された。
しかし、超安全志向の次男は目標の9割を達成出来なかったことで阪大受験に踏み切れずにいた。
ただ、今回のセンターは難化傾向だったため、文系5教科7科目の平均点が昨年度と比較し21点も下がった影響で大学のボーダーも軒並みダウン。
阪大経済のボーダーも85%から83%へ2%もダウンした。
このため次男のセンター得点率はボーダーよりも5%以上上回ることとなり、次男の戦略通りの結果となった。
この結果でも阪大か神大かまだ悩み続ける次男。
私は正直どちらでも良かった。次男に悔いのない決断をして欲しいだけだ。
私は過去の受験記録と次男のセンター得点率から阪大、神大合格最低点を取るためには2次でどれ位の得点率が必要かを纏めて次男に渡した。
5年分の過去合格最低点から阪大ではA方式で30~55%(年度により大きくバラつきがある)、神大では40~45%の得点が必要であった。
神大ではほぼ逃げきれる。阪大でもほぼ大丈夫と思うが、やはり神大よりレベルが上のため心配は尽きないのだろう。
K塾、S台ともセンターリサーチの結果では阪大A判定。順位も上位(20位台)だった。
次男の結論は
「阪大受験」。
「ずっと阪大行くために頑張ってきたんやから、ここで逃げて後悔したくないわ」
次男の最後の戦いが始まった。
2月に入って、M大、H大、D大のセンター利用合格と地方受験で受けたM大の一般入試合格が判明する。
「センターでマークミスがなかったということやな。安心したわ」
が次男の感想だった。
運命の阪大受験。
結果は。。。。。。。。。。。
「最悪やわ。数学が1完しか出来んかった。全く手ごたえがないわ」
と落ち込んでいる。さすがに掛ける言葉もなかった。
「掲示板でも数学簡単やったって書かれてる。俺は44点位しか取れてないわ。終わりや。。。。。」
実際、各予備校の講評を見ても阪大文系数学は明らかに易化だった。
まさに最も恐れていたパターンである。
次男が言う掲示板を見ると
「数学3完!」
「簡単すぎた!」
「合格者平均点80点超えやろ」
などの書き込みが並んでいる。
しかし、本当にそうなのか。
私は独自にA方式、C方式で試算してみた。
次男の数学の自己採点と英語、国語の想定点、掲示板の書き込みが正しいとした場合の他の受験生の数学の想定点等により試算。
その結果、C方式では苦しいがA方式ではなんとか合格しているという結果となった。
結果は次男には伝えなかった。
受験のプロでもない私の試算結果など、今の次男には気休めにもならない。
それよりもダメだった時のことを考えて後期の横国大受験に向けて次男のモチベーションを高める必要がある。
阪大受験の時と同様、過去5年分の合格最低点と次男のセンター得点率から横国大の2次で最低何点が必要かを纏めた資料を渡す。
「横国大経済の後期は英語だけやからな。おまえの大得意の英語だけやから。心配せんでも大丈夫やわ」
「うん。まあ、そうなんやけど、横国大も受かる気がせんわ」
次男の落ち込んだ様子を見る度に私も不安になっていく。
丁度、同じ頃、長男に想定外のトラブルが発生した。
私は思わず同期で親友のKに愚痴ってしまった。
Kもトラブルを抱え苦しい状況だったにも関わらず、随分と励ましてくれた。
Kよ、おまえって奴は本当に素晴らしいよ。
と同時に私自身の未熟さを思い知る。
結果発表まで落ち着かない日が続く。
次男は気持ちを切り替えて
「後期の横国大受験を頑張るわ」
と言うがモチベーションが上がらないらしい。
合格発表の前夜も暗い顔をしている。
そして運命の合格発表。
次男は結果を確認しようとすらしていない。
私も平静を装うが緊張が高まる。
発表15分前にいたたまれず、習慣になっている筋トレで気分を紛らす。
8時58分。居間のパソコンから合格発表のサイトにアクセス。
無事アクセス完了。
9時ちょうど。経済学部の結果をクリック。
心臓の鼓動が凄い。
画面を凝視して次男の受験番号を探す。
あった!!
「うわ~、やった!!」
私は思わずそう叫び、次男の部屋へ突入する。
突然の私の侵入に驚いている次男。
「おまえの受験番号は◎◎◎◎◎◎だな?」
「えっ!確認するわ」
次男の部屋を飛び出し、再び居間のパソコンへ向かう。
受験票を持って次男がやってくる。パソコン画面を見る次男。
「やった~。合格したわ。信じられんわ」
そう言ったものの、まだ事態が理解出来ないようであまり感情を表に出さない。
次男にプリントアウトした合格発表掲示板を渡し受験番号に蛍光ペンでマークする。
「確かに合格しとるなあ」
傍では妻が涙ぐんでいる。
私は1年半前から単身赴任しており、その期間、妻がずっと次男の体調管理に努めていた。
阪大受験から今までの期間は、妻にとっても長く辛く苦しい時間であったことは間違いない。
まだ実感は湧かないようだが、その後、大分のじいちゃん、ばあちゃん、親戚、高校の先生、塾の先生に報告する。
仏壇にも線香をあげて合格の報告をした。
みなさん、本当に喜んでくれたようだ。
次男の顔から徐々に緊張が抜けていく。
高校受験でお世話になった個別指導塾のH先生は
「本当ですか!凄い!私の教え子では2人目の阪大生ですよ」
と非常に驚いていた。
「最初、先生に「偏差値47です」って言われたんですがねえ」
「そうですよねえ。あれからよくここまで頑張りましたねえ。本当に凄いですよ」
その後、高校に行き直接、先生方に報告。
次男の高校から大阪大学への合格は4年ぶりということで随分と喜んでくれたらしく、なかなか帰って来なかった。
高校でも2次対策として英作文の添削をしてくれたりと大きな支援をいただいた。とても有難い。
「俺、ΣΣ高校に行って良かったわ。本当にそう思うわ」
中学の最後の半年間、次男の担任としてずっと支援してくれた先生にも挨拶に行った。
とても驚き、そして、喜んでくれたそうだ。
「Y県の中学時代の友達に伝えたら「おまえが阪大に???スゲ~!!あんなにアホやったのに信じられん!!」と絶句してたわ」
次男はそう言って笑った。
元上司も
「そうか。良かったなあ。俺の直属の後輩だな」
と言い喜んでくれた。あの事件の時、元上司のアドバイスがなければ今日のこの日はあり得なかったことだ。
あの事件の時、本当にどん底に落ちた気持ちだった。
こんなことが現実に起こるのか?と戸惑うばかりで、どう状況を改善すれば良いのか分からなかった。
その時、元上司から言われたのが
「勉強させろ!」
であった。
手をこまねいていても状況は何も変わらない。
状況が好転することを信じて懸命に何かに打ち込む、努力する。
当時の次男にとって、それこそが勉強だった。
あれから懸命に愚直に勉強した。
自分を信じてひたすら努力を続けた。
その結果が大阪大学現役合格だったのだ。
「俺、柔道辞めたことが正解だったのかって、ずっと心のどこかで引っかかっていたけど、阪大合格で全て吹っ切れたわ。これまで頑張ってきて良かった。本当に嬉しいわ」
次男にとっても私達家族にとってもずっとずっと心のどこかに引っかかっていた思いからやっと解放されたのだった。
5月になり、大阪大学の入試成績が開示された。
数学は50点をわずかに超える55点。国語75点、そして、英語がなんと88点!だった。
最後の最後まで数学に苦しめられ、そして、英語に助けられた結果となった。
結果、A方式での合格判定であったが、C方式でも合格最低点を上回る結果であった。
中学3年の10月時点では偏差値47と言われたのに随分と成長したものだと思わざるを得ない。本当に頑張ってきたのだなあ。
「まさか88点もとれてるなんて思わんかったわ。我ながら凄いな」
「やっぱり俺の予想通り余裕で合格やったんやな。心配して損したわ」
「いや~、ホンマにダメやと思ってたからなあ」
チャットアプリでのやり取りだったので次男の表情は分からなかったが、きっといつものように、“ニヤッ”と笑っていたに違いない。
本当に良かったな。
早くコロナ騒動が収まって憧れ続けた大阪大学で新しい友人達との楽しいキャンパス生活が始まるといいなあ。
心からそう思うのだった。
以上が次男の3年半に亘る大阪大学合格までの物語です。
駄文・長文に最後までお付き合いいただいた方がもしいらっしゃったなら、本当にありがとうございました。
ここではお世話になったにも関わらず諸事情を鑑み内容を記載出来なかった皆様もいらっしゃいます。
改めてお礼を申し上げたいと思います。
また、妻の従弟のMさん、私の母校の友人Fにも大変なご支援をいただきました。
本当にありがとうございました。
次男は多くの皆様のご支援・尽力により大阪大学へ現役合格することが出来ました。
最後に次男の大阪大学合格を天国の父と母に捧げたいと思います。
本当にありがとうございました。
終わり