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主馬は明日任務があると言って帰っていった。
この屋敷には、下働きの翁が一人働いている。夕餉をこしらえて一日の仕事を終える。暗くなる前に帰ってしまうと、広い屋敷には与六郎一人だけとなる。
下働きの翁がこしらえた夕餉のあと、二人で食器を片付けた。食器を藁で洗うのを、たくみは目を輝かせて「やらせてほしい」と言い、鼻歌交じりに洗っていた。未来人には何もかもが物珍しいようだ。食器の扱いもわからないし、夕餉に用意されたすべての料理について、材料や味付けなどを聞かれた。
見るもの触れるものすべてが新鮮だと言って、子供のように目を輝かせていたたくみの顔から、笑顔が消えた。
与六郎が、今後について切り出したからだ。利家の傍にいて、戦に同行すること。これが利家からたくみに言い渡された命令だった。
囲炉裏を挟んで、口を尖らせるたくみが、じっとり与六郎を見上げていた。
「言いたいことあるなら、言ってみろ」
子供に諭すように問うと、たくみは「やだ」と、つぶやいた。
「なにが嫌なんだ」
「利家様の傍にいること」
「戦に行くことは嫌じゃないのか」
「それはどーでもいい」
「どーでもいいって……命にかかわることだぞ」
「生き死にはいいの。身の危険の方が嫌なの」
「戦は身の危険の最たるものだろ」
「そーいう身の危険じゃない。同意なき身の危険」
「戦は同意があるのか……あー、言われてみれば戦う気でいるな、相手も俺も」
「そう、同じ方向を向いて同じように正々堂々戦う身の危険。それは大丈夫なの」
「たくみが言いたいのはあれか。利家様に抱かれる、身の危険か」
「そう。あたしはあっち向いてるのに、利家様はこっち向いてる。しっかり断ったのに」
「あのなぁ、殿様に見初められるのは本当に名誉なことなんだぞ? 望んだって叶わない女はごまんと居るってのに。そいつらに恨まれんぞ」
「世間の目はどうでもいいの。万人にウケようなんて思ってない。あたしは、あたしを理解してくれて、かつ、この心が大好きって叫んじゃうくらいラブリーな人と、ちょめちょめする」
「らぶりー?」
「素敵で美味しくて嬉しくて楽しいって思える人のこと」
「……おいしい?」
「とにかく。嫌なものは嫌」
「利家様のどこが気に入らないんだ。体つきがよくて背も高い。瞳は美しく、束ねたぬばたまの髪が揺れる姿など神々しいと思わないか」
「背が高くて体つきがいいのは知ってる。でも目は充血してたし髪はぼっさぼさだった」
「寝起きだったからだろ。その辺は大目に見ろ」
「いい男はね、寝起きもいい男なの」
酒臭くないし加齢臭もしないんだ。とたくみは付け加えた。
「かれーしゅーってなんだ」
「年とともに濃くなる脂っぽい体臭のこと。特に男の人に多い」
与六郎は、スンスンと自分の腕を嗅いでみる。
特に臭いはしないようだが。と、胸の内で思う。
「与六郎様は平気。いい男の匂い」
「それはどんな匂いだ」
「清涼感のある、甘い香り」
「それなら、」
と、天井を見上げた。梁には乾いた薬草がたくさん吊るされている。
「薬草の匂いだろ」
「ああ、薬草か」
たくみは納得したように頷くも、与六郎に笑いかけた。
「だからって利家様の部屋に薬草吊るしても、与六郎様の匂いにはならないと思う」
言いながら足を崩して、上目遣いに続ける。
「与六郎様だけの……匂い」
急に色っぽく言うものだから、与六郎はすすっていた白湯を吹き零しそうになった。
「突然妙な声音を出すんじゃない」
「妙って?」
「男を誘うような声ってことだ」
「誘われた?」
「まさか、んなわけあるか」
「そ」
くすくす笑っていたが。一息ついて、身を正し、面相を引き締めた。
「嫌なものは嫌なの。どうしたらいい?」
細長いどんぐりのような瞳が潤む。気丈に涙をこらえているのが、与六郎にも分かった。
「そんなに嫌か」
「うん」
「戦はいいんだな?」
「戦は大丈夫」
腕を組んで、与六郎は考えた。
殿様の毒牙を回避する方法を。
そしてすぐ、思いついた。
「ところで未来人てのは、どこからどうやって来たんだ」
「ざっと五・六百年くらい先の時間から来た。どうやって来たかは企業秘密」
「来たなら戻れんだろ? 帰ったら丸く収まるだろ」
帰ればいいだけ。と思ったのだが、たくみは首を横に振った。
「次の青い月まで無理」
「青い月って、清六の、あの与太話か」
「あたし人魚じゃないけど、青い月は正解」
「次の青い月はいつだ」
「わかんない。お日柄物でしょ?」
「古の暦があると聞いたぞ」
「あれこそ与太でしょ。暦なんか存在しないよ。自然現象的なもで、あたしの育った時代でさえ、周期が大体わかってるってだけ」
「利家様の話していた、織田の姫たちも、同じ方法で来たという事か」
もし同じ方法で来たのであれば……もしそうでなかったとしても、帰る方法を心得ているかもしれない。
たくみを殿様からも、戦からも遠ざけられる。与六郎は解決の糸口を掴んだ気がした。
「どうなんだろうね。よその女なんか関心ない」
いい考えを思いついたら、妙に胸が急いで、たくみの話も、まして声に元気がなくなったことも気づかないで、口を開いた。
「未来人同士、会えば得るものも――」
――あるかもしれないな。
言い終わらないうちに、たくみはつと、言った。
「織田様の姫が、気になるの」
冷めた声に、与六郎はハッと我に返った。
「この世のものと思えないくらい愛らしいって噂の女たちが、気になるの」
たくみの瞳から、大粒の涙が、ひとしずく。
そんなつもりは微塵もなかったが、与六郎は思った。
しまった、と。
得も言われぬ罪悪感が、胸を絞る。
女の涙に騙されない自負はあったし、冷たい、鬼、といわれようと、あの日から、女の涙に心がなびいたことは、一度もない。
なのに、無性に心が乱される。惚れた弱みを、久方ぶりに突き付けられて、持て余した。これはもう、素直に謝るしかない。
「すまなかった。謝るよ。だから泣いてくれるな」
乱れた心を微笑みで隠す。
「……何が、すまない、なの」
「織田の姫に興味はない。この世の者と思えない、なんて、前評判だけで実際会ったら大したことねぇよ」
「本当にそう思ってる?」
「思ってるさ」
「言い方、軽い」
「悪いな、もともとこういう言い方なんだ。直しようがないな」
「大人……ずるい」
「子供もおんなじだろ」
「あたし子供じゃないもん」
「ほぅ? 全部小さいけどなぁ」
「こ、これは……発展途上だから」
悔しそうに口をすぼめる表情も、めっぽう愛らしい。本当にたくみという女はずるい。
与六郎は、ぽんと膝を叩いた。
「よし、俺が何とかしてやる」
「ほんと!」
まつ毛の乾かぬ目を輝かせ、たくみは身を乗り出した。
「ああ。俺は嘘は嫌いだ。利家様と一緒に居なくていいように、明日から特訓だ」
「とっくん?」
「そうと決まれば寝るぞー。よい子は寝る時間でーす」
「はーい、たくみはよい子だから寝るー」
勢い任せだが、何とかなるだろう。
柄にもなく、たくみが笑顔で過ごしている未来を描いてしまう、与六郎だった。