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与六郎は、たくみを連れて城を出た。
清めて、診察して、次の戦までにイロハを教えるため、来た道を引き返していた。
利家に平気で食って掛かるたくみが暴れ出さないか心配なのだろう、主馬はたくみにくっついて、同行している。
必要ないと断ったが、無言で流された。
しかし意外なことに、主馬とたくみは会話が弾んでいた。
少し後ろを歩く二人の、軽快な話声を、と言ってもたくみの声ばかりだが、与六郎の耳が拾う。
「わぁ、主馬さん凄い」
「……」
「どうして、ねぇどうして?」
「……」
「自分で考えろ? ……あっ。袖が怪しいかも。夏なのに長袖着てるし。どれどれ、見してみ?」
「……」
「えぇ、ない! どこやったの?」
「……」
「ひみつ? ずるいって、気になって眠れないじゃん。種明かししてよー、お願い」
「……」
「わ、何それ、水晶? 水晶玉が吸いついてるみたい、不思議」
「……」
「やってみてもいいの?」
「……」
静かになったなと思っていたら。ごすん。と重たいものが落ちる音がした。
「主馬さんごめん! ごめん、ほんとにごめん」
たくみが必死に謝っていると、主馬の声がした。
「大丈夫。練習用だから。気にしないで」
普段ほとんど話さない、若くて寡黙な忍びが、塞ぎこんでいた童をあやして、言葉を発したから、与六郎は愉快な心持になった。
――今日は、想像がつかないことが、たくさんあるなぁ
見上げた空は、キラキラ輝いている。今日も暑くなりそうだった。
往来の人々は、与六郎と主馬に挨拶をして、それから、たくみに好奇の目を向けた。
そして皆、大体同じことを言う。
「その童、釣り上げなさったのかい?」と。
与六郎が太公望なのは、領民の承知しているところだから、言われても仕方がない。それにたくみは砂だらけで海藻も付けっぱなしだ。「まぁな」と適当に返して、ヘラりと笑みを向ければ、領民は安心したように去っていった。
釣り具屋の清六が、店先に水を撒いているところへ、通りかかった。
すると清六は挨拶もそこそこに、たくみを見て言った。
「昨晩は青い月だったから、人魚が釣れたんですねぇ」
噓か誠か。清六が意味ありげにくすっと笑ったことが、妙に気になった。
屋敷は目と鼻の先、早く帰りたいと思っていたのだが、与六郎はぴたりと足を止めた。
「青い月って、なんだ」
昨晩は疲れて、早々に寝てしまったから、夜空を見上げることもしなかった。そんな珍しい事象なら、城で噂になっていてもおかしくない。だが、誰もそんな話をしていなかった。星空を眺めるのが好きな、主馬もだ。
「漁師の暦ですよ。古のものだから、知っている漁師ももう、いないでしょうが。青い月の日は人魚が現れるという言い伝えがあるんですよ。その日の夜に漁をすると人魚に食べられてしまうとか、海に引きずり込まれるとか。まぁ、戒めみたいなもんです」
清六はからりと笑って、与六郎にペコッと頭を下げた。
それは、清六が頭を上げた時だった。たくみに向けた、一瞬の、不浄の物を見るような視線が、与六郎を妙に不愉快な心持にさせた。
やろう、と思ったわけではなかった。ごく自然に、つま先を清六に向けて一歩、踏み出した。
「この者は、利家様の近習として召し抱えられた」
一歩一歩、清六ににじり寄っていく。
「見慣れない着物を着て、ちぃと汚れているだけだ。俺らと同じ言葉を話すし、感情も豊かだ。へつらいもしない、威勢もいい。気に入りの童が人魚と知れば、殿様も喜ばれる事だろうな」
鼻面がくっつきそうなくらい距離を詰めた与六郎の笑顔は、有無を言わせない圧があった。
「だが、世に人魚と知れ渡れば横取りに来る輩が現れるかもしれない。人魚の血肉は不老不死とか言うだろう、だから、他言無用だ……日ノ本一の釣り具師の清六なら、わかるな?」
「は、はいっ、心得てますっ」
完全に気圧されてしまった清六は顔を引きつらせ、ペコペコ頭を下げて、後ろ歩きで店に引っ込んでいった。
「珍しいですね、与六郎様が感情を逆立てるなど」
こちらも珍しく、主馬が口を開いた。
「珍しいにかけちゃ、お前も同じだろ?」
「……」
「ははっ。責めてるわけじゃないよ。いいと思うよ、主馬が話すの、俺は好きだし」
普段ほとんど話さないのに、今日はたくさん話をしているから、珍しさついでに言わずにいられなかったのだ。
「……そうですか、」
口ごもる主馬は、「あたしも好き」と、たくみに畳みかけられて、照れくさそうに俯いてしまう。
可愛い弟分をからかうのはこれくらいにしておこうと思い、与六郎は歩き出す。
「利家様の喜ぶ顔が目に浮かぶなー」
歌舞くことが殊更好きな利家の、満面の笑みが瞼に浮かんだ。